楽園じゃない


 誰かの影響を受けて行動を変えられるほど私の心は柔軟じゃない。
 私を突き動かしていたのは誰かの存在ではなく、焦り。単純に切羽詰まっていた。時間がない。このまま停滞していては留年してしまうから、行動を変えなければいけない。ただ、それだけ。
 雪宮剣優のことは関係ない。
 
「雪宮、なんでいるの」

 数カ月ぶりの再会は図書室の奥に設けられた司書室の中だった。司書室と言っても名ばかりで、常勤の学校司書を置かなくなった現在は図書室用の物置になっている。私が課題のプリントを広げているカウンターテーブルは角が割れて剥がれているし、私が腰掛けているソファーは座面の角に空いた穴から黄色くゴワゴワとしたスポンジがのぞいていた。

「これ、返しにきた」

 雪宮は手に提げた紙袋を課題のプリントの隣に置いた。私は腰を浮かせて紙袋の中身を覗き込む。

「それ、プレゼントしたつもりだったんだけど」
「こんな途中半端な巻数だけ貰っても困るよ」

 紙袋の中身は漫画本だった。三巻から九巻。それは彼と最後に会った日に半ば押し付けるようにして渡したあの漫画本だった。

「なんでここがわかったの?」
「最近は保健室よりもここにいることが多いって先生から聞いて」

 その通りだ。司書室は私の新たな活動場所だった。
 手入れされずくすんだフローリング。古びた本の匂いと埃が混ざりあった空気。ブラインド越しの日差し。この空間にあるものはフィルターがかかったようにすべてが曖昧でぼやけている。そこが良かった。そして保健室のような潔癖な空間以外でも過ごせることがわかったのは大きな収穫だった。だからといって教室で授業を受けるに至っていない限り、留年の危機はすぐ背後に迫っているのだけど。

「わざわざ、漫画返すためだけに来たの?」
「うーん、まあ、そうだね。これは口実みたいなもの」

 彼の長い睫毛が緩やかなカーブを描き、ためらいがちに伏せた視線を縁取っていた。視線の先にはワックスの剥げたフローリングの床があるだけだ。
 「口実?」私の声に反応して雪宮の睫毛がふるりと揺れる。

「なんだか無性に会いたくなった」

 言葉から一拍遅れて彼の視線がこちらを向き、そこからさらに一拍遅れて困ったように微笑んだ。下手くそな微笑みだった。彼の中に渦巻く憤りが口元や目元や眉といった細部の筋肉に現れている。こんな表情を浮かべる雪宮は初めて見た。
 多くの女性は今の私と同じことを、あの雪宮剣優から言われればきっと胸をときめかせ舞い上がっただろう。けれど、このとき私は、命綱無しで深い暗闇の底を覗くような、肝の冷える思いで彼の言葉と表情を受け止めていた。

「一応聞くけど、なんで私なの?」
「うーん、苗字さんが一番共感してくれそうだから?」
「共感なんて求めるタイプじゃないでしょ、雪宮は」
「ひどいなぁ。俺のことなんだと思ってるワケ?」

 そう言って彼は私の隣に腰を下ろす。二人分の重みにベンチの木枠がぎしりと軋む。

「で、私に何を共感してほしいの?」

 わざわざ私の居場所を人に聞いてまで来るくらいだ。その憤りは些細なことではないのだろう。
 私の問いかけに雪宮は口を閉ざしたまま、眼鏡を外してカウンターテーブルに置き、疲れを癒やすように眉間を揉んだ。そのもったいぶるような仕草に私はやきもきとしていた。

「なんていうか、やっぱりな。って感じ」

 ようやく口を開いたかと思えば、雪宮の言いたいことは何一つとしてわからなかった。
 彼は「なにが?」と怪訝そうに尋ねる私に一瞬視線を向けてから小さく鼻で笑う。そして再びフローリングの木目を眺めた。

「結局さ、そこに至るまでの過程なんて誰も見てないし、注目が集まってるその瞬間だけうまいことやってるヤツが全部かっ攫っていくんだな、って」

 ベンチの座面に張られた厚手の平織り生地に雪宮の爪が食い込む。ささくれもなく短く切り揃えられた、しっかりと手入れされた爪だった。彼の手は微かに震えていた。

「勝利を掴むため、手段を選ばずに<セコいヤツが勝つ世界>に迎合したとして、そうまでして得られた勝利は、果たして勝利って呼べるんだろうか?」

 どんな世界も、<セコいヤツ>言い換えれば<要領の良いヤツ>が総取りしていくのは同じらしい。

「知らなかった?悪趣味なフィクションより現実のほうが何倍も理不尽で残酷だよ」

 生真面目で神経質でプライドが高くて、セコさも要領の良さも拒絶する人間は、柔軟で図太い人間に押し出されて落っこちる。
 なんだ、私ら、落っこちそうなヤツ同士なんじゃん。

「まあ、この世の理不尽なんて、私に言われるまでもなく雪宮は十分知ってると思うけど」

 二限終わりの鐘が鳴る。三限との狭間でわずかに活気づいた図書室の外側は、図太さに押し出されて落っこちた私たちのことなんて見えてない。部屋に差し込む日差しすら、ブラインドに阻まれて細い筋状でしか私たちを照らしてくれなかった。ブラインドを畳む気力は多分もう無い。

「なんだか私は雪宮についての大事なことはいつも周回遅れで知るばっかりだなぁ」

 知らされないことが寂しいわけではないけれど、もっと早く知っていれば、とは思う。
 ブルーロックへ行くことだってそう。彼の潔癖な本性だってそう。

「私さ、初対面のその日から、話しかけられた瞬間から、雪宮のこと嫌いだったんだよ」
「本人を目の前に随分はっきりと言うね」
「なんだコイツ、って思ったの。保健室登校のくせに私と違って全然人生ドン詰まりじゃないじゃん、って。恵まれてるし甘やかされてる雪宮が腹立たしかった」

 知らされないことが寂しいわけではないけれど、もっと早く知っていれば、とは思う。

「視力のこと、知らなかった」

 雪宮剣優は恵まれてもいなければ甘やかされてもいなかった。正当な理由で、あの保健室という空間に通っていたのだ。私が雪宮へ抱いていた腹立たしさはまったくもって見当違いで、嫌う部分なんて何一つなかったのだ。最初から。

「ああ、そのことね」

 うっかり口を滑らせた保健室の養護教諭が「え、雪宮くんと仲良さそうだからてっきり知ってるのかと……」と狼狽していたのに反して、秘密を抱えていた張本人は「そりゃ知らないでしょ。キミには言ってないし、言うつもりもなかったからね」と笑う。顔にかかった長髪の隙間から見えたその表情は何か吹っ切れたかのように余計な力が抜けて柔らかで清らかだった。

「だからさ、正直あのとき少しドキッとしたよ」

 それまでずっと俯いたままだった雪宮が顔を上げた。緩くうねった前髪がたおやかに揺れる。彼はそれを指先で払いのけて私をじっと見つめた。ようやく今、雪宮剣優と本当の意味で正面から向き合えたような気がする。彼の力強い眼差しはまだ何一つ諦めていないように見えた。

「キミが言ったとおり現実逃避だっていうのも、あながち間違いではない」

 確かにサッカーで頂点に立つことは俺の夢だし、スカウトされて成り行きで始めたモデル活動が案外楽しいのも事実だよ。と彼が自然体で微笑んだところに三限の鐘が鳴った。再び外の世界が静まり返る。司書室には彼の声と、私の呼吸と、窓の外で強風にざわめく木々の音だけが残った。

「のめり込んで、没頭してた。病気への不安を、夢を叶えるまでのタイムリミットを、もしも夢を諦めざるをえなくなった未来のことを、考えたくなかった」
「……あのとき雪宮、私に言ったよね。沈んだ気持ちを陰鬱なエンタメで上書きして誤魔化しながら自分の精神を保つのは賢いけど健全ではない、って。あれは経験談?」
「それは……キミの想像に任せるよ」

 私は雪宮の手の甲に自分の手のひらを静かに重ねる。血の巡りが良さそうな体温の高い熱い手だ。彼はもうベンチに爪を立ててはいなかった。

「なんだか私にとっても雪宮にとっても、この世界は、現実は、生きづらいね」

 雪宮は重なり合っていた手を引き抜くと、そのまま私の手を絡めて取って握った。手のひらが触れ合い、指同士がもつれる。「感傷的な言葉は人に聞かせるべきじゃないよ」と雪宮は短く笑ったけれど、その笑い声は哀愁めいていた。

「だから言ったでしょ。自分のこと俺に委ねて勝手に願掛けされても責任は取れないって」

 確かに言われた覚えがある。でも、そのあと続けてこうも言われた。「でも、まあ、善処はするよ」と。

「確かにここは生きづらくてロクでもない世界だけど、雪宮が<セコいヤツが勝つ世界>に打ち勝つ日が来るんだとしたら、この世界もちょっとは生きる価値があるのかもね」
「世界の価値にかかわらず生きておきなよ。俺のことを知ってなお、その五体満足の身体を粗末にするなら一生恨むよ」
「あはは、参ったなぁ」

 生きづらい心と、生きづらい身体。私たちは似ているけど似ていない。互いの生きづらさを真の意味では理解し合えない。結局のところ私たちは寄り添い合うことしかできないのだ。私は雪宮の手を強く握った。

「雪宮、好きだよ」
「知ってたよ」

 告白への回答は得られなかった。でも、構わない。寄り添い合うために、それが必ずしも必要でないことは知っているから。