その二


 

 学校から五から十分ほどの距離を歩いたか、その頃になって少女は永遠に動くとも思われた口を、足と一緒に止めた。都会からも見える星を探しながら歩いていた花京院も、あわや彼女とぶつかりそうになって、たたらを踏みながら足を止める。
「ほら、ここが私の言った観測場所よ!」
 物足りない肝試しで子どもたちに有名な、小さい廃神社を少女は指さした。敷地も狭く、本殿も神社というよりただの祠で、赤インキが剥げて下地のどす黒くなった木が見える鳥居だけが貫録を保っている。肝試しとしてこの神社で遊ぶ子どもは多かったが、肝を試すようなものがない神社は結局飽きられて、誰もいないのがいつものこととなった。さすがに夜が近づいてきているだけあって、今は廃墟らしい寒々とした恐怖をこちらに与えているが。
「観測? 一体何を」
 花京院の言葉に、飛び跳ねるほど喜んでいた少女は突然水をかけられたように顔をしかめた。
「さては聞いていなかったのね」
 じっとり少女に見つめられると、それほどに重要な話をしていたのかとばつの悪いような気は起る。知らないものを知った風にすることはできない。花京院は首をかしげ肩をすくめるという、誤魔化しの手段を取った。場を和ませることなどできやしないが、話を先に進めるくらいの効果はあったようだ。少女は短く息を吐いて説明する。
「再三言うようだけど、ここに境界を見つけたのよ。見えない何かを引き連れるあなたと、その何かにこの境界を観測してほしいの。鳥居をくぐるとあの宮の手前に出てくるわ」
 なるほど、こんな突飛な話がうわの空で理解できるはずはない。彼女がさも当然のように言う「境界」とやらがまずもってわからない。
 しかし、目的地に着いた彼女にはもう説明するつもりもないらしく、「ほら、こっち」とまたもや花京院の手を引いて先導する。不良の体調はどこへやら、今彼女は期待と活力に溢れていた。そうして鳥居をくぐって、また立ち止まった。
「どう、見える? あの光っている裂け目よ」
 鳥居をくぐろうが、当然何が変わるわけでもない。強いて言うなら、比較対象の鳥居を背にしたことで寂れた祠が少し大きく見えるくらいだ。
「何を言っているんだ? 何もないなら帰っていいか」
 花京院は少女の緩んだ手からそっと抜けて背を向ける。やはり子どもの妄言。光の加減で錯視したものを自分勝手に大事にしているに過ぎなかったのだ。取り合うに及ばないことだった。
 けれども期待を妄想で膨らましてしまう彼女がそう簡単に離すわけがない。花京院のランドセルに掴みかかって、彼の方向転換を阻むどころか、もう一度祠に向き合わせた。花京院自身、ひ弱そうなこの女子生徒に力負けすることはないはずだ。それでも彼が彼女に振り回されているのは、単に抵抗する気も失せたのか、もしかすると別の理由だろうか。
「もしこれが見えたら、境界と『緑の何か』が同質のものという仮説に根拠が増えるのよ? ほらほら、もうちょっとよく見て」
「むゆ」
 花京院の背に回った少女は、彼の頬を挟むことで顔を固定し、なるべく自身と視点を合わせるようにする。たったのこれだけで見えないものが見えるようになるとでも思っているかのようだ。
 慣れない衝撃とこそばゆい感触に、思わず声を漏らし目を瞬かせる。実のところ、花京院の目が異質なものを捉えてしまったがゆえの驚愕も、そこには含まれている。
 それは歪んだ三日月とでも言うべきか、空中に広がる奇妙な穴の形を呈しており、そこから紫がかって青白い光が細く放射状にこちらへ伸びている。日がすっかり隠れた刻限では、この無二の光源が神秘的で怪しく見えた。
 固唾を飲んだ花京院に、その頬を離さないまま少女は気色ばむ。
「見えたのね! やっぱり何か関係のある事象なのかしら」
「ふぁんお、はんあしえうえ、ゆうふぃい」
「あら、ごめんなさい。どうぞ喋って」
 ようやく花京院の頬は圧縮から解き放たれた。同時にあの穴は光が周囲に溶け込むように薄れ、かき消えてしまった。彼は何か判然としない気持ちで、頬を揉みながら訊くことにした。
「あれは、なんなんだ。そもそも君は?」
「自己紹介しなかったっけ。宇佐見芽衣子、同じクラスなのよ。一応ね」
 少女、芽衣子は淡白に言った。質問が気に障ったということでなく、全く興味のそそらないことに対する態度がそれだというだけらしい。先ほどまで穴があった方へと近寄って続けた。
「あれが、境界よ。と言っても今まで私しか見えなかったから、名付け親は私だけど…。あれは何かを隔てるもの。場所とか、時間とか、きっとたくさんのものをそうしているんじゃあないかしら」
「非科学的な妄想だな」
 花京院は思わずそう呟いた。しかしこれはたった今そう感じられたというより、芽衣子と話している間ずっと、彼女の信念に対してそう思っていた気がする。科学で証明できないものなど存在しない。証明できないものがあったとして、それは何かの手違いだとか個人の通念にしかあり得ないものだとか言う風に表現される。未知へのときめきに抑え込まれていた批判的な思いがようやく口をついて出たというところだ。
「見えない酸素を吸いながら、見えたものを否定するの?」
 芽衣子は、最も聞き慣れていそうな言葉にもかかわらず、彼の指摘が予想外だったらしく、勢いよく振り向いて半ば叫ぶように訊いた。非常識な彼女にしては鋭い指摘に反抗する言葉を花京院は持ち合わせていなかった。太陽光がない中であれだけはっきりと光っていたものが存在しないものであるなどと、一小学生がどうやって証明できよう。
「だったらもうちょっと検証を続けましょう」
 芽衣子は何を思ったか、またもや花京院の手を引いた。彼女の硬く握る手から、花京院に直感めいたものが走る。芽衣子が境界と呼ぶあの光る穴に、自分と共に飛び込むつもりだ!
 花京院にはもう見えていなかったから、てっきりどこかへ行ってしまったものと思っていたが、彼女にはずっと見えていたのだろう。彼女にとっては錯覚でも何かの手違いでもなく、世界に当然あるものなのかもしれない。彼女もまた、子どもらしい自分中心の世界で生きている。それに気づいたとしても足を止めることができずに、芽衣子に引っ張られる。
 雷が空を光で覆うように、花京院の視界で光がほとばしった。目を閉じなくては網膜が焼かれてしまうと思わせるほど強い光だった。視界の他に何の衝撃もなく、肌を撫でる風がやけに柔らかいことに意識が向けられるくらいだ。
 芽衣子が感嘆に息を溢すのがやけにはっきり聞こえる。
「ああ、境界の向こうは…こんなところだったのね…!」
 その声に釣られるように、花京院は目を慣らしながらゆっくり目を開く。少しずつ光が抑えられていってようやく見えたのは、あの寂れた神社ではなかった。
 お宮というのが相応しいくらいの大きさの神社はこちらを上から睥睨しており、太いしめ縄や屋根の紋、瓦屋根に至る全てがその厳めしい雰囲気を助長させる。威圧的でありながらこちらを抱擁しているような穏やかさも持っている。神の社と言うのが似合いだ。自然にできたとさえ思えるが、おそらく誂えられたのだろう池には白い花を咲かせた蓮が浮かび、穏やかな風に揺れる。
 花京院はその光景に驚いた。神社が様変わりしていることだけではない。もう夜になっていく頃合いだったのに、やけに明るいのだ。
 空を仰ぐと、やはり夜ではなかった。分厚く紫雲が覆っているが、その隙間からあの穴から見えたのと同じような青白い陽光が差していることから、夜でないことはわかる。
「ここは何を祀っているのかしら。神社なのに白蓮なんてねぇ」
 考えに耽るように芽衣子は呟いた。やけに吞気な発言は彼女の気質が窺える。この短時間でも彼女の性格はおおよそ把握できてしまう。
 花京院が文句の一つでも言ってやろうかと彼女を見やる。これもまた彼を驚かせた。
「おい、鼻血が出ているぞ!」
 芽衣子も全く気付いていなかったらしく「なんでこんな時に?」と慌てて花京院の手を離し、鼻の根をつまんだ。ネイビー風の少年が履きそうなショートパンツのポケットを探っているが、一向にティッシュを出さない。もしかして持っていないのだろうか。花京院は自分のポケットティッシュを彼女の手元へ差しだしてやった。
 芽衣子の礼を受けながら、彼はまたも目を閉じなくてはならなくなった。いつの間にか夜の帳が降りていたのである。光のない環境に突然に戻ってしまったために、まともに前が見えない。
「うー、貴重な体験ができて、調査もこれからだったのに……」
 ティッシュで鼻を押さえつけているために鼻声になってしまっているし、悪かった体調がぶり返したのかやけに低くうなるし、さっきまで勇んでいたことが嘘のように、芽衣子が情けなく映る。
「体調も悪くなっているんだから、素直にもう帰ろうよ」
「そうね。さすがに観測できなくなったものを探すなんて愚はおかさないわ」
 潔い言葉の割には恨めしそうな、羨望も混ざっているような熱い視線を、見慣れた寂しい祠に集めている。少しして、祠を後ろに歩き出した。彼女の家がどこにあるのか、自分と同じ方面なのかも知らなかったが、花京院も後ろに続く。
「『非科学的』って言ってたわよね、さっき」
 花京院は頷いた。まだその常識は捨てずに持っているし、その常識を否定することはない。なんとなく芽衣子が言おうとしていることは予想がついている。また「見たものを否定するなんて」とでも言い始めるに違いなかった。
「きっとあなたは、科学が世界の全部を照らしていて、わからないことなんてないと思ってる。でしょ?」
「オカルトからすれば違うのだろうけどね」
「いいえ、『科学からしてみれば』よ」
 花京院は曖昧に返事した。ほとんどため息のようであり、失笑でもあった。彼女はオカルトと科学を一緒くたにしているらしい。そういう、根底に馬鹿にするような態度があるというのに芽衣子は知ってか知らずか、得意顔で語りだした。
「確かに科学はいろんなことを明かしてきたわ。原子から宇宙まで、手広くね。でも世界を照らそうとすればするほど、照らすことのできないスキマが目立ってきた」
 花京院は彼女が何を言うつもりか想像できたし、そんなことはお見通しだぞと言う代わりに、当ててみせようとした。
「幽霊とか悪魔とか?」
 あといくつか角を曲がると、花京院の家に繋がるというところまで来た。帰宅は遅くなったが、家にいるのはあの母だけだろうし、彼女ならはぐらかせばさほどの干渉をしないはずだ。彼女には息子にものを強く言った試しがない。
 彼が芽衣子に関心を払っていないことを、芽衣子は気づいていた。オカルト好きの口から出る言葉全て信用ならないという信念もわかっていながら、彼女は花京院にこう言う。
「残念だけど、幽霊も悪魔も物理学ではもう席が埋まっているの。観測はされていたりなかったり、まちまちだけど」
 花京院はまたも言葉を詰まらせることになった。芽衣子は彼が思っているよりも現実主義的なオカルトマニアのようだった。矛盾した倒置のような形容だが、そう表現するしか彼女の捉え方はないだろう。
「最近のあなたは、『緑のなにか』なんていないって言っているみたいだけど」
 芽衣子の発言で、今になって彼は気づいた。彼女は花京院が見ている世界を信じ切っており、あまつさえそれを一般に理解できるレベルで証明しようとしている。彼女の知っている科学理論と、彼女の視界にある境界の世界とを使って、外延にある謎を全て残らず暴こうというのだ!
 花京院は背筋を指でなぞられたような不快感と少しの興奮を覚えた。指は彼の実在を確かめるように背を這って、臓物のありかを全て明るみにしてしまいそうだ。そのうちに花京院の内側に這入して、かき混ぜるように荒らした後で去っていくのではないか。最後に残るのは得体のしれない緑のそれと、傷だらけの己のみだというのに。
「今も見えているんじゃあないの。さっきの境界だって見えたんだもの」
「だから何だっていうんだ」
「言ったじゃあない、秘密を暴くって。どうして他の人に見えないのか、なぜあなたにしか見えないのか。気になることはたくさんあるわ!」
 芽衣子は足を止め、返事をしない花京院へ振り向いた。街灯が小さく照らす下で彼が見たのは、うす暗闇でもはっきりわかるほど白い歯をむき出しに笑う少女の顔だった。鼻血は止まったのか、既にティッシュを取り去っていた。
「考えたらワクワクしちゃって止められないの。他人には見えないもの、秘密と封印! 全部解き明かして、暴いて、世界の真理を見つけて…。そしたらきっと、誰も見たことのない世界が見えるようになるわ! どう、そそられる話でしょ?」
「なんの意味があるんだ、そんなおままごと」
「少なくともあなたは自分の見たものを否定しなくてよくなる。あなたの見ていたものが空想じゃあないって言えるようになる」
 彼女はいとも容易く花京院の心に荒波を立てる。冷えてきた風は静かであるにもかかわらず、波をそそのかすように騒がしく吹きつける。彼女に賛同できないのはこういう妄信が原因だ。ちっとも自分が異常でないと思っていること、自分が見ているものは他人にも見えて然るべきだと思っていること。それから、彼女の世界を花京院が共有できると当然のように思っていること。全て花京院の信念と異なるのだ。
 花京院は、海の底で煮えたおぞましいものが今にも飛び出しそうだということに、自ずから気づいていた。そんなに非現実な世界が見たいのならば、それを知って慄き絶望してしまえ、と。
 芽衣子は「わわ」と素っ頓狂な声を上げる。いつの間にやってきたのか、緑の触手が彼女へと伸びて、足元から捕らえるように締めつけている。あれは相当にきつく締めている、なんとなくそう思えた。俯いてしゃがみ込んでしまって、彼女の表情は見えなかったが、未知からの暴力に対して恐怖しているのだろう。
「やっぱり見えるじゃあない! 触れないけど」
 いや、花京院の常識では少しも測れないのがこの芽衣子という少女であるということを、改めて知らされるだけだった。彼女が無遠慮に、なおかつ純粋な興味で緑のそれを触ろうとするのが、あまりにもくすぐたくって彼は身を震わせる。まるで緑のそれが感覚を伝えようとしているみたいだ。
 花京院の困惑をよそに彼女は、「これは脚かしら、それとも手とか?」、「あなたの後ろにいるように見えるわね」とか質問と観察とを同時に、早口にまくし立てて行う。
 未知に対して全く恐れを見せないのは強がりなんかではない。ただ未知に対して知識欲ばかりが先立つから、自分に危害が加わることなど露ほども想像つかないのだ。毅然とした態度が恐ろしいのか、緑のそれは意気消沈したように触手を縮めて、街灯の影と暗闇に溶けていった。
「なんで、こんなものを信じる気になれるんだ」
「あなたが科学を信じているのと同じ。そんなに変なことかしら。重力分子より確かだと思うわ。大体、見えていないものを認知していることは証明されているんだから、見えないのに存在するものを見ている証明だって、あり得る話じゃあない」
 芽衣子が語るのを聞きながら、花京院は自身の母の姿をどこか遠くに幻視した。彼女の表情から視線、視覚情報のみならず彼女が差し伸べた手のよそよそしい感覚も、腫れ物に触るような声も、何もかもが今、一所に集まったかと思えば彼を弄ぶように行きつ戻りつ漂っている。
 「緑のあれ」の騒動以来、いやもしかすると花京院が物心つく前から、彼女は酷く恐ろしい独裁官に取り入るかのように彼と接してきた。幼子の世界は親が全てを握っている。花京院が彼女を打つような子どもにならなかったのは幸いだったが、しかし母親が自分について何か気に入らないことがあるのではないか、という不安はずっと付き纏っていた。母親が自分に愛情を感じられるように振る舞おうと、無意識ながらにその計画を実行してきたが、その努力は空しく終わる。花京院は聡いがゆえに察してしまった。母親は自分という未知を恐れているのだということを。
 元々人付き合いの上手くない花京院はそれから一層、人との関わりを避けた。他人にどれだけ働きかけたところで、「普通の人」の世界を見ることはできず、自分は永遠に一人の世界だけで生きていくのだろう。
 今までこういう風に考えることで、花京院はそうして未知の存在である自分を御してきた。知ろうとしないことが最も安心できることであり、諦めることこそが誰も傷つけることのない手段なのだ。
 芽衣子はいつまで経っても遠くを見たまま戻ってこない花京院にしびれを切らして、不満げに言う。
「私だって、あなたと見ているものが全く同じだなんて思ってない。でも、ねぇ、あんな素敵なものを見られたのは事実でしょ」
 花京院は重たい口をやっと開いてみたが、出すべき言葉がわからない。
「今日はもう遅いから。早く帰らないと、君だって叱られる」
 羽でも生えてくるのか、大量の虫が這っているのかと錯覚するほどに足がむず痒い。地に足がついていないような心地のままに、花京院は芽衣子を追い越し、歩き去る。いや、ほとんど走っているという方が似合うくらいに、懸命に足を動かした。
 彼女が追ってくることはなかった。ぐいぐいと進む花京院を止めようともせず、ただ一つだけ叫ぶ。
「花京院ー、また明日ー!」
 閑静な夜の住宅街で反響を伴った声へ、ぎこちない動作で花京院は顔だけそちらへ向ける。
「また明日!」

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