その一


 

 傾きはじめた日光が入る廊下は熱されて、通る者を蒸し焼かんとするほど暑い。木造の棟全体が湿気で膨らみ、床を踏みしめる度にどこかで木材が鳴く。濡れてもいないのに大分暗い色に変色したかび臭い校舎に近づく生徒は、余程の事情があるに違いなかった。単にクラブ活動がここでないといけないとか、もしくは肝試しとか、色々あるだろうが、居心地がいいと思っているのはこの花京院しかおるまい。
 だから花京院は、背に張り付くランドセルこそ不快ではあるものの、誰にも知られず、また故もなしに一人で放課後を満喫できる。こういう時に花京院と相伴するのは一冊の文庫本と、緑色のなにかだ。緑の皮膚とその下に明るく輝く静脈を持つそれは、花京院が視認することを覚えた頃には既に傍らにいたのだが、花京院の他に誰も視認することができない幻のような存在である。疎ましいと思ってひたすらに目を逸らしていた時期もあったけれども、彼の態度など構わず緑のそれは彼と共にいることを止めなかった。とうとう彼の方が折れてからは、存外仲良く過ごしている。
 今も緑のそれは白く紋様のついた触手を廊下のそこかしこへ目いっぱい伸ばしたり、花京院の体を触ったりと自由に遊んでいる。腕にも脛にも時に撫でるように緩く、時に抱きしめるようにきつく巻きつくその触手は、くすぐったいと思うが嫌がる理由はなかった。それとの接触が心地のいいものだからだろうか。他者の中では、人間ではないそれが一番信頼できる気がするのだ。
 ただしそれも視界に誰一人としていないとわかっているから身を委ねていられるのであって、自分以外の足音がすれば途端に打ち切らなければならなくなる。遠く、といってもこの狭い校舎では一分とかからない距離だが、後方よりぎぃぎぃと木を踏みつける音が聞こえてくる。音に緩急がついているのは、目的がこの校舎自体にはないことを示しているのだろうか。
 他級生であれば問題ないが顔見知りだと何かと面倒が起こりそうだ。本来、この校舎に用もなしに立ち入ることは認可されておらず、相手がどんな用事でここにいるかはともかく、花京院の立場がよくないのは自明である。幸いにも音から遠ざかる方向に裏口があるが、建てつけが悪いのか、鍵はかかっていないのに開かないこともしばしばあって、この頼みの綱には不安が残る。
 花京院は校舎の中では最も整えられた教室の前から退いて、それより奥にある退路へと足を向ける。足取りは大胆に、しかし木の脆いところを踏み抜いて音を立てないように加減をつけながら行く。
 緑色のあれは音を聞いてどこかに隠れたのか、微かなその気配一つさえない。あれは、金属でできたような白いマスクをしているからか、口を使ってのコミュニケーションができない。だが、だからこそと言うべきか、察しはいい。花京院の意思を、顔に出ていないところまで理解しているみたく同調して行動する。耳ざわりのいい話だけども、あれが常に花京院にとって利になるよう動くわけではない。今回は、花京院のこの場から去ろうとする意思を汲んでくれたようだ。
 僥倖に感謝して、花京院は鉄錆のこびりついて赤茶けた重い扉を押す。きっと手に鉄臭いのがくっついて、家に帰るまで取れないだろう。それでも面倒よりはマシに思える。
「花京院くん!」
 大声に花京院がつい振り返ると、花京院の通った廊下の曲がり角に一人少女がいた。彼女は花京院に驚いた様子もなく、むしろ、失くしていたものを見つけて喜んでいる風にこちらへ駆け寄ってくる。
 花京院は少女の名前も形貌の概観も思い出せないが、名前を呼ばれたということは名前を知ることができる同輩なのだろう。少し背が低いが、確かに同世代くらいだ。
 もしや大事な用事でもあるのでは、と逡巡した瞬間だけ足を止めてしまった。しかし今でなくとも構わないし、たとえ教師に言いつけられたとしてもこの校舎にまで探しに来る生徒がどこにいるんだ。花京院は真っ当そうな理由をつけ、小さく開けた扉へさっと体を滑り込ませて外へ出た。
 体表に湿った空気がまとわって流れていく。外へ出ても暑いのは変わらないが、ぬるい風が通っているだけマシだ。取り急ぎ出てきてしまったものだから、まだ手の内に文庫本がある。手のひらまで汗が滲む夏日だ。本のためを思えばランドセルにこれをしまいたい。けれどもまだ少女が自分を追っているのではないか、足を止めなくても減速するだけできっと追いつかれてしまうぞ、と思うとブックカバーにシミができるくらいは観念しなければならなかった。
「待ってよ、典明!」
 その呼びかけに、砂場で足が取られて少々バランスを失ったような感覚を覚えたが、花京院は振り返ることも足を休めることもなく進む。馴れ馴れしいやつだとは思ったが、気をてらった発言で足を止めさせようとしている魂胆はありありと見える。これに引っかかるような馬鹿がどこにいるというのだ、と呆れさえ覚えた。
 どたどたと力任せに地を蹴る音はだんだんと花京院に近づく。近づくにつれ彼は歩調を早める。総じて距離はさほど縮まらず、到頭少女の息は荒々しさを増して、静かな道の中で彼の耳に届くほどになった。足音も遠ざかって小さくなる。
 少女が息を切らして走っていると思うと、やにわに多少の後ろめたさが芽生えてきた。いくら面倒だったとはいえ、無視するのは褒められた態度では決してないし、この炎天下で重い荷物を背負って走るのは危険が伴うことだ。もしかすると倒れているのではないか、と一抹の不安が花京院の後ろ髪を引く。子ども特有の身勝手さも重大な倫理観の前では委縮したようで、ついに花京院は少女の方へと振り向いた。
 少女は倒れていなかったが、道路に膝をつけてうずくまっていた。さっきまで元気に走ってはいたものの、およそ健全な状態ではなさそうだ。花京院はまだ戸惑いながら駆け寄って傍らで屈んだ。彼から伸びる影は少女をすっぽり覆ってくれた。
「その、大丈夫かい」
 横柄なこの問いをかけることに抵抗があったが、他にどう言うべきかわからなかった。先に大人を呼ぶべきか、それどころか救急車を呼んでもらった方がいいのか、花京院には何もわからなかった。救護の経験なんて露ほどもなく、よもやそんな事態に陥るなどとも思っていなかった。これでは自分は加害者になってしまうのだろうか、彼女は自分の前で息絶えていくのではないか、とまで思いは巡っていく。思いは血潮を大きく引かせる。夏の暑さも目ではないほど芯が冷えていく気がした。
 花京院の螺旋を下る思考を遮る阿弥陀の手は、奇しくも少女のそれだった。
「ご心配ありがとう。お礼に一緒に来てほしいところがあるのだけど!」
 騙されたのだ。花京院はすぐさまそれを察したが、少女の体調がさほど優れていないというのも断じられた。花京院の影の下で彼女は晴れやかに笑っているが、頬は赤く燃えて、胴は汗まみれの汗シミまみれ、頭のあたりは特に酷く濡れており前髪は額に張り付いている。
 かといって、世話を焼くべきという風には感じられない。喋りはなめらかで、はつらつとしている。人を騙す元気があるならそんな退屈なことをせずに真っ直ぐ家に帰るべきだ。
「悪いけど、時間がないから」
 彼は少女の誘いをやんわり断って、彼女の腕を引きはがそうと試みる。しかし彼女は案外余力があるらしく、花京院の腕をちっとも離そうとしないどころか、引き剥がそうとする手も一緒に捕まえてしまった。
「『緑の何か』、正体を知りたくはない?」
 花京院は妙な納得で以て少女を見た。
 今よりもっと幼い頃に、緑のそれが誰にも見えないものだと理解できなかった彼は時折視界でちらつくものを他人にも捉えてもらおうと、躍起になって大人へこの存在を伝えた。結果は、言うまでもなく誰も真に受けることもなく、かわいい子どものほら話としてしか見られなかった。花京院にはわからないが、この件が親に伝わっているというのはよくよくあり得る。噂というのは伝染病みたく広がって、その場にいなかった子どもたちにまで聞き及ぶ。
 他の児童からすればこのエピソードは格好の餌に違いなかった。奇異な信仰とみるか、ほら吹きで目立ちたがり屋とみるか、それは全くの些事で、このエピソードが引き合いに出される時は決まってからかわれる時だった。この少女にしても同じだ。
 証拠は彼女の相形に表れている。細められた目にたっぷりの期待が込められて、笑いの時を待ちきれないばかりに口端は釣り上がり、今にもその奥深くから罵詈雑言と侮蔑が出ようとしているではないか。こういう類の屈辱は、この若さにして幾度も経験している。無理やりにでも少女の手を振り払おうと決めるのに、特別なものは必要ない。
 花京院は掴まれている腕を力いっぱいに振り仰いで、姿勢を正した。可動域を過ぎた少女の腕は中空に投げ出される。抵抗の余地はなかった。足早に立ち去る花京院に縋ることさえできない。しかし、少女はそれほど従順な質でもなかったようだ。
「ねぇ、一緒に来てよ!」
 少女の決死を帯びた叫びのあとに、柔らかいが固められていたものの崩れ落ちるような音がした。振り向いてはならない。きっと優しさを見せたらこちらが傷つくことになるのだから。「うぐぅ…」と怨恨の詰まった声が小さく聞こえる。そら見たことか、因果応報だ。花京院は心中で、「僕は何も悪くないんだ」というのを念仏に代えて言い聞かせた。
 花京院自身、足が止まっていることには全く気づかなかった。心に血を通わせては、傷ついた時の損傷が大きくなる。心を自分から切り離していれば、何事にも惑わされずに済むのだ。しかしそう考えていても、たかが十年生きただけの少年にそんなことができるはずがない。二人には知る由もなかったが、花京院を求めるような少女の叫びと悔いの呻きは、確かに花京院の心を揺らしていた。
「なんなんだ。お前は、何がしたいんだ」
 彼は道路にうち伏す少女に歩み寄って、その手を取った。少女の手は先ほどより熱く、やはり熱射病とか何かそういうものに罹っている可能性がある。もしかすると喋るのだって、やっとのことかもしれない。
 彼女はほっとしたのか、単にもう余裕がないのか、さっきよりいやらしさのない笑いで礼を述べ、花京院の手を借りつつやおら立ち上がった。
「あなたと一緒に、誰にも見えないものを見て、その秘密を暴きたいの。きっと面白いわ」
 少女は立ち上がってなお、花京院の手を離さなかった。じっと花京院を見つめるうちに忘れてしまったようでもある。彼女の気丈な態度を前に手を振り払うことはおろか、何も言えなくなってしまった。手から伝わる熱で、チョコレートが溶けるのと同じように頭も溶けてしまったのだろうか。
 彼女が、オカルトだとかファンタジーだとか、そういう妄執に毒された思考を持っているのは真摯にも思える様子から知れることだ。それでも花京院は、彼女の自分に対する働きかけを無下にするのは、失礼だというのでなくもっと利己的な理由で度し難いことに思えた。かといって常識的な見地から言えば、「秘密を暴く」などという自分の能力を過信した子どもの発言は恥ずかしくってたまらない。乗り気になるのもまた難しいのだった。
「悩むくらいなら見た方が早いわ。行きましょう!」
 この少女のどこから来るのか、妙な力強さで以て彼女は花京院の手を引いた。もう西の空はとっぷり日が暮れてすぐ近くまで藍色が差している。風も、まだまだ温く心地のいいものではないが、少々冷めてきているのは事実だ。だというのに彼女は花京院をどこかへ連れていくと言って聞かない。こんな時間に子どもだけで出歩くなんて非常識で無謀だ、とすぐにでも花京院は足を止めて非難の言葉を彼女に浴びせてやりたかった。しかし、実情はそうせずに黙って足を動かしている。
 花京院に言葉を飲ませているのは非日常への期待感と幼い冒険心だった。小説のようなファンタジーも家族で旅行した時に見た異文化も、この日本で、しかも近所なんかでは決して見られない。何事も起こらず帰路へと戻るに違いないが、だとしてもこのまま帰るのはもったいないことに思えた。きっと、忍び寄る夜の空気がそう思わせているのだろう。
 花京院が黙っているのをいいことに、少女は思うがままに喋った。言葉を切っては息継ぎに集中することしばしばあったが、概ねのところ流暢に話していた。花京院に聞かせるつもりがあるのかないのか、小難しいことを早口にまくし立てていたために、彼はほとんど耳を貸さずにいる。こういう一人で突っ走って他人を省みずにいるような人間があまり得意ではない。最初こそ小さく相槌を打ってやっていたが、少しずつ数を減らしていくうちに一つも無くなってしまった。

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