― you are mine ―
カフェ店員
「アイスコーヒー」
神羅カンパニーの代表取締役社長の肩書きを持つ人物は最近よくリフレッシュフロアのカフェに現れる。
最初は社長の出現にざわついていた周りも出現頻度が上がれば慣れてくるもので、今では日常の景色のようになっていた。
遠巻きに様子を伺っているのは変わらないけど。
「ありがとうございます。350ギルになります」
きれいな指とともに差し出されるカードは黒く鈍い光を放っている。
コーヒー1杯買うのにブラックカードを出す彼に何とも言えない気持ちになるがそのカードの下にもう一枚。
白金地に赤いラインが入ったカード――神羅ビルのエグゼクティブフロアへ入るためのカードキーだ。
今日はエグゼクティブフロアにある私室に来いという彼からの無言の合図。
仕事が終わって化粧を直してカフェを後にして、エレベーターを待ちながらバッグの中にあるカードキーを確認しながらふと思い出す。
こんな関係になってから半年ぐらい経ったのかな……。
忘れ物をしたのを思い出して深夜に閉まった店に行ったら何かをしている社長と遭遇した。
激務の気分転換に社内を歩いていたらカフェが見えてコーヒーが飲みたくなったらしい。でもコーヒーを自分で淹れたことなんてないから勝手が分からなかったとか。
「コーヒーを淹れろ」
そういえば初めて言われた言葉はそんな感じだったな、と一人笑う。
人生何が起きるか分からないものだ。
コーヒーを淹れてとりとめのない会話をしていると波長が合ったのかそれから話す機会が増えて面倒だからお前が来い、と渡されたカード。
そうやってこのカードのやり取りが始まった。
そんな始まりを思い出しながら歩いているとあっという間に彼の私室の前に着く。
少し扉が開いてる? 不審に思いながらもノックしようとすると中から声が聞こえて手が止まった。
「社長、わざわざリフレッシュフロアでコーヒーを買わずとも準備させますが」
「気分転換を兼ねて、だ。あそこのコーヒーは存外美味くてな」
「特定の女性がいる時にしか赴いていないようですが……」
「俺がわざわざコーヒーを買いに行くのはおかしいか」
「貴方の行動理念に反します」
「ふん、手厳しいな。面白い女がいるからだ、とでも言えば満足か?」
私が聞いちゃいけない会話だ、出直そうと一歩後退る。
「婚約者の建前もあります……戯れも程々に」
その一声を聞いた瞬間、足音なんて全て吸収する絨毯敷きの廊下なのを良いことに逃げるように駆け出すことしか私には出来なかった。
神羅ビルを出て走って家に向かう。途中誰かにぶつかってすみませんと謝った。驚いた様子で私のことを見ている気がするけど気のせいだ。早く帰りたい。
泣くもんか泣くもんか泣くもんか……。
家に着くなり真っ直ぐ洗面所へ向かってコップに水を入れて勢いよく飲むと口の端から水が零れる。それを拭って洗面台に手をつき息を整えているとぽたりぽたり落ちる雫に気付き、零した水が拭いきれていなかったかと鏡を見てああ、と納得した。
道理でぶつかった人やすれ違う人が私を見るわけだ。
めちゃくちゃ泣いてて涙で化粧がぐちゃぐちゃ。
そうか、もう泣いていたのか。そしたら我慢しなくていいや。思い切り泣こう。
「遊びだって分かってた……分かってたけどぉ……」
泣いていると分かったらもう止まらなかった。
彼は婚約者等居て当たり前の家柄だ。
緩く細まる薄氷のような色素の薄い瞳。ふわりと触れる唇。指通りのいい金糸の髪の毛。掠れた声で呼ぶ私の名前。大切にしてくれていたと思う。
全部全部優しくて私だけだっていつの間にか錯覚してしまっていた。
一晩中声をあげて泣いていると夜明けの鳥の鳴き声が聞こえて朝だと認識する。
泣きすぎて朦朧とする頭でも早く夢から冷めなくてはと立ち上がった。
あれは仕事を頑張っていた私への夢の経験というご褒美だったんだろう。
好ましいと言ってくれた薄桃のグロスも捨てて髪の毛も切ろう。
そうだよ。「好ましい」と言ってただけで「好き」の言葉なんて貰っことない。
ほらやっぱり遊びだったんじゃん。
馬鹿だな。また涙が止まらなくなった。
今日はきっと使い物にならない。店長ごめんなさい。仕事休みます。
シフト休みも重なって3日振りに店に来た。
髪の毛をばっさり切って店に行くと皆には驚かれたけど概ね良好の評判で良かったと胸を撫で下ろす。
心機一転半年前の日常に戻ろう。
「アイスコーヒー」
「あ、りがとうございます。350ギルになります」
いつもと変わらない様子でその人はいつものように注文をしてきた。
出来る限り平静を装っているけど、今すぐここから逃げ出したいのをどうにか踏みとどまりコーヒーを淹れる。
「あの日何故入ってこなかった?」
「……なんの事でしょうか?」
「もう一度聞いてやろう。何故"入って"こなかった?」
一部分を強調する言葉を頭の中で反芻する。
「扉の前に居たの、気付いてたの?」
「気付かない程間抜けではない」
お前とは違う。余計な一言を付け加えられていつもの私ならきっと言い返していた。
でももううそんなやり取りはしない。
「戯れに付き合うのは辞退いたします。婚約者様もいる手前派手なことは控えた方がいいですよ?」
注文されたアイスコーヒーを出してこの不毛な会話はお終い。私たちの縁もお終い。
もうこれ以上惨めな気持ちにさせないで。
会計をしようとキャッシュトレイを見るとカードではなくコイン。ギルでもない通貨価値のないコインは真っ赤な地色に黒い薔薇が刻印されている。
「俺の家の鍵だ」
「な、に?」
「この世で2枚だけだ」
「………婚約者さんと私ってこと」
愛人枠なんてごめんだ、そう思ってコインを返そうとしたらコインの上から手を握られた。
「馬鹿な頭でも分かるように言ってやろう。このコインの所有者は俺とお前だ」
「……ねえ、この薔薇の花言葉を信じてもいいの?」
「婚約者などいない。戯れでない事を教えてやる」
薄氷の瞳が私を見据えてそう言うから薔薇が一輪だけ刻印されたコインを握りしめる。黒でも赤でもいい。
愛の言葉なんて決して口にしない彼からの愛を今確かに受け取った。
初出:2020/08/21
花言葉。赤は「あなたを愛します」「愛情」、黒は「永遠の愛」「貴方はあくまで私のもの」