愛とかばらばら

 私が灰谷蘭という男と出会ったのは、同僚に誘われてやってきた六本木のクラブだった。上京してなんとなく受けて採用されたバイト先。そこで派手目な雰囲気を持つ同僚が「ナマエちゃん都会とか全然知らなさそ〜。せっかくだからいいとこ連れてってあげる」と強引に約束を取り付けたのだ。
 断ることもできず、私は同僚に連れられてそれらしい服装に着替えた。お約束も楽しみ方も全く知らない私は、同僚に手を引かれるまま人混みを歩き続ける。
そして、豪勢なソファと真っ黒なガラステーブルのあるエリアまで連れてこられた。
 そのソファど真ん中にいたのが、灰谷蘭だった。黒と金に分かれた不思議な髪色、それを三つ編みにしている。儚げなようでいて、妙に人を圧する空気をまとっていた。
 ——月並みな言い方をするなら、謎めいた人だった。
 同僚は私を彼の隣に押しやり「じゃ、楽しんでってね〜」と言って立ち去る。待ってどこ行くの、と私が立ちあがろうとすると、彼が私を抱き寄せた。
「勝手に行っていいって言ってないよね」
 強い力で引き戻され、私は彼の腕の中にすっぽりおさまる。せめて膝の上じゃなくて隣のソファに戻りたい。
「……ああ、もしかしてオレのこと知らない感じ? じゃあ自己紹介から始めよっか」
「そうじゃなくてソファに座らせてもらえませんか」
「オマエの自己紹介を聞いたら「ミョウジナマエです!」
「聞いたら離してあげるとは言ってないよね。オレは灰谷蘭」
 ハメられた。なんてやつだ。最後まで話を聞かなかった私にも非があるけど。
 私が苦々しい顔をしていると、くすりと彼は笑って言葉を続けた。
「ナマエちゃんさ、こういうとこ初めて?」
「……はい」
「だと思った。緊張してるのモロバレ。そんな肩こわばらせてたら疲れるよ」
 そう言って、手元のグラスを差し出してくる。
「ほら、少し飲みなよ」
 断る理由も思いつかず、私は言われるまま口をつけた。
 甘い味がした。
「おいしい?」
「……はい」
 彼は満足そうに笑う。
 クラブの中はうるさくて、周りの声はほとんど聞こえない。
 近くにいるこの人の声だけが、やけに近く感じる。
「ナマエちゃん」
 名前を呼ばれて顔を上げると、すぐ目の前に彼の顔があった。一瞬心臓を掴まれたような感覚があった。
「もう帰る?」
「え」
「顔、限界っぽい」
 図星だった。
 こういう場所は慣れていないし、さっきからずっと落ち着かない。
「ちょっと外出よっか。ここ、うるさいし」
 断るタイミングが見つからないまま、私は立ち上がっていた。
 彼は水の中を泳ぐ魚のように人の間を通り抜ける。私は逸れないよう、必死で後に続く。
 裏口と思しきところから出ると、いつの間にか黒い車が横付けされていた。扉を開けられて、すとんと後部座席に乗り込む。
 着いた先はえらく値の張りそうなホテルの最上階だった。

 そこから先は目まぐるしすぎて、断片的な記憶しかない。
 背中を撫でられるだけで甘ったるい嬌声をあげてしまったこと。肌に吸い付かれて噛み跡をつけられると、快感に近い痺れが身体中を駆け巡ったこと。
 何をされても、変に反応してしまった。
「いいよね?」
 そう聞かれたら、もう断れなかった。着ていた服を脱がされて、広いベッドに組み敷かれて、すんなり私たちは一つになった。
「……思ってたより濡れやすいんだね」
 荒っぽい吐息と共に、彼は私の中を突き上げる。全部終わっても、私はあの快感を忘れられそうになかった。

 おそらく彼に気に入られたであろう私は、その日から頻繁にお誘いを受けるようになった。一緒に食事をする時もあれば、何もなくそのままホテルに直行する時もある。決まって何かしらの煌びやかなプレゼント付きだった。
「……受け取れませんよ、灰谷さん。こんなに高そうな物」
「断るの? オレが用意した物を?」
 ぐい、と小さな黒い箱を手のひらに押し付けられる。それ以上言い返すこともできずに、私は箱を掴んだ。
「開けてみて」
 素直に開けると、中にはシンプルなネックレスが入っている。ブランド物に疎い私でも知っている、有名でお高いやつ。前会った時はシンプルなドレスだったし、その前はシルバーのブレスレットだった。どれも私のような庶民じゃ手が出ないような値段だということは、一目でわかる。
 会うたびに彼からの頂き物で自分の部屋が埋め尽くされていく。ほんの少しの嬉しさと、居た堪れなさがあった。
 そのお礼と言ってはなんだけど、その分私は彼を悦ばせるためにたくさんのことを覚えた。
 私は喜んでいた。あの人の特別な存在なんだって思ってしまっていた。あの日の言葉を聞くまでは。

 いびつな関係が始まってから三ヶ月。私は今日も彼に呼ばれてクラブに来ていた。彼からもらった物を身につけて、静かに歩いていく。いつもの場所、と言われていたので迷わず豪勢なソファのあるところまで向かっていった。
 しかしまだ彼はいないようだ。もしかするとまだ寝てるのかな、と予想を立てつつ、私は他の場所で暇を潰すことにした。
 グラスに入ったカクテル片手にフロアをうろうろしていると、遠くに彼を見かけた。声をかけようとすると、誰かと話しているようだった。女の人だ。私や同僚よりもはるかに華やかで、場慣れした美女。
「ねぇ蘭ちゃん、そろそろ私と付き合ってくれても良くなーい?」
 甘えたような声を出す女の人に対して、彼はひどく冷めた声でこう言い放つ。
「言ったでしょ。オレ、特定の恋人とかいらないの。面倒くさいし、縛られるの嫌いなんだよね」
「え〜、じゃあ最近一緒にいるナマエとかいう子はなんなのよ〜」
「あー……あの子ね。あいつはオレのことを満たして気持ちよくさせてくれるから、そばに置いてるだけ」
 その言葉を聞いて意味を理解した瞬間、全身を巡っていた血が一瞬で冷えた気がした。
 誕生日のささやかなお祝いメールも。
 前より増えた食事の回数も。
 何気なく囁かれる「愛してる」だって。
 彼にとっては私を籠絡するための手段でしかなかった、ということだ。
 私は持っていたグラスの中身を一気に飲み干す。お酒の力で冷えた体が少しだけ温まった気がした。その勢いのまま、クラブから抜け出してあてどなく路地を歩く。
 舞い上がっていた私がバカだ。滑稽だ。愚かだ。勘違いも甚だしい。今すぐ消えたい……。
 泣きそうになりながら歩いていたら、一つのポスターに目が留まった。
 豪華客船に乗って世界一周することを謳う内容。写真に映る人たちはみな明るい笑顔を浮かべている。
 これだ。今の私に必要なもの。
 そうと決まればあとは早かった。

 バイトで貯めたお金と、彼からのプレゼントを片っ端から売り捌いて旅行資金に変えた。バイト先には事情を話して辞めた。同僚から辞める理由を聞かれたけど適当に濁す。
 携帯も解約して新しく番号を取り直した。アパートも引き払った。家具もお金になりそうなものは売って、残りは全部処分した。
 私の手元に残ったのは、パスポートと必要最低限の荷物が入ったスーツケースだけ。
 船に乗り込んで、旅行を楽しんで、なにもかもさよならだ。

◆◇◆

 自分で言うのもアレだが、オレはモテる。
 六本木のカリスマだなんだともてはやされて、外を歩けば大抵チヤホヤされてきた。ホテルへの「お誘い」なんて数え切れないほどだ。そんなんだから恋人を作るなんて馬鹿馬鹿しいとすら思っている。
 ナマエもそんな一人に過ぎなかった。遊び慣れてない子を連れてきてよ、とよく会う女に言ったら、来たのが彼女だった。不慣れな様子が新鮮で、そのまま強引にホテルまで連れ込んだ。どうしようもなくキツくて、途中で果てそうになるのを何度も堪えた。
 一回ヤってしまえば割と満足する。するはずなのだが、彼女相手だともう一回シたくなる。どれだけ体を重ねても足りなかった。事あるごとに彼女を呼び出せば、彼女は律儀に来てくれた。プレゼントを半ば強引に押し付けると、それのお返しと言うように丁寧なご奉仕をしてくれた。贈った物は、ぎこちない笑顔と共に大体身につけてくれていた。

「おかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめの上……」
 通話終了ボタンを押す。なぜかナマエと連絡が取れなくなってしまったのだ。電話もつながらないし、メールもエラーで戻ってくる。彼女を連れてきた女に聞いても、バイトを辞めたからどうしてるか知らない、と言う。
「辞めるのー? って聞いたら『うん』って言ってた。理由聞いたら『一番行きたかった場所にようやく行けることになったんだ』ってさ」
「……へえ」
「ナマエちゃんのことはどーでもいいじゃん、今日はあたしと遊ぼーよ」
「どうでもいいかどうかはオレが決め――」
 言いかけたところでふと目が止まった。そいつの首に巻きついているそのネックレスは、確かオレがナマエにあげたはずの物だ。
「……それ、どこで手に入れた?」
「あ、これ? 六本木にブランド品買い取るリサイクルショップあるでしょ、そこにいっぱい並んでたよ〜。あたしのお給料じゃフツーに買えない物ばっかだったから超ラッキーって感じで買っちゃった」
「……いつ買った?」
「え、一昨日だけど。なんかねー、いろんなブランド品まとめて売りに来た人がいたんだって」
 その言葉を聞いて、オレは静かに席を立つ。どこいくのーと呑気に聞かれたが無視した。
 クラブを出て路地を歩き、すぐさま目的地に着いた。すでに営業時間の終了したリサイクルショップのショーウィンドウを眺める。明かりの消えたショーウィンドウには、本当にオレが贈ったプレゼントがずらりと並んでいた。ブレスレットも、ドレスも、靴も、指輪も。あいつはオレが贈った物を、何もかもカネに換えていきやがった。
 もう必要ないのか? オレとの思い出も、オレが与えた価値も?
 そこでハッと思い出す。家は? ナマエのアパートは? バイトを辞めたとは言っていたが、もしかしたらそこにいるかもしれない。
 かつて聞いた住所に向かい、管理会社に無理やり手を回して解錠させた部屋の中は、驚くほどガランとしていた。カーテンすらない窓から差し込む街灯が、埃一つないフローリングを照らしている。そこには、俺が知っているナマエの欠片すら残っていなかった。まるで、最初からそんな女は存在しなかったかのように。オレの記憶の中にだけ、あいつの甘ったるい声と、肌の熱がこびりついている。
 売り払われたプレゼント、もぬけの殻になったアパート、そして「一番行きたかった場所にようやく行ける」という言葉。
 オレの頭に、自殺の二文字がよぎる。
「……ふざけんな、逃がさねぇ」
 使えるツテを全部使ってでもあいつを探し出す。もちろん、生きたまま見つける。死なせてたまるか。オレの前から黙っていなくなるとか、いい度胸してるじゃねぇの。

 だが、ナマエという女は日本のどこを探しても見つからなかった。嫌な予感と吐き気を抑えつつ、ここしばらくで発見された女の遺体の身元も調べ回るが、どれもナマエではなかった。じゃあ、どこに消えた? その答えがわかったのは四ヶ月後だった。
「蘭、探してた女いたわ。ナマエって子、今船乗ってて横浜港で降りるらしいよ」
「いつ」
「船が寄港すんのは明日の16時だってさ。めちゃ重要な情報伝えたんだから今度寿司奢ってな」
 どうやら彼女は船で海外を旅していたらしい。港の入出国の手続き関係で働いているそいつが言うんなら、間違いないんだろう。
 ようやくナマエに会える。その高揚感で寝付けそうになかった。
 そしてオレは本当に一睡もできないまま横浜港にいる。すると馬鹿でかい客船からぞろぞろと人が降りてきた。ナマエは……本当にいた。腰まであった髪はベリーショートになっていて、色白な肌も小麦色に焼けていた。明るい表情でスーツケースを引いている彼女は、四ヶ月ぶりなのに全く違う人のように見えた。そして、隣にいる誰かと楽しそうに話している。その瞬間、頭が沸騰するような感覚があった。
 オレは大股で彼女に近寄り、躊躇うことなくその腕を掴む。ナマエの顔が驚きに歪み、そしてオレに気づいて強張った。
「久しぶり」
 声が少し上擦った。余裕がない。
「黙って消えるとか、いい性格してるよね」
「灰谷、さん……」
「その呼び方やめてよ」
 何も言わずに、抵抗する力だけが強まる。オレはそれをねじ伏せ、ナマエの耳元で囁く。
「オレの許可なくいなくなるとか、ダメって言わなかったっけ」
「……言ってな」
「オマエがいなくなってから気づいたの。どの女抱いてもつまんない。オマエじゃないから」
 周りの目を気にする余裕は全くなかった。ナマエの腕をガッと引いてオレは歩き出す。離して、と叫んでいたけど無視した。
 乗ってきていた車の助手席にナマエを押し込み、スーツケースは後部座席に放り投げる。がちゃり、とシートベルトを枷のように締めて、オレは運転席に座る。
「離してくださいって言ってるじゃないですか」
「やだ」
 車を走らせ、オレが行き着いた先は自分の家。彼女とその荷物を再び掴んで強引に上がる。リビングのソファにナマエを座らせた。
「何度も言ってるじゃないですか、離して、帰らせてください」
「どこに? 自分でアパート解約してたじゃん」
 ナマエの顔が引きつる。そこまで知ってるのかと言いたげな顔だった。それでも彼女は立ち上がってここを出ていこうとする。だからとっさに抱き着いた。
「帰っていいなんて言ってねぇよなぁ、ナマエちゃん」
「わたしは、っ、もう必要ないでしょう、あなたにとって!」
「必要だよ。オレの恋人としてそばに置いときたい」
「縛られたくないって言ってたくせにどの口が!」
 ――そういうことか。いつ言ったか覚えてないけど、オレの言葉を聞いてたんだな。だから姿を消した。
 なるほどな、と思った。
「そんなこと言ってたかもね」
「私ははっきり聞きました。だから灰谷さんへの気持ちを消そうと思って消えることに」
「じゃあその言葉は取り消す。オレと付き合お」
 でも残念。
 オレは意外と執念深いんだ。
「あとオレのことは蘭って呼んで」
 訳が分からなくなって、顔が真っ赤になっていく彼女がオレの腕の中にいる。ようやく見つけた人を手放すまいと、もう一度強く抱きしめた。


 

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