仮面を剥がすように

 最悪の気分で迎えた翌朝、鏡で見た自分の顔はひどいものだった。寝不足のせいでクマは濃いし、目はまだうっすら充血している。コンシーラーをこれでもかと叩き込みながら、私は盛大なため息をついた。
 ……本当に、何をやっているんだろう。
 「今日だけ、一回だけ」なんて頑なに意地を張らなければ、今頃私は、あの頃みたいに優しく抱きしめられていたのかもしれない。それなのに、小手先のテクニックなんかで無駄に優越感を得ようとして自爆した。
 もう二度と彼の顔を見られない。見られるわけがない。
 午前中も、仕事が全く手につかなかった。小道具の状態をチェックしていても、頭をよぎるのは昨夜の蘭の歪んだ表情や、髪に絡みつく指の感触、そして喉の奥に残る苦くて熱い余韻ばかり。
「……今は仕事に集中しなきゃ」
 迫るクランクインに向けて、お昼にはメインの制作会社から来ている助監督との大事な打ち合わせがある。昨日の出来事を無理矢理忘れるように頭を振り、私は資料を抱えて目的地へと向かった。昼食がてら、人気のない喫茶店で話をしたいという先方からの指定だった。
 早めに着いたからか、まだ助監督の姿はない。じゃあ先に席に着いて待っていよう、と奥まったテーブル席に向かい、アイスティーを注文する。どかっ、と隣に誰かが座った気がして視線を向けた。
「お疲れ様で……っ!」
 なんでここにいる、と叫びたくなるのを堪えて、隣に座った蘭を睨む。
「おー怖っ。そんな顔すんなよー」
「悪いけど帰って。今日は助監督と打ち合わせがあるの」
「そんなもん無視しろよ」
「できるわけないでしょ。あっ、来た。ほらっ早く帰って」
 喫茶店の中に入ってきた人影が、私のいるテーブルまでまっすぐ進んでくる。私は立ち上がって、お疲れ様です、と彼に頭を下げた。
「お疲れ様です、ミョウジさん! あれ……」
「花垣?」
「蘭君!?」
 二人の男が、お互いを認識して名前を呼んでいる。え、顔見知りなの?

「へー。映画の助監督、ね」
「いやあ、第三助監督はもうそこらのスタッフと変わらないくらいペーペーですよ……」
 あはは、と花垣さんは苦笑いしている。と言うか、なに当たり前みたいな顔して打ち合わせに混ざってるんだこの男は。第三者がいたら仕事の話できないじゃないの。
「結婚して2年、だっけか。奥さんとはよろしくやってんの?」
「あ、はい! おかげさまでヒナとは円満っす!」
 蘭は花垣さんの奥さんのことも知ってるんだ。2人は相当仲良いんだな……。じゃない! 仕事! でもちょっと気になるから、雑談がてら聞いてみよっと。
「あの、花垣さん。ちょっとお聞きしてもいいですか?」
「はい、なんでしょう」
「花垣さんと蘭って……どういうつながりがあるんです? 全く思いつかなくて」
「あー……。えっと、それは、ですね……」
 花垣さんは注文したアイスコーヒーのストローをいじりながら、分かりやすく冷や汗をだらだらと流し始めた。目が泳ぎまくっている。静かな喫茶店なせいで、彼の動揺がダイレクトに伝わってくる。
「昔、ちょっと……地元の、グループで一緒だったというか……ね、蘭君!」
「グループって何だよ。普通に暴走族チームって言えばいいじゃねえか」
「ちょっ、蘭君!!  声大きいですって!!」
 花垣さんが慌てて周囲を見回す。人気のない喫茶店とはいえ、店内に響くそのワードは思ったよりも物騒な響きだ。
「チーム……?」
 思わず呟いて蘭を見る。たしかに昔から素行が悪くて喧嘩が強くて、六本木のカリスマだなんて呼ばれていたから納得はいく。確か昔天竺ってチームに属してたことも知っている。でも、向かいの席に座る花垣さんからは、そんなイメージを全く感じない。
 目の前で「ひえぇ、もうその話は勘弁してくださいよ〜!」と頭を抱えている、頼りなさげな第三助監督を凝視する。どう見ても特攻服を着てバイクを乗り回していたようには見えない。ただの、現場でいつも寝不足そうな良い人だ。
「こいつ、これでも当時は東卍の総長代理やってたんだぜ?」
「ええっ!?」
 東卍って、あの東京卍會のこと? 本日一番の衝撃に、私の声が静かな店内に少し響いてしまった。周りに人はいないけれど、私はあわてて口をつぐむ。
「そんな過去が……」
「いやいやいや! 形だけですって! ケンカだけならオレより蘭君の方がよっぽどヤバ……あ、いや、凄かったんですから!」
「でも、なんとなくわかる気がします」
「へ?」
「花垣さん、気難しいカメラマンとか機嫌悪そうな大道具さんとか、どんな相手でも物怖じせず話しかけてますもんね。その場の意見とか取りまとめるのもうまいし」
「あ、あはは……あざっす」
 私が思いついたことを口にすると、花垣さんは照れとも困惑ともつかない表情で頭をかく。その様子を、蘭はつまらなそうに頬杖をつきながら見つめている。
 不意に切れ長の目が、私の方へ向けられた。
「ま、そんな昔の話はどうでもいーの。それよりさぁ」
 蘭がテーブルの下で、私の冷えた膝を、自分の長い足でぐっと小突いてくる。
「花垣。悪ぃんだけどさ、今日の打ち合わせサクッと終わらせてくれる? オレ、こいつに用事あんの」
「……っ!」
 昨夜の出来事と感情が頭の中によみがえり、顔がカッと熱くなる。お昼の、こんなに明るい場所で、何を言い出すんだこの男は。必死で忘れようとしていたのに。
「え?  よ、用事ですか……?」
 花垣さんの視線が、私と蘭の間を往復する。映画の過酷な現場で揉まれているだけあって、こういう「男女のただならぬ空気」を察知する能力は無駄に高いらしい。次第に彼の顔が、何かを察したような色を帯びる。
「あ、いや!  俺は全然、資料さえ渡してもらえればいつでも!  むしろお邪魔ですよね!?」
「お邪魔じゃないです!  仕事の話をさせてください!! 資料だけじゃわからないところもたくさんあるはずですし、ね!?」
 テーブルに身を乗り出す私を、蘭は私の肩に腕を回し、距離をさらに詰めてきた。耳元に、あの低くて甘い声が近づく。
「オマエ、昨日オレにあんなことしといて、仕事に集中できると思ってんの?」
 昨日の仕返しと言わんばかりの笑みが、すぐ隣で揺れていた。

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