―――おやおや、こんな所で。迷い込んでしまったのでしょうか。
遠くで、いや近くで。声が聞こえる。
耳触りの良い、子守唄を思わせる低い声音だ。人間の男だろうか。
ずっと聞いていても不快にならない優しい声だ。
少し乾いた指の腹が傷をなぞるように擦った。びり、と微かな痛みが走ったがその程度だった。
久しく感じなかった『気遣い』の滲む指先。
―――怪我をしていますね。悪意を感じる傷です、逃げて来たのでしょうか。
―――『どうする。ほっといても死にゃしない傷だが』
―――放っておくわけがないでしょう。中まで運びますよ、手伝ってくれますか?
放っておいてくれるなら良かった、だが。まさか保護するつもりなのだろうか。
それはいけない。この身は眠っている者に悪夢を見せてしまう。
その場にいる者達を決して幸せにすることもなく、安寧を齎さない特性だ。不幸を産み出してしまうだけの、誰かを苦しめてしまうだけのものだ。
決してここにいてはいけない存在だ。身動ぎが抵抗と悟ったのか、人間はこら、とあまり覇気のない叱りを飛ばしてくる。
―――駄目ですよ。ひどい怪我なのですから。
叱っている、つもりなのだろうか。ひどく優しく甘ったるい声だ。
人間の周りから、ポケモン達の声が沢山聞こえてくる。人間に同調している声だ。
ここら一帯の主、といったところだろうか。
この優しい声に凭れ掛かりそうになる意識を懸命に繋ぎ止めて抵抗する。
抵抗、しているつもりだ。出来ていないのだろう、運ぼうとする人間の手つきはやや強引になりつつある。
『………、…捨テ、置ケ………』
―――『なんだ、喋れたか。なら大人しくしておいたほうがいいぞ。こいつはこの手の事に関しては天下一の頑固者だ』
笑みの形の口で紡いだようなニヒルな声音が傍でする。
この人間のポケモンだろうか。脳に直接響く声は、自分と同じテレパシーの類だろう。
この状況を面白がるような口ぶりは、この人間の行為を止めるつもりなど更々ない気配だった。
―――色々訳アリのようですし、ポケモンセンターはやめておいた方がいいですかね。
―――『回復マシンはウチにもある。あとはこのハピナス達が進んで介抱したがるだろう』
―――回復に関しては私は門外漢ですから…そうですね、任せましょう。
抵抗虚しく、運ばれていく感覚がする。今は、治療して貰わなければこの人間は納得しないのだろう。
私としてもこのままではどこにも逃げられない。
回復を受けるだけ受けて、動けるようになったらすぐに去ろう。そう思った。
薄ら目を開く。視界は薄暗い。
意識がいつの間にか落ちていたようだ。身体を直ぐに確認する、傷はほとんど残っていない。
回復マシンに入れられていたのだろう。
体力を使ったのかひどい眠気だった。それでも、傍で身動ぎする気配を感じて迂闊に目を閉じられない。
「おや、気が付きましたか?」
美しく甘やかな声音だった。あやされる幼子のような心地よさが耳を擽る。
この人間の顔を、そういえば知らない。一応身体を癒してくれた人間だ、目を見て礼を言いたかった。
そう思って顔を上げると、すぐに月と目が合った。
緩やかに、心地よく瞼を焼く鋼の混じった金色。月の色だ。
月の左目が慈愛に満ちた眼差しを向けてくる。月の目を持つ男はまるで夜を連れているかのような色に溶け込んでいるのに、肌だけは抜けるように白く、夜の色と溶けて青白く見える程だ。
顔立ちは一目見て、美しい、と。真っ先にそれが思い浮かんだ。
起き抜けに見るには眩暈を覚える程の美しい男は、天鵞絨を思わせる滑らかな声を紡いだ。
「身体の傷は粗方治りました。あなた、毒を浴びておられたのですよ。随分と毒が回っていましたから、放置されていたのでは?ハピナス達が慌てていました」
角のない声、言葉。何の悪意も、裏も感じられない透明な声色。
『……ドレ程ノ間、私ハ眠ッテイタ?』
「丸一日眠っていたのですよ。疲れが出たのでしょう」
『…!!』
丸一日?つまり、夜をまたいだという事か?
夜眠った頃に、この身体が此処に住む者達に悪夢を見せたはずだ。
ああ、だから、彼もきっと恐ろしい夢を見たはずなのに。何もない筈がないのに。
「ああ、あなたの特性はもう知っていますよ、ダークライ。眠っている者に悪夢を見せるポケモン。…けれどその様子を見るに、特性が理由で自分では制御できないのでしょう?」
『……知ッテイルナラ、何故私ヲ…!』
「む…理由がいるのですか、困りましたね。言い訳を考えておくんでした」
理由は、無いというのか。本当にただの善意でこの特性を知っていながら助けたというのか。
あまりに愚かで向こう見ずな、身を亡ぼす善意だ。
「貴方の傷を治すのに、私達だけではやはり役不足です。何か感染症にかかっていたら大変ですから、ジョーイさんにお願いしたのですよ。その時に貴方の事を教えてもらったのです」
言葉の出ない私へ、それは安堵させるための笑みなのか。
何の悪意もない、温かな笑み。月のような怜悧さの中にじわりと滲むような柔らかな温かさが、怖いくらいに優しかったのだ。
「貴方がどんな目に遭ってきたのか、私は根掘り葉掘り聞こうとは思いません。ですが私達は、貴方を迫害は致しません。ここにいる子達は皆、傷ついた心と身体を癒すためにここにいる」
ああ、そうだろうとも。彼の声はあまりに優しくて、身を預けたくもなる。
「貴方が見せる悪夢は、ここに暮らしているムンナやムシャーナ達が食べてくれている。誰も悪夢は見ていませんよ」
『!?誰モ…?』
「ええ。もちろん、私も」
彼の手が触れる。手袋越しながらも彼の体温が伝わってくる。
感じた記憶なんて殆どない。きっと触れられた事なんてなかった、彼は驚くほど暖かかった。
頭部を穏やかに撫でられて、不意に胸にこみ上げた何かの名前なんてわからない。
「ダークライ。貴方さえよければ、ここにいても良いのですよ。ここは人の住む町からは離れていますから、町の人が悪夢に苦しむ事もありません。ここに、貴方を傷つけるものはなにもない」
居場所がないなら、ここが、私が、私達が貴方の居場所になりましょう。
思っていたより、この心身は疲れ切っていたのかもしれない。彼の優しすぎる言葉はすとん、と安堵を以て奥に染み入った。
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