小さい頃は幸せだったと思う。小さい頃と言っても本当に生まれてから一年程しかたっていない頃だ。
私の家は貧しかった。兄弟は沢山いた。お父さんとお母さんもいた。
雪深い山奥でひっそりと暮らしていた。貧しかったしいつもお腹は空いていたけれど何も不満なんてなかった。
長い冬が明ければ雪解け水が清らかな小川を作るし、その水で米が少しながらも作れた。山にはたくさんの山菜があった。
一番上の兄はフキノトウが好きだった。姉は古い米で作ったせんべいが好きだった。二番目の兄は、二番目の姉は。顔をしっかりと覚えている。みんな私をいっとう可愛がってくれた。

一歳ぽっちのわたしが、物心もついていない私が、どうしてそんなに鮮明に周囲を記憶していたのか。

その日は冬季には珍しく少しだけ暖かな日だった。
暖かったから一番上の兄が私を連れて町に降りた。私の家は焼き物をしていたから、それらを売る為に。
私をあやす為の手作りの太鼓を鳴らしながら兄は町で焼き物を売って、日が暮れた頃私たちは家に戻った。
お母さんが泣いていた。家の中でお母さんが泣いていた。
真っ暗がりで囲炉裏の灯火すら消えた冷えた家の中は何も見えなかった。でも煌々と燃えるような獣のような二つの光が、一瞬にして泣いているお母さんの首を食ったように見えた。
兄の悲鳴が頭上で聞こえた。
見るな、という声が途中で消えた。私の身体には生温かな水が降り注いだ。
突如支えを失った私の身体は土間に叩きつけられ、痛みに泣きだす私の身体を、獣の光が圧し掛かり覆い被さってくる。
その獣の光をやどした眼は、その顔は、お父さんの顔をしていた。
――――おとうさん。口の周りをたくさん汚して、野犬のように唸っている。
――――おとうさん。丸太のように太い腕が、私の柔らかな頭蓋を、掴んだ。
その時に、未だ物心のつかぬ私の頭に、実際に目が眩むほどの膨大な記憶が過ぎった。私は気づいた。『思い出した』。
その発達していない頭には到底抑え込めないそれらに私が泣くのも忘れて呆然としている最中、お父さんの頭が、消えた。
『――――ああ……遅かったか……』
知らない男の人の声がした。お父さんの身体がゆっくりと倒れる。視界が開ける。
その時、暗がりの中でもはっきり見えた黒い背中に、真白く力強く筆引く『滅』の文字を見て。

私は、「新たに生を受けた」世界の実情をハッキリと目の当たりにして、齢一歳にして絶望を知ったのだ。


昨今現代を生きる皆さまで、最早『鬼滅の刃』という作品の名を知らぬ人はほとんどいないだろう。
鬼になってしまった妹を人間に戻す為に、主人公・竈門炭治郎が鬼殺しのプロ集団『鬼殺隊』に入隊し、成長していく物語だ。
無論私も知っていた。何なら原作は飛び飛びで読んでいた。だが熟読していたわけではないし、熱烈なファンというわけでもなかった。
そんな平成生まれのOLが私だ。私『だった』。
30代に突入した頃、私は仕事からの帰りに通り魔にあって死んだ。呆気なさ過ぎだろって思うだろ。本当に呆気ねえよ。
でもそんなもんだった、私の人生なんて、という何とも言えない嘗ての己への薄い絶望を、私は今世父が化け物になっていざ私が食われそうになった瞬間に思い出した。嘘だろ。何も信じられない。
そして私を化け物になった父から助けた人の出で立ちでもうピンと来てしまった私ってば優秀な記憶力…と今の今まで忘却の彼方だった前世の記憶に皮肉をぶちまけながら、私はこの二度目の生を受けた己が大正の世に生まれ、そして『鬼滅の刃』の世界に誕生してしまった齢一歳の女児である事を理解してしまった。SANチェックです。

まだ赤ん坊の私は、助けてくれた鬼殺隊の人の手によって一人の老爺に預けられた。
その老爺の住む家の土間に立てかけられたその一振りの刀を見た瞬間に私は察した。そうだよな。鬼殺隊の人がダイレクトに赤ん坊を手渡しする相手なんて、藤の家か――――育手だ。
私はまだ赤ん坊であるからして満足に言葉も発せられない。意思疎通も出来ない。でも意識だけは三十路超えた元OLだ。だから周囲の発する言葉の内容は理解できる。私の地道な努力により、私を引き取った老爺の名は『雲類鷲金剛』という事が分かった。
彼は私を『無垢』と名付けてくれた。潔白でも純真でもない私にその名前とは、開始早々名前負けしてしまった気分だ。
雲類鷲金剛―――爺様は、私が4つになった頃、まだ肉刺一つない薄い皮膚に覆われたこの小さな手に木刀を握らせた。

そこからは地獄だった。毎日のように厳しい稽古、これが4つになったばかりの幼女への仕打ちかと思った。お前これ令和の世なら即豚箱行きだぜ。しかし現代のゆとり気味常識など大正の世で適応されるのはドドド箱入りお嬢様くらいだ。私は農民なので適応外。はい。
肉刺は何度も潰れて骨も何度も折れたし折られた。それでも私が泣きごとを言いながらも爺様の元を離れなかったのは、私が爺様の手から離れて一人で生きていける身だと思わなかったからだ。
私にもう肉親はいない。守ってくれる人はいない。爺様だけだ。ならば爺様から離れるわけにはいかないのだ。爺様は私に剣だけでなく文字の読み書きを始めとした初等教育も全てしてくれた。それは感謝だった。

しかしそれらもつかの間、私は5歳になった際に爺様の所を叩き出された。
『今からお前を鱗滝のもとへと預ける。お前が水の呼吸を会得するまで帰ってくるな。お前の頭に被さっている頭巾はお前の頭を隠す為のものだ。心からお前が気を許せる相手が現れた時、その頭巾を脱ぎなさい』という達筆かつ説明の少なさがすぎて解読と理解に時間のかかる書き置きを私が認識した時には既に爺様と住んでいた小屋ではなくその鱗滝さんの小屋に輸送された後だった。あのクソ爺私を気絶させて運んだな。目が覚めた瞬間厳つい天狗のお面が視界いっぱいに広がっていた私の心境たるや、悲鳴をあげなかった私の鋼の表情筋と精神力に我ながら感服だね。
鱗滝さん―――鱗滝左近次。鬼滅を知っている皆様なら存じ上げているだろう、主人公・竈門炭治郎の師だ。
本編でも嫌という程分かる、鱗滝式水の呼吸ブートキャンプに僅か5歳で放り込まれた可哀想な私。早くも私の人生は此処までらしい。短い人生だった……

………と幕引きたいのは山々だが大正生まれの幼女の身体は中々にしぶとかった。
真白くまだ私には大きすぎる頭巾で頭をおくるみのように包んだ幼い私に最初は戸惑っていた二人の兄弟子は私に厳しくも優しく、本当の兄のように接してくれた。二人。そうです、はい。

「義勇!無垢を甘やかすな!」
「でも錆兎、無垢の身体にまだそれは無理だ!身体を壊してしまう」
「それをこなせない様であれば命を落とすのは無垢なんだぞ!」

そうです。未来の水柱、在りし日の冨岡義勇さんと、存命の錆兎さんです。
錆兎さんブートキャンプは本気で殺されるかと思うくらいには鱗滝さんとは別ベクトルできつかった。
普通幼女にここまでのスパルタ指導はしないだろうと踏んでいたが甘かった。どうも私は水師弟から見ても才能があるらしい。才はあるが技量があまりにも追い付いていない事が歯痒いんだろう。未熟ですまない。
上手く呼吸が出来ずに膝から崩れて刀を落とす。私にはまだ重すぎる真剣。痺れて痙攣するように震える手。
義勇さんの言う事も分かる。でも錆兎さんの言う事だってわかる。これをこなせなければ死ぬのは私だ。この世界は弱い人間が皆が皆守られて生きて行けるような優しい所じゃないと私は知っている。嗚呼歯痒いな。歯痒い。
それに義勇さん達が必死になって私に稽古をつけてくれるのは、私が水の呼吸を会得しない限り、育ての親である爺様の元へ帰れない事を憐れんでくれているからだ。こんな幼子に剣を覚えさせるなんて、と思っているのだろう。知らない場所に、知らない人間達の中に齢5の女児を放り込んで、呼吸を会得しない限りは帰れない。まだ親下で庇護されるべき年齢の幼子に対してあまりにも残酷で厳しすぎる仕打ちだと思っているのだろう。
それでも、爺様はそういう御人だ。優しい御人だが、私に爺様の持つ呼吸の伝授を急いでいるのだ。あの御人はもう長くない。せめて生きている間に、爺様の呼吸を私は継がねばならないのだ。
鱗滝さんも、錆兎さんも、心を鬼にし私に稽古をつけてくれている。そして、それ以上に。

「………、さびと、あにさま、」
「無垢…」
「…つづきを、」

私があの日鬼になってしまったお父さんに食われる事なく生きていられるのは鬼殺隊のお陰だ。そして、私が此処まで生きていられたのは爺様のお陰だ。
私は生きている限り、爺様へと恩を返さなければならない。
それが、爺様の呼吸を継ぐことだ。爺様の願いを叶えるだけの環境は十分に整っている。
だから私は彼らに感謝はすれど恨む事などしなかった。
それに、稽古の時以外は鱗滝さんも錆兎さんも、もちろん義勇さんも私に優しくしてくれた。錆兎さんは私に「あにさま」と呼ばれるといつもくすぐったそうな顔をしながら笑ってくれたし、義勇さんは少し不器用だけど私を甘やかすのが好きだった。末っ子だったから妹のような存在が出来て不思議な感覚なのだろう。鱗滝さんは厳しい御人だけれど、私に「女子の持ち得るものが刀だけでは苦労もしよう」と私に羽織をくれた。私にはまだ随分と大きな羽織だったけれど、私は嬉しくていつも袖をたくし上げながらそれを着用した。
修業はつらかったけれど幸せだった。

だが、私がやって来たその年は、同じくして錆兎さんと義勇さんの最終選別出立の年だった。
二人が鱗滝さんから狐のお面を貰っている横で、私はずっと錆兎さんを見ていた。

―――――彼は、あの藤襲山で死んでしまう。私は知っている。

私にとっての兄のような、師のような存在で、厳しくも優しかった人が。死んでしまう。
彼を見る事がもうこれで最後なのが、胸が張り裂けそうなくらいに辛くて、苦しくて、悲しかった。

「行ってくる、無垢。狭霧山と鱗滝先生を頼ん、!?」
「、無垢?」

私はたまらず二人に抱き着いた。私の腕が憐れなほど震える。知らず涙が出る。
怖い。怖い。行かないで錆兎さん。死なないで。帰って来て。
駄々っ子のように二人にしがみ付いた。私程度の力簡単に振り払えるだろうに、二人は私を振り解かなかった。代わりに、私の頭巾の上から頭を優しく撫でてくれた。
分厚い頭巾越しでもその手が温かくて、その手が冷えてもう動かなくなることが怖くて、私はしゃくりあげる。
この身体になってから随分と私は泣き虫になったものだ。中身は30過ぎだってのにな。

「赤子のようだぞ無垢。しゃんとしろ」
「ぅえ、ええん、しな、しなないで、あにさま、あにさまぁ」
「死なない、ちゃんと帰ってくる。義勇と一緒に帰ってくるさ」
「えぐ、っぐす、…まってます、あにさま達がかえってくるのを、ずっとずっとせんせいといっしょにまってます」
「うん。約束しよう。俺達はちゃんと一緒に帰ってくる。義勇もちゃんと連れて帰ってくる」
「…、ほんと?」
「錆兎が約束を破った事があるか?」
「………ありません」
「そうだろう。男に二言はない。だから待っていろ。ちゃんと、必ず俺達は生きて帰ってくる。約束だ、無垢」
「…ゆうかんとばんゆうはちがいます、あにさま。ちゃんといきることをゆうせんしてくださいね、生きてかえってきてください」