10.違うそうじゃない
「いんちょーっ!及川君と付き合ってるって本当!?」
男子バレー部の見学をした翌日。下駄箱にて上履きに履き替えていたら、一年の時同じクラスだった咲ちゃんが興奮気味にやってきた。
それよりも……付き合ってる、というのは、どういう意味なのだろうか。
「…確かにこの前、自販機まで飲み物を買いに行くことに付き合いはしましたけど」
「いや、そういう付き合うじゃなくて」
努めて冷静に返されたツッコミを素直に受け止めつつも首を傾げて見せては、咲ちゃんは痺れを切らしたように強めの口調で言った。
「だからっ、及川君と恋人なのかって事!」
「…あの、何故そんな質問が出てくるのかがまず分からないのですが」
「ええっ、だって女子の間で割と有名だよ。いんちょー、昨日男子バレー部の見学行ってたんでしょ?」
「はい」
「その時、及川君と親しげだったからもしかして…って色んな子が噂してたよ」
さすが及川君。常に話題にあがり、且つ、女の子の中で君臨し続けているとは。
誰が言い出した噂かは分かりませんが、根も葉もないことを広めるのは困りますね。
折角新しいスタートを切るための準備に入るところだというのに、いきなり想定外な障害が出現してしまいました。
「及川君とは同じクラスになったことで話すことは増えましたが、私達は友達であり、そういった恋愛関係にはありません」
「そ、そうなんだ」
「クラスの人から最近よく言われるようになったのが、先生と生徒、姉と弟、主人とペットみたいだと」
「直接聞いてないのに及川君が絶対下の立場に置かれてる気がする…!!」
「言いだしっぺは花君達です」
「ああ…花巻君、言いそう」
苦笑を浮かべながらそう言う咲ちゃんは私の話を聞いて少なからず安心したようだ。
「いきなり変なこと聞いてごめんね」と謝る彼女は、クラスが変わってからも密かに及川君を想っているのかもしれません。
「いんちょー、相変わらず朝早く登校して読書してるの?」
「……いえ、」
「?」
「その…今日から、脱・本の虫を目標にしてます」
「!?」
目を丸くする咲ちゃんに昨夜まとめた自分の考えを大まかに説明すると、彼女はまず一言目に「本がない生活耐えられるの!?」と叫んだ。
それ、私自身が一番心配でなりません、咲ちゃん…。
***
「…いんちょーちゃん、大丈夫?」
朝練を終えて教室にやってきた及川君は、挨拶の代りにその一言を寄こした。
心なしか苦笑されている気がしますが、これは私が乗り切らねばならない試練なので返事をするならばこれしかありません。
「ダイジョウブデス、キニシナイデクダサイ」
「めっちゃカタコトだけど!?」
大好きな本を読む時間を削れないようでは、バレーに正面切って関わるなんて無理な話だ。
今まで読書に当てていた時間のほとんどをバレーに替える必要がある。そのためには、脱・本の虫を成功させなければ話しになりません。
「よーし、とりあえず30分我慢できたな。お疲れ影山」
「あ…ありがとうございます岩君…」
「俺が来る前に何してたの岩ちゃん」
「影山の見張り」
「なにそれ」
今までの生活で読書に当てていた部分から読書を少しずつ外していくには、まず朝の読書習慣をなくすことから始めてみたものの、気づけば本を開いてしまっていた。
カバンに入れてこなくても、ロッカーに数冊置いていって分もあるので動けば本を手に取ってしまえる。
どうしたものかと頭を悩ませていたら、及川君より早く教室にやってきた岩君が私の様子がいつもと違う事に気づいてくれて。
事情を話す事でなんと協力してくれることになりました。自分にも他人にも厳しい岩君が協力してくれるなんてありがたすぎます。
「ああ…手が自然と本を求めてます……成程、これが所謂【欲求不満】ですか…」
「いんちょーちゃん悟り開いてない!?」
「影山。いきなり全部変えるなんて無理なのは自分でも分かってんだろ。なら、飴とムチで自分を手懐けろ」
ホラ。岩君は私が持参していた本の一冊を頭にポスっと乗せた。
本を読まないことで【ムチ】で頑張ったのなら、今度は本を読むことで【飴】を与えろと、そういう事ですか。
「…本より先に岩君に手懐けられそうです…」
「は?」
「何言ってんのいんちょーちゃん!岩ちゃんなんてやめときなよ!それより俺にしときなって!!」
「お前が何言ってんだバカ及川」
「何でそこで俺の悪口!?」
遠くの方でチャイムが聞こえる。
ほんの数十分本を読まなかっただけで随分と日常がズレてしまった感じがして落ち着きません。
ああ、あの本の続きが気になる。あの後物語はどうなっていくのか。あの人は自分の宿命に向き合って挑むのか、それとも違う道を選ぶのか。
いや、それよりあの子犬は母犬と会えたのだろうか。いくつもの試練を乗り越えて再会出来たのだろうか、ああ気になって仕方がない。
「オーケー。いんちょーちゃんが頑張ってる事は分かった。ならさ、」
トンと私の机に両手を着いた及川君が、机に項垂れる私の顔を覗きこんでニッコリ笑う。
「今日から俺に集中しちゃえば良いじゃん」
―――この人、何言ってるんだろう。
私と岩君は同時に無感情の眼差しで及川君を見据えるのだった。
「いんちょーちゃんはトキメキが無さすぎる!今のはキュンとするところでしょ!」
「…そうなんですか?すみません、私にはそのトキメキとやらが欠落してるようで」
「いや、お前は間違ってねーぞ影山。今のでトキメキがあったとしても、そうなるのはコイツのファンくらいだ」
「岩ちゃんは彼女が出来た試しがないから分からないんだよねぇ。仕方無いよね、彼女いない歴=年齢だもん、ブヘエ!?」
岩君の渾身の拳が及川君に炸裂しました。
今のは見ていてスカッとしました。ありがとうございます、さすがは岩君です。頼もしい。
「つ、つまり俺が言いたいのは…」
何とか持ち直した及川君は私の両手にバレーボールを持たせた。
「本じゃなくて、これを触る時間に変えなよって事」
「…!」
「ただ我慢するより、よっぽど有意義に過ごせると思わない?」
「及川君…」
先程まで正直、君が何を考えてるのかよく分かりませんでしたが…。そうですね、本以外の好きなものに触れて過ごすことも大切ですよね。
「…お前にしては珍しくまともなこと言うじゃねーか」
「珍しくって何?俺はいつだってまともでしょ」
「……」
「その残念なものを見るような眼差しは何!?俺だってたまには言うよ!」
「自分で”たまには”って言ってりゃあ世話ねーよな」
「ぐぬぬ…。岩ちゃんのクセにぃ…!」
「それより影山のやつ、ボール持ってからスゲー真剣な顔になったが、どうしたんだ」
「…本当だ。無言で両手でボールをクルクル回してるね。サーブを打つ前みたい」
「あの時見たサーブはなかなかのもんだったからな。女であの威力はスゲーよ」
「女バレの子達も圧倒されてたもんね」
…何でしょう。ボールを触ってたら動きたくなってきました。
バレーがしたいです。気持ちの良いトスを上げて、スパイカーの人にドンピシャで打ってもらいたい。鋭いサーブを決めたい。
「……いけません。さっきより欲求不満になってきました」
「へ?」
「及川君のせいです」
「え、俺?」
「ムラムラします」
「ッ!?」
「とても、やりたいです」
「い、いいいいんちょーちゃん!?」
「やりたくて……疼きます」
何が!?と慌てた様子で問うてくる及川君に返事もせず、私はボールを持ち直すと席を立って二人から距離をとった。
何が起きてるか分からないと顔が物語ってる二人がこちらを見ているのを確認し、私は軽くボールを頭上へ放った。
そして降下してくるそれに合わせて両手の指先でボールに軽く触れて、次の行先へ向けて放つ。
「岩君!」
突然あげられたトスに岩君は直に反応してアンダーで私にレシーブしてくれた。
返ってきたボールが次に行く先は勿論――――。
「及川君!」
同じようにアンダーで少しの狂いもなくゆるやかな弧を描いて飛んで行ったボールは、ポスっと及川君の両手に納まった。
「テメエ!何で今のしっかり返さねーんだボケがぁ!!」
「今の流れを断ち切るなんて…!見損ないましたよ及川君」
「いや、その前にここ教室だから!てか、先生が既に来てるから!!」
ビシッと彼が指さした先には古文担当の大分高齢のおじさん先生が教卓に立っていた。
「すまんねぇ、邪魔しちゃって」と穏やかな笑顔で返されれば、ものすごく申し訳ないことをしたと思い知らされる。
「すみません先生。反省として廊下に立ってます」
「え、」
「俺もそうします」
「いや、なにもそこまでしなくても…」
先生の制止を振り切り私と岩君は揃って廊下に出て行った。
「さっき、岩君がレシーブ返してくれた時、とても嬉しかったです。ありがとうございます」
「礼を言われる事はしてねーよ。あのトスは、返すべきボールだと思っただけだ」
自然と交わされた熱い握手がこんなにも嬉しいものだなんて知りませんでした。
「ちょっとー!二人だけ友情育まないで俺も入れてよー!!」
次は絶対返すから!及川君はそんなことを叫びながら廊下に飛び出してきたので、隣の教室で授業していた先生に本当に怒られる事となるのでした。