33.努めるのは平常心



「じゃあ、悪いが買い出し頼んだぞ二人とも」

「はい」

「いってきまーす」


合宿二日目のお昼。午前中の練習を終え、お昼休憩に入った時に監督である入畑先生にお使いを任された。
参加してるメンバーも多いことから消耗品の減りが思いのほか早く。最初は私一人で行こうとしていたところ、偶然通りかかった及川君が付き添いしてくれる事になった。
レギュラーで、しかも正セッターとして練習量も疲労度も高いはずなのに嫌な顔ひとつせず申し出てくれた及川君。
元々女の子に優しい彼だから、今回も気を遣って申し出てくれたんだろう。


「ありがとうございます、及川君。折角の休憩中なのに…」

「気にしないで。俺が志歩ちゃんの手伝いしたかっただけだから」


今お世話になってる宿泊先は田舎寄りで、一番近いスーパーまで片道20分くらいかかってしまう。
この暑い太陽の下を長い時間歩くのは気が引けますが、及川君は微塵もそんな風に思わせない笑顔で歩きだした。

青い練習着の袖を肩が見えるくらいに巻くっているから、及川君の鍛えられた腕が太陽に照らされて眩しく見える。
及川君の様な逞しい腕になるには、あとどれだけの筋トレを行う必要があるのだろうか…。
今やもうサポートに回ったので選手として練習していた頃に比べて、筋肉の付き加減が柔らかくなってしまったような気がする。
気になって自分の二の腕を軽く抓んでみたら思いのほかムニッとしてて衝撃を受けた。


「志歩ちゃん一人で何してんの?」

「えっ?あ、いえ、これは…その…」


恥ずかしい所を見られてしまいました。何とか誤魔化そうにも今更遅く、及川君はくすくす笑いながら私が隣に来るまで足を止めた。
控えめに及川君を見上げると彼は悪戯っ子の様な顔をしていて、私の右腕を握ると何の抵抗もなく二の腕をムニッと触ってきた。


「ちょ…!?」

「おお。硬すぎず柔らかすぎず丁度良い弾力だね。でも今でもバレーやってるから良い筋肉ついてるね」

「冷静か、です」

「今のツッコミ?志歩ちゃんツッコミの時くらい敬語無くせば?というか、俺達と喋る時も敬語じゃなくていいじゃん」

「あ…これはもうクセなんですよ」

「…クセ?」


きょとんとする及川君に頷き、私は幼い頃の話をすることにした。
と言っても話せば長くなってしまうので簡潔に言うと、私は小さい頃から祖母の事が大好きで、私はずっと祖母の真似をしていたんです。
祖母は常に礼儀正しく、誰とでも敬語で話す人でした。だから真似をしているにつれ、気づけば祖母のように敬語で話すのがクセになっていたんです。
家族には――特に飛ちゃんには「堅苦しいからやめろ」って言われて。なので、家族には敬語を使わない様にするようになりました。

そんな感じですと話し終えて見上げた及川君は「フム」と顎に手を添えて考える仕草をする。
今の話しの中に彼に考えさせるような事があっただろうか…。
太陽が照りつける日差し。蝉の元気な鳴き声を聞きながら暫し、及川君は野放しにされていた私の右手を左手できゅっと握ってきた。


「あのさ、試しに俺に対して普通に喋ってみてくれない?」

「…え?」

「つまり、敬語を使わずにって事」


随分と唐突ですね…。自然と漏れた言葉に及川君は苦笑する。
私は今まで友達に敬語ではなくタメ口で話したことはあっただろうか…。気付けばずっと敬語で話していたからよく覚えていない。
それに、こんな風にタメ口で話してって言われた事もなかったかも…。思い返せば及川君の提案で自分に変化が生まれる事…多い気がする。


「えっと…何を話せば…?」

「何でも良いよ。あ、じゃあさ、今から俺との会話に敬語禁止ね」

「え」

「因みに、敬語1回につき志歩ちゃんにはペナルティー受けてもらうからね」

「そ、それは流石にズルイですよ。せめて3回につきペナルティー1回とか…」

「はい早速1回ー」

「う」


こういう時の及川君は容赦がない。意地悪になるとすごくウキウキした表情になって、相手が困れば困るほどイイ笑顔をする。
今まで及川君が弄られてるところだったり、自分が彼をからかう事の方が多かったけど、いざ自分がその立場になると何とも難しい相手でしょうか。


「志歩ちゃん困ってるねぇ。普段あんまり慌てたりしないから新鮮だよ」

「…今の及川君、性格悪いです」

「俺は元々こんなんだよ」


そう言って太陽に負けないくらい眩しい笑顔で笑った彼は、指だけ握っていた私の手を今度はすっぽりと包みこんだ。


「お、及川君…?」

「最初のペナルティーだよ。この暑い中手を繋がれるのって結構困るでしょ?」

「…」

「って、志歩ちゃんの手、思ったより熱くないね。逆に少しひんやりしてるのは何で?」

「外出する直前まで洗い物をしてたせいかと。お水も冷たかったですから」

「成程ねー…って、志歩ちゃん?早速2回目だけど」

「…あ」


思わず口を手で押さえたけれど、そんなことをしても遅いのは分かってる。
こんな調子じゃあ、宿に戻った時にはペナルティー何回になってるんだろうね。
そんな事を云われても、何度も言うようにこれはクセになってしまっているから、今更外そうにも簡単にはいかない。

考えたくもない回数が脳裏を過って思わず頭を振る。逃げるように下げた視線の先に映ったのは及川君と繋がれた手。
私よりもずっと大きな掌。たくさん練習した事で厚くなった皮、骨ばった長い指。きちんと手入れされた爪。
さっきまで彼より低かった手の体温が、いつの間にか彼の熱がうつったようで同じ温度になってしまった。


「…あつい…」

「暑いねー」


それでも手は放されない。私からも不思議と放そうとは思わなかった。


***


「志歩ちゃん大丈夫?」

「はい…なんとか」


暑い中、漸くスーパーに到着したのは良いものの、外が暑いことで店内は冷房がしっかり効いており私からしたら寒いくらいだった。
しかも汗も滲んでいたため、そのせいで体温は徐々に下がり、腕には鳥肌が立っていた。
それを見かねた及川君が、一旦は買い物カゴを持つために放された手を再び握ってくれた。


「うわっ、予想以上に冷えてるじゃん志歩ちゃん!」

「私、昔から冷え症で…」

「女の子は体を冷やしちゃいけないんでしょ?…あ、これ一応肩に掛けといて」


ズボンのポケットに半分ほど突っ込むように入れていたタオルを私にかけてくれた及川君。
「汗臭い?大丈夫?」と気にしていたけれど、そんな事は全くなくて。私は大丈夫ですよと伝えてお礼を述べた。

私の事をたくさん気遣ってくれる及川君。タオルを貸してくれたり、カゴを代わりに持ってくれたり、さり気なく冷気が出ている側を歩いてくれてたりする。
頼んでも頼まれてもいないのに、さり気なくそうして行動できる及川君を見てると、モテる理由はこういうところからもきているんだなと納得した。


「どう?少しは及川さんにドキッとした?」

「…」

「…えっ。微塵も?」


何も言わない私が予想外だったようで少し慌てる彼は、やはり可愛いと思ってしまう。


「そんな事ありませんよ」

「ホントにー?」

「今、及川君が何故あんなにもモテるのか…少し分かりました」

「そっかそっか、少しでも分かってくれたなら嬉しいよ。……って今更すぎない!?」


志歩ちゃんにとって俺はそんなに恋愛対象外なの!?そんな驚く彼の言葉に私も一緒に驚いた。
今まで及川君を恋愛目線で見たことが無かったから。岩君も花君も松君も、みんな素敵な人達ですが、私の中では良き友人。
それに皆さんバレーに真っ直ぐで、今は恋愛云々言ってないし、そもそも及川君がまるで私を恋愛対象内と言ってる様な発言をすること自体が驚きだった。


「お、及川君は、私を異性として意識してるって事ですか?」


言ってから少し後悔した。さすがに直球すぎてしまったかも、と。
けれど及川君は前を真っ直ぐに見ながら歩く表情は真剣で。不意に視線がかち合った瞬間には、私の心臓はドクリと跳ねた。


「意識、してますけど」


店内は涼しいを通り越して肌寒い。鳥肌は未だ少し立っている。けれど、心臓は活発に活動しだし、その影響で体温が自然と上昇していた。
思いもよらないたった一言でこんなにも影響を受けるなんて、私はどれだけ単純なんだ。こんなの私らしくない。…平常心。平常心…。


「…ていうか、」


突然足を止めた及川君に合わせて慌てて私も立ち止まる。
ずれかけたタオルが落ちないように片手で押さえながら見上げた彼は相変わらず真剣な表情をしていて。
この時私はほんの少し怖かった。彼が次に告げる一言でまた私は変化してしまうんじゃないかと思えて、無意識の内にタオルを握る手に力が籠った。


「志歩ちゃんが鈍感なのは知ってたけどさ、さすがに気づくの遅すぎ」

「…っ、」

「それに、誰にだってこんな風に接しないよ」

「…え…」


それは、どういう意味だろうか。もし私が及川君を恋愛感情を持って好いていたら、きっと自惚れていたかもしれない。
こんなにも真剣な表情でそんな事を言うのだから、勘違いしてしまう人は間違いなく居るだろう。
だけど、彼の真意は分からない。私を見詰めたままそっと伸ばされた手が頬に触れて、指先が撫でるように輪郭をなぞった。


「ドキッとした?」

「さあ、どうでしょう?」


真顔のまま質問してくる及川君に努めて笑顔で返事をしてあげる。勿論、彼がそれに満足するような人じゃないのは分かってる。
「またそんな風に笑顔浮かべてー」と少し拗ねる様な態度は、さっきまでの緊張感をふっと和らげた。


「ほーんと志歩ちゃんは駆け引きに動じないなぁ。もっとワタワタしてるところが見たいのに。例えば、美術の授業受けてる時みたいなね」

「…もう及川君の隣の席には座りません」

「いいよー。俺が志歩ちゃんの隣に行くもんね」


言いながらポケットから取り出した買い物メモを確認しようとしたら、隣から及川君がスッと攫ってしまう。
ブツブツとメモを読み上げて歩く及川君に気づかれない様に半歩後ろを歩く様にした私は、自分が思ってるよりも彼にドキッとしてしまった自分の心臓を上から押さえた。
意識してたワケじゃない。しないようにしていたワケでもない。
けれど、やはり不意打ちと言うのは場合によっては凄まじい効果を発揮するから厄介なのだ。

…大丈夫。この活発な動きはすぐに治まる。一時的なものだもの。
静かに二、三回深呼吸をしてさっきより開いてしまった及川君との距離を埋めるべく小走りで駆け寄る。


「志歩ちゃん」


あと一歩で並ぶというところで及川君が振り返って、なんとも自然な動作で再び私の手を握った。


「あれ?あんなに冷えてたのにすごく温まってるね。温かいものでも触った?」

「っ…はい。ちょっと」

「?」


不思議そうに首を傾げる及川君だけど、それ以上の追及はなく手は繋がれたまま彼は普通に歩きだした。

きっと気付いていない。気づかれていないはず。
君のせいでこうなりました、なんて…絶対に言えない。だってそれ即ち、私も君が言う様に【異性として意識してる】って事になってしまう。


「ほんとうに…予想外なことをしますね、君は…」

「ん?何か言った?」

「いいえ、なにも」


努めて冷静に、決して表情には出ない様に。自分自身のことなのに、内心困惑を隠せない自分がいるという新しい発見をした戸惑いは暫く無くなる事はなかった。


「結局ほとんどタメ口で話してなかったよね志歩ちゃん」

「………あ」

「何回分のペナルティーになるのかなぁ。色々考えておくから楽しみにしててね!」


宿に戻った及川君は、それはそれは無邪気な子供のように楽しそうな笑顔を輝かせるのだった。
ああ…残りの合宿が不安でなりません。及川君と二人きりにならないように努めよう。