7.本の世界から連れ出す



じわじわと気温が高くなってきた六月。梅雨の時期でもあり、雨の日が多い。
朝から降り続いている雨空を見上げながら渡り廊下を歩いていると、ジャージ姿の男子が体育館から出てきた。


「あっ、いんちょーちゃんじゃん。おっはよー。早いね」

「おはようございます、及川君。今日は日直なので少し早めに来ました」

「日直?…って事は俺もじゃん!ごめん、ちょっと待ってて。すぐ着替えてくるから!」

「い、いえ!及川君はまだ朝練の途中ですよね。朝の連絡くらい私がやっておきますから、そのまま続けてください」

「ダメダメ。朝練があっても、そういう当番はちゃんとやるように監督からも言われてるから。じゃ、そこで待っててね」


及川君はヒラリと手を振ると駆け足で部室があるであろう方へ走って行ってしまった。
偶然とはいえ少し申し訳ないことをしてしまった気分です。また近々練習試合も組まれていると話しに出ていたし、邪魔をしてしまったかもしれません。

静かに降り続ける雨の音を聞きながら、今も尚ボールの弾む音と気合いの入った掛け声が聞こえる体育館の中をそっと覗いてみた。
女子とは違いパワーあるスパイクや、スピードの乗ったトス。ぶつけられても弾かれないよう伸ばされた指の先まで使って防ぐブロック。
少し前まで体育でやっていたバレーはやはり楽しかった。バレー以外はあまり得意とは言えないスポーツでも、自分が活躍できる場があるというのは嬉しいものだ。


「花巻、カバー!」

「ラスト頼んだ岩泉!」


視界の先で花君が上げたトスを岩君の鋭いスパイクが相手コートに容赦なく決まった。
やはり好きなスポーツは見てるだけでも楽しいものですね。この後の試合展開が気になってしまいます。


「誰に見惚れてんのかなー?」

「っ!?」

「ははっ。いんちょーちゃん驚き過ぎでしょ。肩がすごい跳ねてたよ」

「お、及川君が突然耳元で話しかけるからでしょう…」

「ごめんごめん。あんまりにも集中して見てる様だったからさ。俺が背後に立っても全然気づかないくらいだったし」

「…すみません」

「別に謝る事じゃないよ。…バレー、好きなんでしょ?」


相変わらず後ろに立ったまま私の顔を覗きこむように見てくる及川君から一度視線を逸らし、もう一度試合している姿を目に収める。


「はい。好きです」


改めて向き直って及川君に伝えれば、彼は鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くして驚きを露わにした。


「…どうかしましたか?」

「あ…ううん、何でもないよ」


そろそろ行こうか。そう言って先に歩き出した及川君の背を追い、私はほんの少し後髪引かれながらも駆けだした。


***


「あら。影山さん、最近はバレーボールに興味があるの?」


数日振りに図書室の当番が回ってきた同日、私はカウンターに座りながら読んでいた本から慌てて顔を上げた。
正面に立っていた図書室の先生が意外そうな顔をして手元の本を覗きこんでいる。


「元々やっていたんです、バレーボール」

「そうだったの?あら…でも、今はやってなかったんじゃ?」

「はい。弟が頑張ってるので、私はそのサポートに回ってます」

「あらあら。弟思いのお姉さんね。影山さんらしいわ」


先生は二三言話すと職員会議があると言って図書室を出て行った。
今日も今日とて静かで過ごしやすい図書室。二年生になってからは賑やかな空気に包まれる事がとても増えたため、この落ち着いた空間は久しぶりな気がする。
図書室に居る人は大分見知った顔ぶれで、私と同じ読書が好きな人達だろう。騒がしくする人がいないから居心地が良い。


「ふむふむ。つまり、男子バレー部のマネージャーになる事を密かに望んでるって事だね」


唐突な声の主は振り返らなくても聞き慣れたものになってしまった。
姿勢を変えないまま視線だけを少し横に向ければ、カウンターに背を預けて座っている及川君がこちらをニンマリとした顔で見上げていた。


「…図書室では飲食禁止ですよ」

「今日は何も持って来てないもんねー」

「では、そのモゴモゴと動いてる口は何ですか?」

「……舌の体操をしてるんデス」

「グレープの匂いがしますね。何故でしょう」

「な…何故だろうねぇ」


今度はサッと顔ごと向ければ、同じようにサッと顔を背ける及川君。
暫く無言でその状態が続いたが、それを破ったのは辛い言い訳をしていた彼の方。


「いんちょーちゃんにはピーチ味をあげます!」

「私、今は紅茶味の気分なんです」

「眩しい笑顔で味の指定してくるあたり流石いんちょーちゃんだね!」


でも今は紅茶味ないからこれで許して!及川君は小さなアメをご丁寧に両手で持って私に差し出してきた。


「…これで何回目ですかね、及川君」

「な、何回かなぁ…。二回目かな!」


無言で笑顔を向けたら、及川君はテヘペロの表情を一気に崩してきれいに頭を下げてきた。
もう途中から数えるのを止めてしまったので正確な数字は分からないけれど、おそらく十回以上は見逃してしまっている。
これがもし三年になっても続いていたらどうしよう。最近そんな不安が脳裏を過る事が増えた。


「ところで、いんちょーちゃん」

「…なんでしょう」

「女子バレー部の入部は華麗に断ってたけどさ、」


―――すみません。本を読む時間が減るのでお断りします。

確かにハッキリとお断りをしました。その場に居た及川君達はお腹を抱えて笑ってましたけど。


「男子バレー部のマネージャーだったらどう?」

「同じですよ。お断りします」

「…本を読む時間が減るから?」

「はい」

「休憩時間に読んで良いよって言っても?」

「……」

「……」

「…それは、釣ろうとしてるんですか?」

「ちょっと揺れたでしょ?」

「……」

「……」

「…ほんのちょっと」

「ぶはっ」


及川君は背中を丸くしながらお腹を抱えて笑った。図書室だから極力声を抑えてくれてはいるけど、声に出せない分が苦しそうで途中で咳き込んだりしていた。


「はぁ…はー…。いんちょーちゃんて、ほんと素直だよね」

「本を餌にして釣ろうとする及川君がいけないでしょ」

「バレーの本読むくらいなら、実際関わった方が絶対良いのは分かり切ってるでしょ。何を我慢してるの?」

「それは…」


部活に入れば帰りが遅い両親や弟のための食事作りにも少なからず遅れが出る。
それだけじゃない。私は弟の応援をしたくてサポートに回ると決めてこうして過ごしている。
それに、真剣に取り組んでいる彼等の部活に入るという事は、そういった中途半端な真似をしては失礼に値してしまうのだ。それは、決してしたくない行為。


「飛雄ちゃんだって、いつまでも子供じゃないんだからさ。夕飯くらい一人で取れるって」

「…どうして、弟のこと…」

「同じ中学校だったからね。飛雄ちゃんは俺の後輩であり、俺は先輩だったんだ」

「…そうだったんですか。岩君がそうなのは知ってましたが、及川君もだったんですね」

「何で岩ちゃんの事は知ってて俺の事は知らないの?逆なら分かるけどさ」

「それは岩君に失礼では…」

「いーの!俺は岩ちゃんより目立ってたいの!」


胸の前で腕を組んで口を噤んだ及川君は視線だけで私に続きを促してくる。
言おうとしていた事を的を射得てきた及川君に伝えるとすれば、あとは私が部活に入る事で家族に負担がかからないかという心配のみだ。


「いんちょーちゃんは優しいね」

「え…」

「優しくて、面倒見よくて…。大事なところで自分のことなんて後回しにするタイプ」


不意に立ち上がった及川君は突然私の手首を掴むとそのまま出入口に向かって歩き出した。


「ちょ…どこに行くんですか及川君」

「先生ー。いんちょーちゃん持って帰りますね」


丁度戻ってきた先生にそう告げて、そのままスタスタと歩き続けてしまう及川君は止まろうとはしない。
私は「すみません!」と言い残し、引かれるがままその背中を今朝と同じように追いかけた。


「ちゃんと見れば分かるよ」

「…っ?」

「俺達のバレーを見てくれれば、自分の気持にも整理がつくでしょ」


振り返り様にパチンとウィンクを決めた及川君に呆気に取られ、かけているメガネもズルッと滑る。
慌ててかけ直してる間も、及川君が触れる箇所が何だか少し熱く感じた。


「今日は逃がさないからね、志歩ちゃん」


いつもの爽やかな笑顔とは裏腹に、何かを企むような少し悪戯っ子の様な笑みを浮かべた及川君は私にだけ聞こえるように囁くのだった。