北先輩と叱られる

「…は?待って、嘘でしょ?」

とんでもないことに気付いてしまってついつい漏れ出た独り言は、誰の耳に届くこともなく、残業していた自分だけが残ったフロアに響いた。

今、世にも恐ろしい出来事が起こっている。社会人であれば誰でも恐れる事態、自分のミスを発見してしまったのだ。それも到底笑えないレベルのものだ。以前先輩の北さんから引き継いだこの仕事は、毎年決まった時期にだけ対応する業務である。故に、詳細を失念しやすいのは頭では分かっていたのだ。分かっていた、筈だった。

北さんは目に見えて仕事をバリバリこなすというタイプではないのだが、その仕事はとても丁寧でミスがない。その上きちんと各業務の期限を守りつつも毎日定時で帰っていく。実は物凄い人なのだ。そんな北さんが任される仕事はどれも重要なものが多いのだけど、それを顔に出さないが故にどんどん担当業務が増えていっていた。流石にこれでは負荷が偏りすぎているということで北さんが担当していた業務は再度振り分けがされ、私の元にやってきたのが例の業務と言う訳だ。

北さんの引継ぎは非常に分かりやすく、きちんと引継書も前回の対応データも用意されており、これを見ながら業務を行えば何も問題ない筈だった。引継ぎされてから時間も経ち、すっかり油断していた私は前回対応からの変更点を見落としたお陰でとんでもないミスを犯してしまったのである。



「…はあ?!社長の給料計算間違えた?!」

係長の絶叫がフロアにこだました。その声に近くにいた人は皆一斉にこちらを見、思わず背筋を冷汗が伝う。バットニュースファーストよろしく翌日の朝一番に報告した私のミスは、この一瞬で周りに知れ渡ってしまった。いや、悪いのは完全に私なのだが、その気まずさと申し訳なさに思わず視線が下に行き、身体が縮こまった。

「ちょっと詳細は会議室で聞かせてくれ。この業務の前任は北だったか」
「いや、これは北さんには」
「関係ないわけないだろ。北も呼んで来い」

嗚呼、神様。出来る事なら時間をうんと前に戻してください。心を入れ替えて一から頑張りますので。
そんな願いが通じるわけもなく、係長の叫びから事態を察した北さんは私が声を掛けるよりも前に席を立ち、仁王立ちした係長の前で縮こまった私の横に立った。

「話、聞こえました。第一会議室が空いてることが確認できたのでそこに行きましょう」
「…行くぞ」

会議室について早々に事の経緯と対応過程を説明し、適宜北さんにその対応の是非を問う係長は明らかに憔悴していた。それもそうだ、このミスを更に上に上げる必要があるのだから。この場から逃げ出したい気持ちを抑えつつ、全て説明し終わった時には思わず涙が零れそうになった。自身のミスで追い詰められて被害者面で泣くだなんて、迷惑も甚だしい事この上ないだろう。ぐっと堪えていると、鼻の奥がツンとした。

「…兎に角、このことを報告しなきゃいけないから名字は顛末書と報告書の作成。北はフォローしてやれ」
「承知いたしました。北さん、すみませんがよろしくお願いします」
「係長、名字さんに詳しい状況を聞きながら作業したいので、このまま会議室で作成してもよろしいでしょうか」
「ああ、今日中に作成してくれたらどこで作業しても構わない」

大きなため息をついた係長は肩を落として会議室を出て行った。扉が閉まったのを確認すると、北さんは開口一番に「すまん」と私に向かって頭を下げた。

「謝るのはこっちの方です。本当に申し訳ございませんでした」
「いや、俺が一部対応が変更になる可能性もあることについてちゃんと伝えてなかったのが悪いんや」

本当に申し訳なさそうな顔をしてこちらを向いた北さんを見て、申し訳ないやら恥ずかしいやら色々な気持ちがこみ上げてきてしまい、先ほどから堪えていた涙がボロボロと零れてしまった。止めたいのに止まらない涙は頬を伝って会議室の机の上に落ちていく。ハンカチはランチバッグに入れっぱなしでデスクに置いてきてしまったため、カーディガンの裾で涙を拭おうとすると、北さんはぴっちりとアイロンがかけられたハンカチポケットから取り出し、それを私に差し出した。

「服、汚れてまうで。これ使い」
「でも、北さんのハンカチが汚れちゃいますし、」
「そんなんええから。服よりハンカチの方が洗うの簡単やろ」

ほら、と渡された清潔なハンカチに涙が染み込んでいく。北さんは私が落ち着くまで何も言わずに隣に座り、じっと前を見ていた。

「ハンカチ、すみません。洗って返します」
「ええよそんなんせんでも」

漸く落ち着いてきた頃に改めて謝ると、いつもと変わらない調子で答えた北さんは、視線をこちらに移して静かに続けた。

「人間がやる仕事は何でもミスが起こんねん。ヒューマンエラーってやつやな。今回のミスは正直大事やけど、誰も死なんし来月で修正もきく。だから気持ちを切り替えて次回に繋げればいい。大事なのは転んでもただは起きない気持ちやで」

そう言ってポンと私の背中を軽く叩いた北さんは、いつもと変わらない表情で「ほら、早よ書類作らな」と私のノートパソコンの画面を指さした。



「あの、北さん。この間は本当に申し訳ございませんでした。先日お借りしたハンカチ、お返しします」
「ええよ、もうミスせんよう気を付けるんやで」

ハンカチと報告書類の作成を手伝ってもらったお礼にと、洗ったハンカチに添えたちょっとしたお菓子は北さんにつままれた。「こんな気い遣わんでもいいのに」と言いながらも、少しだけ目尻を下げた北さんはそのお菓子をそっとデスクの引き出しにしまい、代わりに引き出しに入っていたチョコレート菓子の箱を私に差し出しながら「あんまり根詰めて働いてもいかんよ。ちゃんと休憩せな」と言った。

お菓子を食べているところを見たことがない北さんからもらった、ビニールがかけられたままのチョコレート菓子。それはなんだか大変な意味を持っているように感じてしまい、思わず頬が熱を持った。

自分のミスで北先輩と上司に叱られる