「…え、うちの部署にですか?」 後輩佐久早に新人教育
「そうそう。心配しなくても彼仕事はできるから。じゃあそういうことでよろしくね」
「ええ…」
用件を伝えてさっさと出て行った人事部長に私の困惑は届いたのだろうか。いや、届いたが知らんぷりされているに違いない。大体人事部長に直接呼ばれた時点で嫌な予感はしていたのだ。
「佐久早さんかあ…」
ひとり残された会議室に私のため息が響いた。
確かに今年の春に課のメンバーが一人寿退社をしていたので、人事へ人員補充の依頼をかけていたのだ。そしてやってくるのが噂の新人、佐久早さん。入社して早々注目の的となった佐久早さんは色々な意味で目立っていた。190はあるのではという高い身長、常にマスクをしているが整った顔、何事も完璧にこなす手腕、そして結構な潔癖。おまけにコミュニケーションも取りづらいらしい。そうして仕事の出来とコミュニケーションの取りづらさ諸々を天秤にかけられた結果、元の課から部署違いの私の課へやってくるということらしい。課長としてはまだまだ新米なのでこの申し出は当然断ることもできず、佐久早さんがやってくる日をソワソワと待つことになったのだ。
○
「…佐久早です。今日からよろしくお願いします」
「課長の名字です。こちらこそよろしくお願いします。うちの部は基本的にフリーアドレスなので好きな席を使ってください。今日は教えることもあるので私の席の隣を使ってもらいますね。あ、さっき全部拭きましたけど、心配ならもう一回拭きますよ」
お噂はかねがね聞いていたので、先制して"除菌"と大きく書かれたウェットティッシュを「ほら」と見せると、佐久早さんはポケットから私が持っているのと同じようなウェットティッシュを取り出して無言でデスクを拭き始めた。本当に聞いていた通り愛想がないので、一周回って感心してしまう。念入りにデスクを拭き終えた佐久早さんはそのまま着席し、ちらりとこちらを見上げた。どうやら気は済んだらしいので私も自席に腰かける。いや、別に自分の席と決まっている訳ではないけれど、課のメンバーとやり取りするのに都合のいいこの席はなんとなく指定席になっていた。空調が効きすぎることもしばしばある為、椅子の背もたれには自前のブランケットが掛けっぱなしになっているせいもあるだろう。
元々の部署自体が違うこともあり、業務を教えるのは長期戦になるだろうと覚悟をしていたが、その期待はいい意味で裏切られた。佐久早さんは飲み込みが兎に角早く、その上正確にこなしていく。お陰で思っていたよりも早く業務を引き継ぐことができた。業務を教えている間、私の席の隣は佐久早さんの指定席となっていたので、これからは隅っこの方の話しかけづらそうな席に移動するかと思っていたのだがこの予想も裏切られることとなった。佐久早さんが異動してきて暫く経ったが、未だに私の隣の席を使っている。多分他人が座った席を使うのが嫌なだけだろうけど、物理的な距離が近い分心理的な距離も少しだけ近付いてきたと思う。…本当に少しだけだけど。
「佐久早さん、申し訳ないんだけどこの業務手伝ってくれない?急ぎの案件振られちゃって。お礼にランチ奢るから、ね?」
「…手伝うのはいいんですけど、他人と食事するのはちょっと」
前言撤回、全然近付いてない。
○
自宅からそのまま取引先に外出をした後に出社したある日、私の指定席には佐久早さんが座っていた。あれ?と思い、いつも佐久早さんが座っていた席を見ると、別の社員が座っている。背もたれに掛けていた私のブランケットは丁寧に畳まれて佐久早さんが座るデスクの傍らに置いてある。眉根を少し寄せて不機嫌そうに仕事をしている様子を見る限り、とても心外なのだろう。それにしても他に誰も使っていないような席はあるのに、何故私が普段使っている席に座っているのか首を傾げてしまう。恐らく触りたくもない置きっぱなしのブランケットもあるのにだ。
一先ず佐久早さんの正面の席が空いていたのでそこに座ると、ちらりとこちらを捉えた後に「…ブランケット、使いますか?」と話しかけてきた。多分近くに置いておきたくないからだと思うので、「置きっぱなしでごめんね」と謝りつつ、一通り荷物を置いた後に回収に行く。デスクの上のブランケットを手に取ると、佐久早さんが私の袖をツンと引っ張った。
「…ここが一番綺麗だと思ったので。勝手に使ってすみません」
隣の人には聞こえない位の声量で言った佐久早さんはすぐにモニターに視線を戻した。
その言葉は勿論、他人の服に触れたのかと言うことに驚いてしまった私は「あ、いえ」としか言えなかった。
"ここが一番綺麗"
佐久早さん言う言葉の裏に隠されたものはわからないけれど、そう言われて悪い気はしなかったのは確かだった。つっけんどんな佐久早さんともいつの間にか心理的距離が縮まったかと思うと、なんだか嬉しくなってしまう。例えるならば、普段人に近寄ってこない猫が、初めて足元にすり寄ってきた感じと似ていると思う。ふふ、と少しだけ漏れてしまった笑い声に気付いた佐久早さんは、こちらを一瞥すると小さくため息をついた。
「佐久早さん、今日ランチ一緒にどう?」
「……行きません」
案の定断られた誘いも、いつの日か受け入れられる日が来るのだろうか。
この気まぐれな猫の様な佐久早さんといつか一緒にランチに行く、そんな目標が出来てしまった今日の私は、その日が訪れるのが案外近かったことをまだ知らない。