819の日

どこかでジワジワと蝉が鳴いている。長いようで短かった梅雨も明け、ジリジリと照りつける日差しが捲ったシャツから覗く腕に射しつける。こんなことになるのならもっと強い日焼け止めを塗っておけばよかった。なんて後悔してももう遅く、これは多少なりとも日焼けをしそうだとため息をつく。せめて日陰に居たいところだけど、公立学校の屋外プールには日差しを遮るものなんてないのだ。プールサイドに申し訳程度の屋根はあるけど、暫く放置されていたプールを掃除するというミッションを与えられた私には早く掃除を終わらせるという選択肢しかない。一緒に作業をしている菅原君はそんなことも気にせず、空を見上げて目を細め、「もうすっかり夏だなー」なんて言っている。そんなに白くて綺麗なお肌なのに、あまり日焼け云々は気にしていないのかな。だとしたら年頃の女子としては羨ましい限りだ。

遡ること数時間。昨日出された宿題は今日の一限で提出しなければならないというのに、うっかり机に置いたまま帰宅してしまっていた。気付いた時にはもう遅く、学校に取りに行けるような時間では到底なかった。と言う訳で宿題を提出できなかった私は、ペナルティとして来週から始まるプール掃除係に任命されてしまって今に至る。ちなみに菅原君も宿題を忘れたらしく、私と一緒にプール掃除をする羽目になっている。もう部活も始まっている時間だろうし、できれば早めに終わらせた方がいいだろう。

「大体汚れ落ちたかな?」
「そうだなー、もうちょいやったら水張るべー」
「だね。それにしても菅原君が宿題忘れるなんて珍しいよね」
「ん?そりゃあ俺も人間だもの」
「三年間クラス一緒だけど今まで見たことないような…」
「実際これが初めてだしなー」
「やっぱり!」
「俺も昨日持って帰るの忘れちゃってさ」
「実は私もそうなんだー。気が付いた時にはすっかり遅くて」

水が抜かれたプールをデッキブラシで擦りながら菅原君と他愛のない話をする。入学してから今までずっとクラスは一緒だったけれど、こうして二人きりで話す機会はなかったので、一緒にプール掃除をすることになった時は少し緊張していたのだけど、朗らかな人柄のせいか普通に会話ができている。バレー部の人たちをはじめとして、菅原君の周りにはいつも人がいて、その様子を遠くから眺めていた身としては、なるほどこれは人に好かれそうだと心の中で手を打った。

大方の掃除を終え、プールの栓を元に戻して水を張りはじめる。流石に全部溜まるまでは待っていられないので、ある程度溜まったら殺菌剤を投入しておしまいだ。

プールサイドの屋根の下、菅原君と並んで腰かけて、どんどん水が吐き出されていくプールを眺める。少しずつ溜まっていく水面には太陽が反射していて、キラキラとした光がプールの壁に映し出されて揺れ動いている。日陰ではあるけれど、風もなくムシムシとしていて、流れる様に落ちる汗でどんどんシャツが素肌に張り付いていく。こんな汗かいてるところ、見られたくないな。隣をちらりと伺うように見ると、丁度菅原君と目が合ってしまって思わず心臓が早鐘を打つ。

「名字さんは進路とかもう決まってんの?」
「え?うん、一応県内の大学に進学したいなって思ってるよ」
「お、じゃあ俺と一緒だな」
「そうなんだ。なんとなく菅原君は上京するのかと思ってた」
「それも考えたんだけど、やっぱり地元離れるの寂しくてなあ」
「それわかる、私も一緒」
「だよなー?」

そう言いながら菅原君は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。部活の人から連絡が入ったのかな。時間、大丈夫かな。画面をタップする菅原君を眺めながらそんなことを考えていたら、その画面が私に向かって差し出された。

「これ、俺の連絡先。よかったら名字さんの連絡先も教えてくれない?」
「え?」
「あれ、ごめん迷惑だった?」
「いや、そういうことではないんだけど、ちょっと吃驚しちゃって」
「はは、ごめんごめん。でも、卒業した後連絡取れる人は少しでも多い方がいいかなって思ってさ」
「あー、そういうことね。それは私も心強いな」
「だべ?」

にっこりと爽やかな笑顔を浮かべた菅原君は夏の日差しの様に眩しい。慌てて私も制服のスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、連絡先の画面を菅原君に見せてお互いに交換する。すぐに送られてきたメッセージは『これからもよろしくな!』というシンプルなものだったけど、後一年にも満たない学校生活の中で"これから"があるのはとても嬉しく思えた。私も同じような文面を返信すると、隣の菅原君がくすくすと笑った。

「隣にいるのにメッセージ送り合うってなんか変な感じだな」
「確かに、直接話せばいいのにね」

私もつられて笑っていると、菅原君からまたメッセージが送られてきた。

『本当は全部知ってた』

その意味が分からずに菅原君の方を見ると、少しだけ決まりの悪そうな顔をしている。

「俺、本当は名字さんが机に宿題置きっぱなしにしちゃってることも、その宿題忘れたらこのペナルティがあることも知ってたの。だから俺も宿題出さなかったわけ」
「…ん?えーっと…つまり?」
「あ、そこまで言わせちゃう感じ?」

少し意地悪そうに笑った菅原君は、結局その続きは教えてくれなかった。こんなのずるいと思ったけれど、それ以上聞くこともできなくて、そのまま解散となった。部活に向かうという菅原君と別れた後、その背中を見つめる。自惚れてしまってもいいのだろうかと思う一方、なんで私?と思う自分もいて。

菅原君の背中が見えなくなった頃、ポケットの中でスマートフォンが震えた。すぐに確認をすると、菅原君からまたメッセージが届いていた。

『続きは今度、改めて』

今度という日はいつ来るのだろうか。それまで眠れない日々を過ごすことになりそうだと、すっかり高鳴ってしまった胸を撫でる。

ジワジワと鳴く蝉の声、眩しい日差し、プールの水面に射しこんだ光、ムシムシとする暑さ、菅原君の背中。
今日という日に集まった夏の欠片は、この先何年も私の胸を擽ることになりそうだ。

夏のきらめき
宿題忘れてプール掃除

文中で入れ損ねたので補足しておくと、宿題忘れてたのをスガさんが知ってた理由は「部活終わりに宿題忘れたのに気が付いて教室に取りに戻った時に、名字さんの机から宿題のノートがはみ出してるのを見かけた」からであり、決して机の中を覗いたわけではありません。ごめんねスガさん。