他社で働く及川さんにナンパされる

「いらっしゃいませ」
「お世話になっております、株式会社SUMSの及川と申します。十一時に総務部のミツモリ様と打ち合わせのお約束があり伺いました」
「かしこまりました。ただいま確認いたしますので少々お待ちくださいませ」

弊社を訪れたすらりとしたこの男性は、今までに何度かお見かけしたことがある。その度に同僚から興奮気味に「格好いいね!」だとか「身長はいくつ位なんだろう?」だとか「彼女いるのかな?」という話題を振られるので嫌でも顔を覚えてしまった。受付という職業柄、元々人の顔と名前を覚えるのは得意ではあるが、及川様に関しては前髪が左右どちらに流されているのかさえも鮮明に思い出せるくらいだ。件の同僚は私の隣で涼しい顔をして作業をしているが、内心ニヤニヤしていることを知っている。きっと及川様が目的階に向かって行ったらまたいつもと同じように話しかけてくるのだろう。そうは言っても仕事中なので、あくまで小声でだけど。

「お待たせいたしました。お約束を確認いたしましたので、こちらの受付簿にお名前をご記入いただけますでしょうか」
「ありがとうございます、筆記用具お借りしますね」

見るからに身長が高い彼にとっては、この受付のテーブルさえも低く感じるのだろう。軽く腰を曲げて記入していく様子は少し窮屈そうだ。腰を曲げた分だけ近付いた顔はとても端正で、同僚が騒ぎ立てるのも納得はできる。記入する手元とお顔を交互に見ていると、必要事項を記入し終えて視線を上げた及川様とばっちり目が合ってしまった。

「記入しましたよ」
「はい、ありがとうございます。それでは入館証をお渡しいたしますので、身に着けてからお入りください」
「わかりました」

少し動揺した私とは裏腹に、にっこりと笑った及川様は私の手元からするりと入館証を抜き取って慣れた様子で身に着ける。ご丁寧に私たちに向かって頭を下げてからフロアへと入ってく背中を見送った。

「ねえ!やっぱり及川様格好良すぎない?彼女いるかな〜結婚してるのかな〜、でも見た感じ指輪はしてないよね」

同じように背中を見送った同僚が、タイミングを見計らっていつものように話しかけてくる。いつの間にか手元の確認まで済ませていたとは流石としか言いようがない。確かに格好いいとは思うけれど、取引先の会社の方とどうにかなろうなんて毛頭なかった私は相槌を打つことしかできない。適当な返事をしながら中断していた業務を再開し、暫くするとお昼休みの時間となっていた。昼食の間に受付を開けるわけにはいかないので、いつも彼女とは入れ違いで休憩を取っている。話すだけ話して満足したらしい彼女は、キリの良いところまで終わらせた作業を中断してお昼休憩のために離席した。今日は彼女の同期と一緒に会社の近所のイタリアンでランチの約束をしているようで、鼻歌交じりに出掛けて行く様子を見送りながら自分の昼食について考える。今日はお弁当を持ってきていないから社員食堂か外に行くかのどちらかなのだけれど、生憎私の休憩時間は他部署の仲のいい同僚とは合わないので大体一人だ。別に今更恥ずかしいとか寂しいとかはないが、外に食べに行くのなら誰かと一緒の方が楽しいだろう。

「あれ、名字さんお一人なんですか?」

本日のお昼事情について考えていると、不意に声を掛けられた。顔を上げて声をした方を見ると、受付に向かって歩いてくる及川様と目が合う。どうやら打ち合わせを終えたらしい。

「ええ。あれ、どうして私の名字をご存じなんですか?」
「どうしてって、名札付けてるじゃないですか」

私の胸元につけられた名札をツンとつついてにこやかに言った及川様は、その咄嗟の事が処理しきれずに言葉を飲み込んだ私の顔を見て、先程とは少し違う揶揄っているかのような笑い方をした。…整った顔というものは、一歩間違えればセクハラとも取られかねない行動さえも許容させてしまうものなのか。

「そ、そうですね…」
「名字さんって案外ウブなんですね」
「…それはどういう意味でしょう」
「別にそのままの意味ですけど。入館証お返ししますね」

先程とは打って変わって爽やかな笑顔を浮かべて及川様は、呆気にとられた私に入館証を握らせて背を向けた。一応仕事なので、その背中に向かって「ありがとうございました」と声を掛けると振り返ることなく片手をひらりと上げて正面玄関から出て行った。

その後ろ姿を見送り、握らされた入館証をしまう為に手元に視線をやる。先ほどは気が付かなかったが、入館証には何やら折りたたまれた紙切れが差し込まれていた。及川様のメモか何かだろうかと思い、紙切れを取り出して開いてみると、走り書きの様な筆跡が目に入ってきた。

『名字さん、良かったら連絡ください。ご都合が良ければ食事でもどうですか?』

そう書かれたメモの下部にはメッセージアプリのIDと思わしきものが添えられていた。弾かれたように顔を上げるが、当然そこに及川様の姿はない。どうすればと思う反面、妙に高鳴った心臓が急速に顔へ血液を送っていく。耳までじんわり熱くなる感覚があったのはいつ以来だろう。思わず手にしていた入館所で顔を仰ぐが、小さな四角から送られる風は微々たるものだった。

食事とは終業後の事を指すのだろうか。さっきまでランチで悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくるほどに、走り書きの筆跡が私の脳内を占めていく。

丁度ランチから戻ってきた同僚と入れ違いに休憩に入る。
単純な私はきっと及川様へメッセージを送ってしまうのだろう。スマートフォンを握る手には力が入ってしまって、思わず自嘲するように笑ってしまった。

営業先の会社で及川さんにナンパされる

どうでもいいんですが、社名はTシャツからです。最初は子音だけの三文字にしていたのですが、実際にある社名のようなので慌てて変更しました(本当にどうでもいい)