同期の角名さんと付箋で秘密のやり取り

 誰しもが眠くなるであろう昼食後、ブラインドの隙間から漏れる温かい日差しを背中に浴びながら必死に眠気と戦いつつ、大量に運び込まれる伝票を処理していく。漸く季節も春めいてきて、段々と過ごしやすくなってきたことも眠気の一因ではあるものの、それだけではない。昨夜、眠るまでの時間つぶしと読み始めた本が思いの外面白く、のめりこむように読み進めてしまった結果、気が付いた頃には深夜となってしまっていた。こういう時は食後にのんびりコーヒーでも楽しみつつ気分転換ができればよかったのだけど、決算前の慌ただしい時期だ、昼食を取れただけでもありがたいと思わなければならない。恨むべきは昨夜の自分だ。

「名字さん、角名さんが呼んでますよ」

 手を動かしつつも睡魔を追い払う方法を考えていた時、同部署の入り口付近に座っていた同僚から不意に声を掛けられ、心臓を掴まれた私は弾かれるようにそちらを見た。目線をやった先には書類を抱えた角名さんが仏頂面で立っている。元々笑顔が多いタイプではないものの、いつにも増して不機嫌そう顔色からは疲労が伺える。あの角名さんが顔に出るくらいに疲れているということは、あちらの部署はよっぽど壮絶なのだろう。なんだか少し同情してしまった私は、角名さんへ返却する書類の一番上に"お疲れ様"と走り書きをした付箋をつけ、丁度昨日買った飴玉を一つ持って角名さんの元へ向かった。

「これ、お願いします」
「承知しました。代わりにそちらの部署からお預かりしていた分の書類をお戻ししますね。それと、これも」

 書類とあわせて飴玉を渡すと、角名さんは表情ひとつ変えないままに書類に貼り付けた付箋あたりに目を落とす。

「ありがとうございます。…俺、そんなに疲れて見える?」
「うん、珍しく顔に疲労が出てる」
「はあ…」

 先程私がつけた付箋を一読したであろう角名さんは小さくため息をつく。続けて「これも、ありがとう」と飴玉をつまんで言い、そのまま自分の部署へと戻っていった。
 人と話したことで眠気もすっかり飛んだ私は、自分のデスクに腰かけて小さく伸びをする。同期の角名さんもあれだけ頑張っているのだから自分も頑張ろう。労ったつもりが、なんだか逆に発破をかけられたような気分になってしまった。



「申し訳ないんですけど、これだけ急ぎで対応してもらうことは可能ですか?」
「ああー…スケジュール的に厳しいですけどなんとかしてみます…」
「すみません。…このお礼はいつか必ずするから」
「仕事だしお礼なんていらないよ」

 あれから数日、再び角名さんが私の部署へ書類を持ってやってきた。あの時より大分顔の疲れはマシになったものの、今は背中を少し丸めて申し訳なさそうに眉尻を下げている。念を押すように「大丈夫」と言うと、ペコリと頭を下げて自分の部署へと戻っていった。

 引き受けてしまった手前、やっぱり無理でしたとは言えない。一先ず全体量を把握するべく預かった書類を確認しようとファイルから取り出すと、間に何か挟まっているようだった。角名さんの物ならすぐに返さないとと思い慌てて確認をすると、そこには付箋と金色の紙に包まれた小さなチョコが挟まれていた。

"この間はありがとう。でも仕事中に飴食べるのはやめた方がいいんじゃない?"

 少しだけ癖のある文字が並んだ付箋を眺めていると、なんだか角名さんの意地悪顔が頭に浮かぶ。折角だからと書類から付箋をはがし、手帳の裏表紙を開いてすぐの空きページに張り付ける。捨ててしまうのも忍びないし…と誰にかも分からない言い訳を頭の中でひとつ。クリーム色のページの隅にちょこんと貼られた黄色の付箋を見て、思わず口角が上がってしまった。



 ふとした事から始まった角名さんとの付箋のやり取りは、今でもなんとなく続いている。春の暖かな日差しがジリジリと照りつけるようになった頃には、あの時付箋を貼った空きページはすっかり埋まってしまっていた。やり取りと言ってもそこまで大した内容ではなく、"なかなか稟議の決裁が下りなくて気が気じゃない"だとか、"明後日の会議の書類がまだ出来上がってないけど帰りたい"といった本当に他愛のないものだ。それでも仕事の合間のちょっとした息抜きとして、角名さんが書類を抱えてやってくるのがすっかり楽しみになっていた。

 角名さんは概ね一週間に一度のペースでこの部署にやってくる。前回来た日を考えると、今日明日には来る頃かなと書類を片付けつつちらりと通路の方を見ると、丁度書類を抱えてこちらに向かって歩いてきた角名さんと目が合った。

「あ、名字さん」
「お疲れ様です。書類預かりますね」
「お願いします。…さっき何でこっち見たの」
「え、いや、なんとなく…」

 まさかそろそろ角名さんが来る頃かなと考えてたなんて本人を目の前にして言えるほど私の肝は座っておらず、曖昧な返事と笑いを返してしまった。怪訝そうな顔で少し首を傾げた角名さんは、私が持っていた返却分の書類を抜き取り、「じゃ、お疲れ様でーす」と軽い口調で言い残して自分の部署へと戻っていった。

 自席に戻り先ほど預かった書類を確認すると、そこにはいつものように付箋が挟まっていた。

"来週金曜の終業後空いてる?"

 それだけ書かれた小さな付箋は、あっという間に私の思考力を奪ってしまった。何度読んでも同じ文章だ。今までの他愛のないやり取りは何処へやら、いつの間にか書かれている内容は何か意味を持ったような言葉に変わっている。まあ、そうは言っても私たちは同期なのだから、何の気なしに仕事終わりに待ち合わせて出掛ける事もあるはずだ。それに二人で行くとも限らない。早合点しないように極力平静を保ちつつ、手帳を開いて予定を確認した。幸か不幸か指定の日付は空いている。引き出しから付箋を取り出し"空いてるよ"とだけ書き、次に角名さんが来た時用にと自分の手帳に張り付けた。手帳を閉じる前にちらりと書いたばかりの付箋を見ると、心なしか浮かれたような文字に見えた。



 あれから数日後、いつもより少しだけ早いタイミングで角名さんが訪れてきた。先週のうちに用意をした付箋を取り出そうと慌てて手帳を取り出し、なんとなく気恥ずかしい気持ちを隠したくて返却する書類を数ページ捲ったところに付箋を貼り付け、角名さんの元へ向かう。
 相変わらず書類を抱えていたので預かろうと手を伸ばすと、それに気づいた角名さんがそれを制するように口を開く。

「先に返却分の書類いただけますか?」
「え?いいですけど…」
「ドーモ」

 私の疑問とは裏腹に何の感情も籠ってなさそうな返事をした角名さんは、受け取ったばかりの書類をパラパラ捲り、あるページで手を止めた。

「ふーん。じゃあこっちかな」
「さっきから何なんですか」
「別に」

 ポケットから付箋の束を取り出した角名さんは、先程と変わらない口調で返しつつも一番上の紙を剥がして掌でくしゃりと丸めた。それをポケットにしまうと再び付箋の束から一枚剥がし、これから私が受け取る方の書類に付箋を貼り付けている。何事もなかったかのように差し出された書類が私の手に渡ると、「じゃあ、ご対応お願いします」と言い残して去っていった。この場で書類を確認したい気持ちを抑えつつ自席に戻り、先ほど角名さんが貼り付けていた付箋を確認する。

"19時に会社の最寄り駅、南口"

 気付けば指定された日の前日となっていた今日渡された、必要最低限だけ記された付箋。一体誰とどこに行き、何をするのかも分からないままだ。何も分からない状態だけど、遅れるわけにもいくまい。机の横に山積みになっている書類を一瞥し、明日は定時で上がれるようにと業務を再開した。



 翌日、約束の日、案の定定時は過ぎたものの、何とかそこまで遅くならずに済んだ。同僚への挨拶も早々に更衣室に駆け込み、鏡を覘きこむ。一日働いた後の顔は疲れ切っていて、メイクもほんのり崩れている。待ち合わせまで時間があって良かったと胸をなで下ろし、あまり気合が入りすぎていない程度に整え、お気に入りの香水をほんの少しだけ付ける。服装はなるべく普段と同じようなものにした。この日のために、なんて思われるのもなんとなく気恥ずかしかったからだ。
 気付いてほしいけれど、気付いてほしくない。ぼんやり浮かんだ面倒な気持ちは、香水のボトルと一緒にポーチにしまった。

 完璧とまではいかないけれど、一応見られるようになっただろう。待ち合わせまでは後十五分ほどとなっており、今から会社を出たら丁度よさそうだ。駅に向かって歩きながらこれからのことを考える。それなりに会社で顔を合わせているのに、プライベートで会うとなると少し緊張してしまうのは不思議だ。状況はどうであれ、あまり気負いすぎず楽しめたらいいなと思いつつ、駅の構内を通り抜けていく。角名さんが指定したのは会社がある方とは逆の出口だった。なんとなくそれも角名さんらしいなと思いつつ、左右を見渡しながらそれらしき姿を探す。
 実は私たちはお互いの連絡先を知らない。その為、当日の連絡手段がなかったので、もし遅刻したら…だとか、もしうまく見つけられなかったら…などと考えていたが、それは杞憂だったようだ。背の高い角名さんは案外すんなりと見つかり、内心ホッと胸をなで下ろす。

「お待たせしました」
「別に。俺もさっき着いたとこ。一駅電車乗るけどいい?」
「あ、うん」
「じゃあこっち」

 「あと誰か来るの?」という言葉が喉元まで出かかったが、早々に角名さんは改札方面へ向かって歩き出したため、発することができなかった言葉をそのまま飲み込んだ。これで後で私の知らない人と合流したりするものなら泣いてしまうな、なんてしょうもないことを考えながら、角名さんの後について歩き出した。
 帰宅ラッシュ最中の電車に角名さんと連れ立って乗り込む。朝ほどではないものの、混雑した電車内ではどうしても隣の人との距離が近くなってしまう。知らない人であればなんとも思わないのだけど、それが知っている人の場合は話が違ってくる。お互い半袖だし、なるべく近づきすぎないようにと思うほど意識してしまうので、なんだか我ながら情けなさを感じた。別に思春期の高校生じゃないんだから。そう自分に言い聞かせながら少しだけ熱が上った顔を手で扇いでいると、隣から背中を丸めて顔を覗き込んできた角名さんと目が合った。

「案外暑がりなんだね」
「え、いや、そういう訳じゃ」
「会社じゃ分からないこともあるもんだ」

 そう言ってにやりと笑った角名さんは、「誤解だって」という私の言葉を露骨に聞こえないふりをする。

「あ、ほら降りるよ」
「う、うん」

 先程のやり取りは有耶無耶にされたまま、人の流れに沿って電車を降りる角名さんに続く。前を歩く背の高い身体は器用に人混みを避けて進んでいく。遅れないように早歩きでついていくと、電車のクーラーで一度冷やされた身体がまた熱を持ちはじめる。
 混雑が大方落ち着いた頃、少し先を歩いていた角名さんがくるりとこちらを振り返った。顔の火照りを悟られないよう、思わず口元を掌で隠した。

「ごめん、歩くの早かった?」
「ううん、大丈夫」
「…見た感じ大丈夫そうじゃないけど。まあいいや」

 あっという間に私の隣まで移動した角名さんが仕切りなおすように「じゃあ、行こうか」と言ったのを合図に、私たちは並んで歩き出した。



「角名さんってこんな洒落たお店来るんだね」
「何その言い方。大衆店しか知らないと思ってた?」
「そう言う訳じゃないけど。イメージ通りと言えばイメージ通りかな」
「ふーん」

 角名さんに案内されて到着したお店は、繁華街の裏手のこぢんまりとした通りにある落ち着いた居酒屋だった。
 テーブルを挟んでメニューを覗き込みながら、他愛のない会話を交わしつつも注文するものを決めていく。当たり前の事ではあるけれど、私たちはお互いのことを良く知らない。好きなもの、嫌いなもの、食べたいもの、飲みたいもの。あまりに相手の思考とかけ離れたものを口にしてしまうと少し気まずくなってしまうのではと思ってしまった。
 …私は角名さんに気に入られたいのだろうか。ふと現れた邪な気持ちを振り払うようにパタパタと手で顔を扇ぐと、それをみた角名さんはまた「まだ暑いの?」と意地悪そうに笑った。

 何度か運ばれてきたお酒がグラスから無くなった頃、角名さんがちらりと腕時計を確認するのが見えた。
 お酒が進むにつれて徐々に態度は砕けていき、すっかり同期らしい距離感となっていた私たちは、時間を確認することもなく特に中身のない会話を交わしていた。つられて自分も今の時間を確認すると、会社の飲み会であれば宴もたけなわとなっている頃だった。

「もうこんな時間なんだね」

 私の言葉に相槌を打った角名さんは、「この後どうする?」と続ける。

「私は大丈夫だけど、角名さんは?」
「俺もまだ大丈夫。店変える?」
「折角だからそうしよっか」

 私の返事を聞いてすぐ、角名さんは近くの店員さんに目配せをしてお会計をお願いする。些細な動作がなんだかとてもスマートに見えた。
 店員さんから受け取った伝票をちらりと眺めた角名さんは、バッグから財布を取り出そうとした私を「今日誘ったの俺だしいいよ」と制止した。とはいえご馳走になる訳にもいかないので、おおよそこれくらいだろうという金額を取り出して渡そうとすると、角名さんはあからさまに怪訝な顔をした。

「名字さんって案外頑固だよね」
「何が?」
「男が出すって言ったら普通財布しまわない?」
「いや、だって私たちただの同期だし」

 私のその言葉の後、さらに眉間に皺を寄せた角名さんは会計札が挟まったバインダーに自身のカードを挟んで店員さんへ手渡す。結局私が差し出したお金は受け取ってもらえず、すごすごと財布に戻す形になった。
 全く納得のいっていない私を一瞥した角名さんは、ため息混じりに「じゃあ、次の店で出してよ」と言う。それを聞いた私が「よろこんで!」と返すと、小さな声で「可愛げないな」と呟いた。

「可愛げがなくて失礼しましたね」
「あ、聞こえた?」
「…奢られるの苦手なの。なんだか借りを作るみたいだし、それに奢られる前提になっちゃうとこっちから誘いづらくなっちゃうし」
「てことは次がない人には可愛く奢られるんだ?」

 揶揄うようにそう言った角名さんはまた意地悪く笑う。

「揚げ足取るのやめてよ!」
「はいはい悪かったね」

 お会計が終わり、自身のカードを受け取った角名さんはひょいと立ち上がる。帰り支度が済んでいなかった私は慌てて身の回りのものをバッグに詰め込み、角名さんに続いて立ち上がった。

 そう言えば二軒目をどこにするか決めずに出てきてしまったなと思い、この後どうするか尋ねるべく角名さんを見上げる。角名さんはそれまで見ていたスマートフォンの画面をこちらにも見えるように向け、「次、ここでもいい?少しだけ歩くけど」と地図アプリ上に表示されたお店を提案した。少しだけ歩くと言っても数分程度のようなので、再度角名さんを見上げ頷いて見せる。

「じゃあ決まりで」

 そう言った角名さんは、次のお店に向かって歩き出す。その速度は待ち合わせ直後よりも少しだけ緩やかだった。



 結局二軒目でも財布を出すことを許されなかった私は「二軒目は出させてくれるって言ったじゃん」と恨み言を言いながら駅までの道を角名さんと並んで歩いている。
 角名さんとお酒を飲むことは間違いなく楽しかったのだけど、こうも負担が偏る形になるとどうしても気が気ではなくなってしまう。私も同等に働いているのだし、経済的負担も同等でありたい。これはわがままなのだろうか?
 
「別にいいじゃん。じゃあ今度ランチでも奢ってよ」
「どんどん奢りグレードが下がっていく…」
「そんなの気持ちでしょ。出した側は可愛くご馳走様って言われたほうが嬉しいよ」
「うーん…」
「ほら、可愛く言ってみなよ。“角名くん今日はご馳走様”って」

 文末にハートの記号がついたような言い方を提案された私は、半ば自棄になってそっくりそのままを角名さんへ伝える。ついでに指で作ったハートとウインクを添えたところ、不意打ちをくらった角名さんは吹き出した。

「何それ、名字さんそんなことできるの?」
「今回限りの出血大サービスだよ」
「ちょっともう一回やってみて」

 肩を振るわせながら面白がる角名さんは私にスマートフォンを向けて“もう一回”を促した。今後間違いなくネタにされるのはわかりきっているので、「もうやらないよ」と言いながら目線を前に向ける。すると隣から小さくシャッター音が聞こえてきた。

「ちょっと、何撮ったの?」
「別にその辺の風景だけど?」

 まるで撮られたと思った私が自意識過剰なのでは?とでも言いたげな顔でこちらをみた角名さんは、スマートフォンをポケットにしまって両手を自身の顔のあたりまで挙げた。わかりやすい無罪アピールだ。

「ふうん」

 これ以上追求するのもと思い、私は一度だけ鼻を鳴らしてまた前を向く。まあ、私なんぞ撮ってもどうしようもないだろうしな。

 「名字さん帰り何線?」

 話を逸らすかのように別の話題を出した角名さんは、いつもと変わらない表情をしていた。



  それから数ヶ月後、外の木々もうっすらと赤く色付いてきた頃。私たちは時々終業後に食事に出掛けていた。連絡先は交換したものの、相変わらずやり取りは付箋経由で行っていた。特段私用で連絡をする必要があるわけでもないので、あくまで書類を渡すついでにやり取りをしているという体である。そしてそろそろ角名さんがこちらの部署にやってくる位の頃合いだった。
 前回食事に行ったのは大体三週間前だったか。いつも角名さんから誘ってくれることに甘えていたので、私から声を掛けたことはなかった。今回お誘いが無かったら私から誘ってみようかな。なんて仕事中にふさわしくない事を考えながらも手を動かす。再び繁忙期に片足を突っ込み始めた当部はこれから冬にかけて一層忙しくなる見込みだ。そうなると定時で退勤することも中々難しくなりそうだ。迫りくる繁忙期を憂いながらため息をひとつ落とすと、丁度やってきた角名さんと目が合った。

「声掛ける前に目が合う事多いですよね。俺そんなに足音大きい?」
「そういう訳ではないですけど…」

 書類を受け取りつつ、いつものように端に貼られた付箋に目を落とす。

"14日、空いてる?"

 角名さんも考えている事は同じだったようで、そこには次回のお誘いが書かれていた。お互いに「よろしくお願いします」と軽い会釈を交わしながら自席へ戻り、予定を確認するべく手帳を開いた。

「14日、土曜じゃん…」

 今までは終業後に集まることしかなかったので、突然の休日のお誘いに思わず狼狽えてしまった。休日にわざわざ集まって出掛ける、そんなのデートじゃないか。
 ──いや、早とちりするべきではない。角名さんからしてみたらただ単に同僚として遊ぼうとしてくれるだけかもしれない。極力、平静を保とう。うっかり止まってしまった仕事を再開しつつ、当たり障りのない返事を考えた。浮かれるべきではないのだ。



 浮かれるべきではないと思ったのに、あの日から私は帰宅するなりクローゼットとにらめっこをする生活を送っていた。約束の日まであと数日、未だに何を着ていけばいいのか決めかねている。意識しないようにすると余計に意識してしまう。なにせ私服で会ったことがないのだ。別に必要以上に良く見せたいとは思っていないが、隣を歩きたくないくらいダサいと思われたくはない。会社の男性とプライベートで会う機会があまりなかった私は丁度いい塩梅を掴みあぐねていた。

 結局持ち合わせの服ではどうにもならなさそうな事を悟った私は約束の日の前日に服屋さんへ立ち寄った。そう言えば誰かと会うことを前提に服を探すなんて久々だ。いつもはあまりしない試着までしてしまい、やはりどこか浮ついた気持ちは隠すことが難しい。そんなことを考えながら、丁度いいワンピースを二着手にしてレジへ向かう。せめて角名さんには悟られないようにしようと心の中で誓った。

 そして迎えた約束の日当日。待ち合わせ場所は"駅の東口を出たところ"とざっくりしたものだったが、休日の昼という時間帯のせいか、あまりの人の多さに驚いてしまった。これは落ち合うのは難しそうだ。念のためとかなり早めについてしまった私は、ひとまず言われた通りに東口をでて少し進んだところ辺りで待つことにした。まあここなら出てきた角名さんを見つけられるだろう。そう思いつつぼんやりと駅から出てくる人たちを眺める。この人たちは誰と待ち合わせをしてどこに行くのだろう。何を話すのだろう。今日これからどこに行くのかも知らないのは私だけではないか。自分の受け身体質を反省しつつ、腕時計に視線を落とす。そろそろ角名さんが来る頃だろうか。

「お待たせー!」

 そう背後から声を掛けてきたのは全く知らない男だった。人違いかと思い一瞥後に軽く頭を下げると、「ねえ誰待ってんの?暇なら俺と遊ばない?」と薄い笑みを貼り付けた顔で話しかけてくる。これは面倒なやつだ。とりあえず適当にあしらおうとするも中々にしつこく辟易してしまう。
 恐らくうんざりした気持ちが顔に出てきた頃、背後から「お待たせ」と聞き慣れた声が聞こえた。思わず勢いよく振り返るとそこには思い切り眉間に皺を寄せた角名さんが立っていた。

「この人誰?」
「知らない人…」
「あ、そう。じゃあ僕らはこれで」

 角名さんは見知らぬ男に薄笑いを向けながらそう告げ、私の腕を引いて歩き出す。ある程度人混みから離れると、「ごめん」と言いながらその手を離した。

「待ち合わせ場所、もう少し気を遣えばよかった」
「いや、さすがにこれはアクシデントというか…むしろ助けてくれてありがとう」
「次はもう少し人が少ない所にしないとね」

 不意に発された"次"という言葉は私の心を揺さぶるのにはあまりにも十分すぎた。角名さんの中には次が当たり前のように存在しているらしい。たったそれだけで浮ついてしまうのだから、もうこの気持ちは隠しようがない。


 ──多分、恐らく、私は角名さんが好きなのだ。


 結局何をするかも決めていなかったこの日も、角名さんの案内で楽しく過ごすことができた。連れていかれるがままに今までやったことのなかったビリヤードなどにも初挑戦することになったが、角名さんの教え方が上手く案外それなりにできてしまった。もちろんそこには角名さんの接待プレーが上手だったこともあると思うけれど。

 すっかり陽も落ちた今、私達は角名さんのお気に入りだというバーに居る。バーカウンターの端っこに座った私達は、薄ぼんやりした明かりの下で今日の出来事を振り返っていた。行った場所、やったこと、食べたもの、話したこと。案外きっちり予定を決めなくても楽しく過ごせたね、なんて言いながら角名さんは少し目尻を下げた。

「そうは言っても色々考えてくれたんじゃないの?」
「いや?こうやって昼間から会うのも初めてだし、名字さんが普段どういう遊び方してるかなんて知らないし。だからとりあえず会ってから決めればいいかって思ってたんだけど、名字さんの"やったことがないこと"が多すぎて何からご案内すればいいのかわかんなかったよ」
「それはなんか…ごめん」
「まだ名字さんが楽しめそうなことは沢山あるし、暫くは遊ぶネタにも困らないね」

 そう茶化すように笑った角名さんは、残り少なくなったグラスを置き、軽く手をあげてバーテンダーを呼ぶ。
 確かにこの歳になって初めて体験することもあるなんて思ってもみなかった、なんて考えながら角名さんがカウンターに置いたグラスをぼんやり眺めた。時間的にも後一杯程度で解散になるくらいかな。

「名字さんも次頼む?」
「…あ、ごめん。何も決めてなかったけど頼みたいな」
「じゃあこれは?飲みやすいよ」

 角名さんがメニューを開いて長い指でトンと示したのは、名前は聞いたことがあるけれど、どんなものかはすんなり出てこないカクテルだった。まあ飲みやすいとのことだし、それにしようと頷いてみせると角名さんは「あとスクリュードライバーを」と代わりに注文をしてくれた。
 バーテンダーは角名さんと私を交互に見てにこりと微笑む。なめらかな手つきで作られていくカクテルはとても美しい。目の前でステアされたカクテルがカウンターに置かれると、バーテンダーは別の注文を受けに反対側へと歩いて行った。なんとなく行き先を目で追っていると、逆にこちら側を見た角名さんと目が合う。

「今日、可愛いピアスしてるんだ?」

 角名さんはそう言いながら私の頬を撫でる様に髪を耳にかけた。突然のその行動に思わず肩が跳ねてしまい、軽く触れられた耳に熱が集まる。その様子を見て角名さんは満足そうににこりと笑った。



 結局あれから進展らしい進展はないものの、休日に度々一緒に出掛けるようになってから暫く経った頃、季節はすっかり冬めいていた。寒さに身を震わせながら通勤する日々にはうんざりしてしまうが、クリスマスが近い事もあり街はイルミネーションで彩られていて見ていて気分がいい。早く帰りたいというのにわざわざ遠回りしてイルミネーションが綺麗な駅まで歩いてみたこともあるくらいにはこの雰囲気が好きだ。まあ、クリスマスにはクリスマスらしい予定もないのだけれど。
 今年のクリスマスは曜日回りもそこまでよくないので、普通の一日として自宅でゆっくり過ごすつもりだ。外に出てもいいのだけれど、きっと寄り添って歩いている人も多いのだろう。なんとなくその雰囲気に入る気分にはなれなかった。

 角名さんとは相変わらず付箋でのやり取りがメインだった。ひょんなことから始まったやり取りは思いがけず長続きし、受け取った付箋を貼り付けていた手帳のページはとっくに埋まってしまっている。
 カラフルな付箋で埋め尽くされたページは日に日に増えていき、たまにそれを眺めるのが仕事中のちょっとした息抜きとなっていた。
 そういえばそろそろこの付箋がもう一枚増える頃だろうか。卓上のカレンダーをちらりと見ながら考えていると、またしても丁度良く角名さんが書類を抱えてやってきた。

 「これ、お願いします」といつも通り手渡された書類の束の一番上、目立つ位置に貼り付けられた付箋が目に入る。

"12/23 18:30、ちょっとおしゃれしてきて"

 思わず角名さんの顔を見上げると、悪戯をしている子供のような笑みを浮かべていた。「詳細は後日、改めて」とだけ言い残し去っていく後ろ姿をただ見つめるだけしかできなかった私は、その姿が見えなくなった後に力なく自席へと戻った。
 不意に入ったクリスマス付近の予定に動揺を隠せない。まあ、でも、まだ真意はわからないので、極力意識しすぎないようにしよう。私はそう誓って止まっていた手を再度動かし始める。
 そうは言ってもどうしても考えてしまう。ちょっとおしゃれな服とは?ドレスコードだろうか。そうなるとある程度ちゃんとした服を選ばなくてはならないだろう。手持ちの服でそれなりに見栄えがしそうでまだ角名さんと会う時に着たことがない服。……またしばらく悩みの絶えない日々を送ることになりそうだとため息をひとつついた。



 あれから迎えた当日。あの日の数日後に角名さんから『23日の待ち合わせ場所ここね』というメッセージとともに送られてきたシンプルな地図に記された駅に、待ち合わせ時間の15分前に着いた私は複雑な気持ちで角名さんを待っている。…一体どこに行くのか。結局一番大事なことは当日まで伏せられたままだった。

「名字さん、お待たせ」

 数分後に現れた角名さんはいつもと同じように飄々としているが、なんだか普段よりもフォーマルないでたちであった。

「そんなに待ってないけど…結局今日はどこに行くの?」
「ん?いいとこ」

 珍しくにこりと笑ってはぐらかした角名さんに連れられ着いた先は、老舗ホテル高層階にあるレストランだった。よくわからないまま夜景が見える席に通され、目の前の角名さんと手元に美しくセッティングされたカトラリーを交互に見ていると、少し弧を描いた角名さんの目がこちらを捉える。

「お気に召さなかった?」
「いや、そういうわけではないけど……」

 しどろもどろで応えると、それならよかったと角名さんはうっすらと口角をあげた。
 ──角名さんの真意が読めない。クリスマスシーズンにこんなにいいお店に連れてきてくれるなんて、思わず何かを期待してしまいそうだ。でも、スマートな角名さんのことだ。これも普通のことなのかもしれない。なにせこちらとしては畏まった食事は友人の結婚式以来だ。必死にテーブルマナーを思い出しながらも美味しそうな料理を口に運んでいく。
 そうしているうちにメインの料理も食べ終わり、少し心に余裕が出てきた頃。控えめにあたりを見回すと、案の定男女のカップルや落ち着いた立ち振る舞いのご夫婦など、明らかに大切な人と来ている方ばかりであった。私たちも側からみたらそう見えるのだろうか。そう思うとなんだか心が浮ついてしまう。そんな私とは裏腹に、目の前の角名さんは普段通りで余裕の差をひしひしと感じる。

「なんか色々考えてそうなところ悪いんだけど、聞いてくれる?」

 角名さんが改まってそう切り出し、私の頭上にクエスチョンマークが浮かぶ。首を傾げながらも頷くと、「一回しか言わないからね」と前置きした上で角名さんは小さく息を吸った。

「俺と付き合ってくれませんか?」

 唐突な告白に思わず「本気?」という失礼極まりない言葉が喉まで出かかったが、それは慌てて飲み込んだ。聞くまでもなく、多分、角名さんは本気だ。彼はこれまで見たことがない、いつもより少しだけ硬い表情で私を見つめている。答えなんて決まっているのに、頭の中が上手く整理できずに中々言葉が出てこない。

「あの、ええと……」
「ゆっくりでいいよ」

 目線をあちこち散らせながら言葉を探す情けない私を見て、角名さんは少し表情を緩める。つられて私の心にも少しだけ余白が生まれた。

「その、よろしくお願いします」
「……よかった」

 続けて「あまりにオロオロするからフラれたかと思った」なんていつもの調子で言った角名さんは、思い出したかのようにジャケットのポケットに手を入れ、何かを取り出してテーブルの上に置いた。大きな掌の下から現れたのは、どうやらカードキーのようだ。ちょい、と手招きをし、内緒話をするように口元に手をやった角名さんを見て、私は少しテーブルの上に身を乗り出すような体勢をとる。すると先ほどよりも声のボリュームを落とした角名さんは、いつものように意地悪く笑って囁いた。

「今日、ここの部屋取ってるんだよね」

 それが何を意味するのかを理解した私は、身体中の血液が顔に集まるように感じた。恐らく耳まで赤く染まってしまっているだろう。ああ、なんて情けない。私だってもういい大人なのに。
 
「もちろん無理にとは言わないけど」
「……その、よろしくお願いします」

 角名さんはカードキーを再びポケットにしまいながら「さっきと同じじゃん」と可笑しそうに笑う。

「……そういえばまだちゃんと好きって言ってもらってないような?」

 先程から余裕の差を感じていた私は仕返しとばかりにそう言うも、「それは後でゆっくりね?」と返されて余計に恥ずかしい思いをする羽目になってしまった。



 まさか付箋でのやり取りから始まりこんな結末になるなんて、人生は何が起こるかわからないものだ。レストランを後にし、予約されているという部屋まで向かう道中にぼんやりと考えていると、角名さんが「まーたなんか余計なこと考えてる」と言いながら私の手を握った。反射的に角名さんを見上げると、見慣れた意地悪顔を浮かべている。

「この後は余計なこと考える暇なんてないから」

 そう言った角名さんは部屋のドアを開け、私の手をひいてまだ暗い部屋の中へ導く。どうか、部屋の明かりがつくまでにはこの顔の火照りがひきますように。そう願わざるを得なかった。

付箋でこっそりメッセージを渡す角名