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霧雨、土砂降り、狐の嫁入り、雷雨に肌に張り付くような湿気。思い出すだけでも気が滅入りそうな季節はやっと終わりを迎えたようで、テレビの向こうのお天気お姉さんが梅雨明けを伝える。梅雨が明けたということは、当たり前ではあるが夏を迎えたということだ。テレビの左上に表示されている時計がそろそろ家を出なければならないことを告げている。暫く休みが続き、すっかり重くなった腰を上げた。スクールバッグを肩にかけ、玄関の扉を開く。そこには夏空が広がっていた。

夏と言えば夏祭りや花火大会、海にプールにスイカ割りとイベントが目白押しだ。高校生として過ごす最後の夏。受験生なので勉強は勿論必須なのだけど、大人になってから後悔をしないようにやりたいことは全部やるつもりだ。通学路を歩きながら夏にやりたいことを頭の中で組立てていると、ふと及川君のことが頭に浮かんだ。何を隠そう、昨年の冬頃に付き合い始めた私の彼氏である。ただ、未だに名字で呼んでいる辺りでお気付きかと思うが、その仲はあまり進展していない。別に気まずいとかお互いに問題があるとかではなく、ただただ向こうが忙しいのだ。放課後は部活、休みの日は練習試合や遠征など、バレーボールにその生活の大半を捧げている。そこに私が入り込む隙間は正直あまりない。思い出した頃にメッセージや本当に短い電話が来るくらいだ。勿論それを承知の上で付き合うに至っているので現状に不満はないのだけど、一緒に夏を楽しむなんてことは夢のまた夢なのだろうと自嘲するように苦笑いをした。

そういえば、彼の誕生日は夏じゃなかったか。
教室の自席に腰かけ、火照った顔をノートで仰ぎながら考える。付き合いたての頃、確かそんなような話をした気がする。確認のためにカレンダーのアプリを開くと、一週間後の七月二十日に"及川君誕生日"とラベルが付いていた。そのイベント通知は当日に設定されていて、どうせなら一か月前とかに設定しておいてくれと過去の自分を恨んだ。勿論、何の準備もできていない。とは言っても当日もいつも通り部活があるだろうから、そこまで手の込んだお祝いをすることは難しいだろう。昨年のクリスマスは付き合って日が浅かったこともあり、プレゼント交換の類は見送りになった。そのためちゃんとしたプレゼントを贈ったことがまだなかった。お恥ずかしいことに及川君の好みも、欲しいものもちゃんと把握できていない。"彼氏 誕生日 プレゼント"と、思いつく適当なワードを入れて検索を掛けていると、前の席の花巻君がやってきた。

「名字さんおはよー」
「おはよう、花巻君」

机の脇にバッグを掛けた花巻君は、振り返って私のスマートフォンを覗き込んだ。

「さっきから難しい顔してるけど、それ、何見てんの?」
「んー、及川君の誕生日プレゼントどうしよっかなって」
「ああ、そういえばあいつの誕生日もうすぐだったな」
「正直さあ、及川君の好みとか良く分からなくて。花巻君部活一緒だけど何か欲しいものとか知ってる?」
「えー、俺も分かんねえ…。ちょっとスマホ見して」

そう言って私の握っていたスマートフォンを抜き取り、お互いが見やすいように横向きにして机の上に置いた。花巻君の指が画面を滑り、先ほど検索していた画面をどんどんスクロールしていく。「あ、これ」と画面を指さしてこちらに向けて顔を上げた時、ふわりといい香りが漂った。

「あれ、なんかいい匂いがする。新しい香水?」
「おー、わかる?俺朝練終わりだし汗臭かったりしたら周りに迷惑じゃん?一通り綺麗にはするんだけど、一応ね」
「花巻君が汗臭かったことないけどなあ。ねえねえその香水今持ってたら見せてほしいな」

「あるよー」と言って鞄から取り出されたのは、可愛らしい小瓶の香水だった。それはそのまま手渡され、手のひらに丁度収まる。可愛らしいとは言っても、男女どちらが持っていても不自然ではないものだ。

「見た目も可愛いね」
「だろ!これユニセックスだから不自然じゃないと思うし、よかったら名字さんもつけてみる?」
「いいの?ありがとう!」

私達の席は幸いにも窓際で周りに人もあまりいなかったので、窓を開けて外に向けて腕を伸ばして遠慮がちに手首にワンプッシュする。手首をちょんと合わせて耳元にもつけると、花巻君と同じ香りが鼻腔をくすぐる。とてもいい匂いだ。

「なんかさー、女子が香水つけてる姿ってこう、グッとくるよな」
「え、そうかな?」
「おう、めっちゃいい。んでさ、さっきのプレゼントだけど――」

花巻君がそう言いかけた時、予鈴が鳴った。お互い顔を見合わせて慌てて準備を始める。暫くすると答案用紙を抱えた先生が教室に入ってきた。答案が手元に戻り、一通り確認しながらぼんやりとプレゼントについて考える。折角だから使ってもらえるような実用的なものが良いし、万一妙なものを渡して困らせるわけにもいかない。さっき花巻君は何を言いかけたのだろうか。全ての答案を確認し、頬杖をついて前に座る花巻君を眺める。手首からはふわりと良い香りが漂い、なんだか幸せな気分になった。あ、と小さな声が漏れる。気付いた花巻君が振り返ってこちらを見る。

「どうした?」
「及川君のプレゼント、香水にしようかなって」
「あー、それ俺もさっき思ったんだわ。あいつ前に俺の香水見て、自分も買おうかなって言ってたの思い出してさ」
「おお、それは好都合だ。でも香りって好み分かれるよね」
「まあなー。でも名字さんからもらったもんなら何でもつけるんじゃね?」
「そうかな、そうだと良いんだけど…」

初めてのプレゼントが香水とは少々重すぎるのか?と思いつつ、他にいい案も思い浮かばなかったので、午後に見に行ってみよう。そう決心したのは全ての答案の確認が終わり、さあ帰るぞという時だった。机の横に掛けたスクールバッグを肩にかけ、昼食後にまた部活だという花巻君に手を振ってから教室を出る。廊下の角を曲がる時、丁度誰かとぶつかってしまった。すっかり油断していたために思わず後ろに倒れそうになるが、前方から伸ばされた腕が私の腰へとまわり、そのまま抱き寄せられる。顔を上げるとそこには眉根を寄せて何とも微妙な顔をした及川君がいた。

「わ、ごめん!腕痛めたりとかしてない?」
「大丈夫大丈夫、それより自分の心配しなよ。こちらこそちゃんと前見てなくてごめんね」

腰に回された腕を解きつつ、先ほどとは一転していつも通りの笑顔をこちらに向けた及川君が何を思ったのかは分からなかった。

「それはこちらこそ…及川君はこれから部活だよね?頑張って!」
「ああうん、ありがとう。帰り道気を付けてね」

ひらひらと手を振り、私のクラスに入っていった及川君は花巻君に用事だろうか。バレー部の人達と一緒にお昼ご飯を食べるのかな。少し気になるが、わざわざ聞くことでもないだろう。先ほど及川君にぶつかった際に乱れた前髪を手櫛で整え、これから寄る予定のお店を考えながら学校を後にした。



迎えた及川君の誕生日当日。今日も及川君は部活だというので、それが終わった後に少しだけ会おうと約束をしている。私の家は学校と及川君の家の間にあるので、帰りに家の近くまで来てくれることになった。少し前に部活が終わったとの連絡が入ったので、もうそろそろだろうと身支度を整える。私服で会うのはいつ以来だろうか。直前まで自宅にいるのでそこまで気合の入った服を着るわけにもいかず、ちょっとそこまで行けるくらいの適当な服を選んだ。着ている服が違うだけでこうも緊張するとは、私の恋愛事情の初心者マークはまだまだ外れていないようだ。先日沢山悩んで購入したプレゼントは綺麗に包まれてミニテーブルに乗せられている。それを眺めていると、渡したときの反応を想像してしまって落ち着くことができない。自宅にいるにも拘らず、どうにも居心地の悪い気分になっていると、及川君から近くの公園に着いたとメッセージが届いた。慌ててプレゼントをバッグに入れ、公園まで向かう。人気のない小さな公園で、及川君が静かにベンチに腰かけていた。少し間をあけて隣に座り、疲れのせいか視線を斜め下にやっている及川君に話しかける。

「疲れてるのにわざわざ寄ってもらっちゃってごめんね」
「全然大丈夫、むしろこちらこそちゃんと会う時間取れてなくてごめん」
「及川君が忙しいのはわかってるから大丈夫だよ」
「…俺が忙しいって言って会えないからマッキーを選ぶの?」
「え?何のこと?」

寝耳に水とは正にこのことだろう。及川君が何を言いたいのか、そこに何故花巻君が出てくるのか、何もかも全く分からなかった。思わず素っ頓狂な声を上げた私を、及川君は弾かれたように視線を上げて吃驚したような顔で見た。

「え?違うの?」
「だから本当に何のことだかわからないんだけど…」
「俺、今日振られるんじゃないの?」
「ええ、なんで?そんなわけないよ。そうだとしても私も人の子だし、振るとしても流石に日付は選ぶよ」
「よかったー!」

先ほどとは打って変わって笑顔を見せた及川君は、すぐにまた表情を曇らせた。全く状況がつかめない私を見て、及川君は言い辛そうにしながらも続けた。

「でも、この間廊下でぶつかったときさ、マッキーと同じ匂いだったじゃん。二人は同じクラスだし仲もいいから、いつの間にかいい仲に発展してるんじゃないかって思って」
「ああ、あの日か。及川君のプレゼントどうするかの相談に乗ってもらってた流れで少しつけさせてもらっただけだよ」
「…そんなことある?」

ジトっとした目つきでこちらを見る及川君は、どこか納得していないような表情だった。本当ならもう少しきちんとした形で渡したかったのだけどと思いながらバッグからプレゼントを取り出した。

「はい、これ。お誕生日おめでとう」
「開けていいの?」
「むしろ今開けてほしいくらいだよ」

こちらとプレゼントを交互に見ながら包装を解き、中身が出てきて漸く合点がいった及川君はこちらに向かって疑ってごめんと頭を下げた。そして嬉しそうにしながら香水の瓶を公園の朧げな電灯にかざして眺める。その様子を見て私も胸をなで下ろした。

「つけてみてもいい?」
「どうぞどうぞ」

及川君はいそいそと瓶の蓋を開け、手首に香水を一吹きする。辺りに香水の香りがふわりと漂い、店頭でいろいろな香りを嗅ぎすぎて良く分からなくなるくらい悩んだ時間を思い出した。でも、ニコニコとしながら「この匂い好き」と言った及川君を見て、悩んだ時間も無駄ではなかったと一安心した。

「名字さんありがとう、凄く嬉しい」
「気に入ってもらえて私も嬉しいよ」
「香りってさ、その人の事を思い出す引き金になるよね」
「言われてみれば確かにそうだね」
「うん。だから――」

そこまで言った及川君は、隣に腰かけた私を抱き寄せた。そして耳元で「名字さんも俺の香りになって」と囁き、先ほど香水をつけた手首を私の耳元に軽く擦る。及川君のつけた香水の香りが呼吸をするたびに微かに香り、心臓が高鳴った。顔に向かって熱が集まり、耳までじんわりと血液が届いていくのを感じた。

「こうしたらお互い傍にいる感じがするでしょ?」
「…及川君はずるいね」

可笑しそうに笑った及川君は、「何のこと?」と惚けた。



長い夏休みが明け久々に登校をすると、早いもので花巻君はもう来ていた。

「名字さんおはよー、久しぶりじゃん」
「花巻君おはよう。夏休み中も部活だったんでしょ?お疲れ様」
「ほーんと疲れたよ。まあ楽しいんだけどさ」

私が椅子に腰かけると花巻君は振り返ってこちらを見た。

「…そういうの、大概にしろよなー。はー、俺も彼女ほしー」
「ん?何が?」
「香水。及川と同じじゃん。仲良さそうで何よりですよ本当」

わざとらしく唇を尖らせた花巻君を見て、香りは本当に人の記憶に残るものだと感心した。

プレゼントを渡した後日、忙しい合間を縫って二人で会った際に及川君から小包を手渡された。にやりと笑いながら早く開けてみてと急かされ、言われたとおりに包みを開けるとそこには小さなアトマイザーが入っていた。

「これは?」
「名字さんから貰った香水のおすそ分け。本当は同じもの買ってプレゼントしようかと思ったんだけど、プレゼントの値段知っちゃうのもまずいし。これつけて俺の事思い出してね。まあ俺は香りが無くても名字さんのこと毎日考えてるんだけどね」
「…本当、及川君ってずるい」
「あと、名字さんの事狙ってる男に、名字さんは俺のだっていう牽制もなるし」

涼しい顔でそう言った及川君はそのまま私を抱きしめ、「今日はこれで俺の香りになったから、明日からちゃんとつけてね」と耳元で囁いた。恥ずかしいくらい照れてしまった私はそのまま頷くことしかできず、それ以来律儀に同じ香水をつけている。さんざん悩んで選んだ、及川君に似合いそうな香りが自分から香るのは、及川君包まれているような、なんだか妙な心地になってしまう。
きっとこれも及川君の策略なのだろうが、相手の香りが自分に馴染んでいくのは、酷く心地よく感じた。

・付き合ってる
・お揃いの香水
・↑マッキーと
・俺の香りになって

及川さんおめでとうー!

2021/7/20 はる