通勤初心者

 社会人一年目の春。入社してからはちょうど二週間目。なまえは乗り慣れない電車内で、すし詰め状態に陥っていた。うっかり寝坊してしまい、ラッシュとかち合ってしまったのだ。なまえはやっと掴まることの出来た吊革に必死にしがみつき、息苦しさと戦いながら、何とか立っていた。


〈まもなくー○○駅に到着します降りられるお客様をー…〉


 車内にアナウンスが流れる。なまえが降りる駅まであと三つほど。この駅での乗降でどうにか少しでも楽な体勢を取ろうと、鞄をしっかりと抱え込んだ。しかしなまえの思惑通りには事運ばず。ドアの中央付近にいたなまえは、これまで掴んでいた吊革とは無情の別れをし、乗客にどんどん押され、反対側の開いていないドアの方に流されていく。


「ぶっ!」


 最後の一撃、とばかりにグッと強く押し込められる。その衝撃でなまえはバランスを崩し、ドアのすぐ側の壁にもたれ掛かるスーツ姿の男性の背中にまるでタックルをするかのようにぶつかってしまう。


「すみませんっ」


 なまえは何とか顔を上げて謝る。肩越しにちらりと視線をなまえに向けるスーツ姿の男性は、180センチはあるだろうか、背が高い。男性は、強面に比例した低い声で「イヤ…」とだけ呟くと、また顔を壁の方に向けた。
 体格のよすぎるその男性になまえは少し怖くなり、故意的でなかったのだど己に言い聞かせる。出来るだけ距離を置くべく、体勢を立て直そうとするなまえに、またもや走り出した電車の揺れが襲う。学生らしき男性の背中に押され、先ほどぶつかったばかりのスーツ姿の男性に密着してしまう。しかも背後にいた学生らしき男性はリュックを背負っており、自然と胴体…厳密には胸を擦り付ける格好になってしまっている。


「ご、ごめんなさい!」


 まるで痴女だ、となまえは恐怖と羞恥に泣きそうになりながら謝った。なまえは辛うじて鞄を離していないだけで、殆ど地に足は着いていなかった。そんな中では、体勢を立て直すことも出来ない。


「うぅっ…」


 ぐいぐいと揺れにあわせて押しつぶされ、息苦しさになまえは思わず呻いた。あとこれが10分ほど続くのかと思うと、今すぐにでも降りたかった。降りれば遅刻は確実だが…そもそも、降りられるのかどうかも不安になる。
 すると、目の前の壁…もとい、スーツ姿の男性が動いた。器用に体をこちらの方に向けると、男性はなまえの両肩を掴んだ。痴女と間違われた、と思い身を堅くするなまえをよそに、男性はするりと己の立ち位置をなまえと入れ替えた。ドアの側の壁に手を突き、小さなスペースを作ってくれたのだ。


「え?」

「気分…悪イカ…?」


 唖然とするなまえに、男性は心配そうに聞いた。どうやら酔ったのだと勘違いしたらしく、答えないなまえに、男性は眉間にしわを寄せた。


「次デ…降リルカ…」

「い、いえ!気分が悪いわけではなくっ!」


 慌てて弁解するなまえに、男性は一瞬驚いたように目を丸くさせ、頬を赤らめて気まずそうに視線を逸らした。


「ア…スマヌ…」

「いえ、息苦しかったものですから……助かりました」


 ちょっと怖がっていたのが馬鹿らしく思える。なまえは人は見かけによらない、と近すぎる男性との距離にトギマギしながら思った。それから、会話がピタリと無くなり、一駅を通り過ぎた。


「何処デ……降リル……?」


 なまえが何か会話をと悩んでいると、男性の方から話を振ってきた。置かれている状況の事ばかりを考えてぼーっとしていたなまえは不意の質問に、素っ頓狂な声を上げた。


「へ?あ、ああ…降りる駅ですか。えっと、私は桃園駅です」

「同ジカ…」


 外の景色を見ながら呟く男性の横顔に、なまえの心臓が跳ねる。なまえはじわじわと顔に熱が集中するのを感じた。優しくされたらすぐ格好良く見えてしまう、それが己の悪い癖だ、と恥ずかしくなった。
 あと二つ先だという話をしていると、カーブに突入した電車が大きく揺れる。小さい揺れの後、大きく揺さぶられた車内の人は一斉に片方に偏る。その衝撃に、スペースを確保していた男性の腕が外れてしまう。元々小さかったスペースが無くなってしまい、男性となまえは向かい合う状態で密着してしまった。


「ス、スマヌ…!」


 男性が慌てて、もう一度スペースを確保しようと腕に力を込めるが、押される力が強すぎて確保することはできない。まるで抱き合うかのような格好に、なまえはまるで全身が心臓になってしまったのではないかと錯覚するほどに己の心臓の脈を感じた。


「スマヌ…」


 どうにも立て直せそうに無いのか、男性は首まで真っ赤にさせて、本当に申し訳無さそうに呟いた。なまえも負けないくらい赤い顔で「いえ」とだけ返して、その状況に耐えた。暫くして駅に到着した。実のところ二、三分の出来事なのだろうが、ふたりには一時間にも二時間にも思えた。
 目的地は次の駅。乗降するおかげで体勢を立て直しは出来たものの、気まずさは頂点を極めている。なまえは俯いて、次だ次だ、と早く到着する事を祈りながら耐えた。


〈まもなくー桃園公園前駅に到着します降りられるお客様をー…〉


 車内に響くアナウンスに、なまえは顔を上げた。すると、男性もやっとという表情でなまえを見た。やっと着いたのだ。


「行クゾ…」


 男性は網棚に置いた荷物を持つと、なまえに声をかけた。なまえは鞄をしっかり持ちなおすと頷いた。プシューと言う音とともに扉が開かれる。人の波をかき分けて扉に向かう男性の背中にぴったりとくっつき、何とか降りる。降りた瞬間、男性となまえは同時に息を吐いた。長旅をしたような気分だ。


「…ソノ……我……勘違イ……悪カッタ…」

「いえ、あのままだと本当に気分が悪くなっていました。ありがとうございます」


 駅のホームでそんな会話をしていたが、ふっと時計を目にした瞬間、焦りがこみ上げた。


「ああ!遅刻!!!?」

「!?」


 なまえの言葉に時計を見た男性もまた、ぎょっとして焦りを見せた。走れば何とか間に合うか。挨拶もそこそこに、二人は全速力で改札を通り抜け、会社へと向かった。

 その日の昼休み。ドタバタして名前を聞きそびれたと互いに後悔していた二人が、社内の食堂で再び出会い、あっ、と同時に声を上げた。

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