目の前のフライパンの上に乗る黒こげになった塊を見て、アタシは思いっきり顔を顰めていた。
*
時刻は夕方。夕焼けが目に痛い日暮れ。
いつも通りの一日を終えて、大学を出て帰路につく。
最近はいつも二人で帰っているのだけれども―そのもう一人は、卒論を進めるのに大学に置いてある資料が必要とかどうとかで、今日は先に帰っていてほしい、という旨の連絡が先程スマホに届いていた。
少しだけ、…ほんの少しだけ、課題でもやって待っていようか、とも思ったけれど。
そんな甲斐性のある人間だと思われるのもなんだか癪なので、アタシはそれに了承の返事を返して先に帰ることにした。
顔に当たる夕焼けが眩しい。
正直、この時刻は人も騒がしいし、何となく不気味な気がして、あまり好きではない。…特に、あの日からは。
そうやってぼんやり歩いていたせいか、帰り道を間違えていることに気が付いたのは、商店街に入り込んでからのことだった。
(……今日はこの道じゃなくていいんだった)
最近、帰りに二人で買い物をしているせいか、すっかり癖になってしまっていた。
自分の家に帰るならば、この道は遠回りなのに。…けれど、今更道を戻っても結局時間がかかることには変わりないだろう。
諦めて商店街の中を進もうとして―ふと、立ち止まる。
頭の中に浮かんだ発想に、足を踏み出すべきか暫く迷って。
アタシは、商店街の店の方へと足を向けた。
*
そして、今現在。
アタシの目の前にあるのは、ハンバーグ………になるはずだった何かだ。
前よりも上手くなった―と思って、いたのだが。その認識は、どうやら甘かったらしい。
帰ってくるまでに、たまには夕飯でも作ってやろう、と思って商店街で材料を買ってきたのだけれど。
(…アイツに出したら絶対死ぬほどダメ出ししてくる…)
ずけずけと文句とダメ出しと改善点を表情一つ変えずに言ってくる姿が目に浮かんで、アタシは思わず眉間に皺を寄せた。
明らかに見た目から失敗しているのだから食べなければいいのに、アイツ、…鎌酢実は、いつも残さずに全部食べている。それでいてたまに後で顔色を悪くしているのだから、本当に馬鹿なんじゃないかと思う。
時計を見れば、もうすぐ帰ってくるであろう時間だ。今から作り直す時間は無さそうだし、そもそも材料が足りない。
こっそり処分してしまおうかとも思ったが、何だか鎌酢実にはバレてしまいそうだし、食べ物を粗末にするのはよくない、という気持ちはアタシにだって少しくらいはある。
アタシはその黒こげになった塊を仕方なく皿に盛り付けることにした。
幸い一緒に作ったサラダは失敗しなかったことだし(といってもカットされた野菜の大きさはバラバラだけれど)、何か言われたらサラダだけ突き出してやろう。
夕食の準備を終えると、エプロンを外す。
リビングに戻ってスマホを見れば、鎌酢実からの連絡が入っていた。もうすぐ家に着くという連絡に、スタンプだけ送って返事をすると、ソファに腰かける。
この妙な空間で過ごすようになってから、もうすぐ一週間だ。
正直、他人と暮らすなんて無理だと思っていたのだけれど、案外うまくやれている、…と思う。
(まあ、パパが知ったら失神しそうだけど)
実際の所、アタシだってこの状況にあまり頭が追い付いていないのだ。
それだけ、ここ一ヶ月で起きた出来事は思わず考えることをやめてしまいたくなるようなことばかりだった。
ぼんやりと、鎌酢実の本が置かれている本棚を眺める。
下は大学の専門書など、アタシも目にしたことがあるような本が置かれているのだけれど、上の方に置かれたタイトルもついていない本に、アタシは目を通したことがない。
アイツが見られるのを嫌がっているのが分かっている、というのもある。
でも本当は、……アタシが、見るのを怖がっているのかもしれない。
真っ赤な夕焼けと、それと同じくらい真っ赤に染まっている自分の手のひら。
それとは正反対に、どんどんと顔色が悪くなっていく、鎌酢実の顔。
止めようにも止まらない零れ落ちていく涙は熱くて、鎌酢実の顔なんて殆ど見えていなかったのに、彼が伝えた言葉だけは今でもはっきり耳に残っている。
あれは、夢ではなかった。
思い出すのも恐ろしい、現実だった。酷い悪夢だと思い込んでしまえればいいのに、それを認めてしまえば、今のこの生活も否定することになってしまう。
きっかけは、いつからだったのだろうか。
去年の夏から、感じていた視線。
それは俗にストーカーというやつだったのだろう。帰り道ついてくる気配と、一人暮らししている部屋への悪戯描き。その他諸々。
けれども、自分の弱さを認めるのが大嫌いなアタシは、それを無視した。
全く怖くなかったと言えば嘘になるけれど、それ以上の危害を加えられることは無かったし―そんな姿を見せて相手を喜ばせるのは、アタシのプライドが許さなかった。
それから少しして起きた、あの廃ホテルでの一件。
鎌酢実と出会ったのは、それが初めてだった。少なくとも、アタシの方は。
…けれど、本当は違ったんだろう。
未だに何故そんなことをしたのか、アタシには分からないし、事実なのかも疑っている。
それでもあの時、鎌酢実は確かに口にしたのだ。
自分がストーカーなのだ、と。
「……、」
じっ、と本を見つめる。別にいくら眺めたって中身が透けて見えるわけではないことは理解している。それでも、目が離せない。
椅子でも踏み台にすれば、あの本棚にはすぐに手が届く。中身を確認することだって出来る。
手を伸ばせば、そこに答えはある。
けれど、本棚を暫く眺めた後、アタシはスマホを手に取った。
遅い、と一言鎌酢実に送信すると、すぐに既読の表示が付く。
多分、鎌酢実のしたことは世間一般で言えば許されないことだ。
でも、そんなのアタシには関係ない事で、アタシが鎌酢実に死んでほしくないと、生きていてほしいと願ったのだから、今更もうそんなことはどうでもいい。
言いたくないなら、無理に聞こうとも思わない。
いつか、アイツが自分から話してきたら、それを聞くくらいのことはしてやってもいいけど。
正直、自分でもここまでの感情があるなんて思っていなかった。
(鎌酢実は、きっと、アタシにとって凄く大切な、…特別、とかじゃなくて…)
意識せず、口から言葉が零れた。
自分の口から発されたその二文字に、思わず瞬きをする。
次に、顔に集中する熱。
今、一体自分は何て言葉を口にしたのだろうか。
本当に、調子が狂う。最近のアタシはずっとペースを乱されっぱなしで、けれどそれが不快ではないと感じてしまっているのだから、いよいよどうしようもない。
絶対、面と向かってなんて、言ってやらないけれど。
でも、この感情が嘘ではないことぐらいは、アタシにだって分かっている。
ドアの方から音がする。鎌酢実が帰って来たのだろう。
ドアが開く音。続いて、自分の事を呼ぶ声が聞こえて、アタシはソファから立ち上がった。
いつか、もう一度君に、ちゃんとこの言葉を言えたらいいと思う。
何があっても、きっと大丈夫だ。
だって、アタシは自分の力で、二人で生きる未来を見つけたんだから。
「…おかえり、想染」
玄関に立つ鎌酢実に向かって、アタシはいつも通り口を開いた。