閉じていた瞼を開くと、部屋の中はまだ暗闇で満たされていた。
「……」
ゆっくりと体を起こすと、ベッドが軋む音がする。
窓の外からは月明かりが射し込んでいて、時計を見なくとも今が深夜なのだろうということが分かった。
俺が起き上がったせいか、俺のベッドにいつの間にか潜り込んでいた飼い猫のゲッカも目を覚まして近寄ってくる。
ぼんやりとしたままその白い毛並みを優しく撫でてやると、彼女は嬉しそうに喉を鳴らした。
元々眠りが深い方ではない。
夜中に目が覚めるのは珍しいことではなかったけれど、今日は原因―というより、思い当たることがひとつ、ある。
撫でる手を止めずに顔を横に向ける。
ベッドのすぐ横の床に、横たわる影がもう一つ、月明かりに照らされてぼんやりと目に映る。
毛布に包まって寝ているのは、俺の友人である緒尾和紗だ。
床に寝ているというのに、彼は随分と落ち着いている、というか、リラックスしている、というか。
寝る前にこちらのベッドを使うように言ったのだけれども―彼曰く「床の方が寝心地がいい」と言って譲らなかった。
気を許している中とはいえ、客人なのだから快適に過ごしてほしいのだが。
(…起こしたら悪いな)
水でも飲みに行こうか、と少し考えたけれど、折角眠っている彼を起こすのも忍びなくてそれを断念する。
電気もついていない部屋なのに、今日はやけに部屋が明るい。
窓の方に目をやれば、海の上にぽっかりと浮かぶ、目が眩みそうなほどの月が見えた。
月の満ち欠けはよく覚えていないけれど、今夜は満月なのかもしれない。
射し込む月明かりに、横で眠る和紗の顔が照らされている。
思わずその顔をじっと見つめてしまう。
起きている時は、俺より背が高い彼の顔をあまり見ることはない。そうでなくとも、いつも俯きがちな俺は、人の顔を見るのが苦手なのだ。
―それに何より、俺の浅ましい考えが、彼に見透かされてしまうような気がして、怖い。
俺はきっと、彼に友人以上に特別な、…言葉にしてはいけないような、そんな感情を抱いている。
そんな彼が、横で無防備に寝ているせいで―今夜は、いつも以上に眠れないのだ。
彼は、俺がそんなことを考えているなんて知らないんだろう。知っているのなら、こうやって友人関係が続いている筈がない。
泊まっていってもいいか、と聞かれた時は心臓が止まるかと思ったけれど、強引に言いくるめられてしまった俺は、彼に帰れということも出来なかった。
断って嫌われるのも怖かったし、それに何より、…本当は嬉しかった。
こんな矮小な人間だと、彼には知られたくない。
小さな声を上げて、彼が寝返りを打った。起こしてしまったのかと身をすくめるが、起き上がる気配はなかった。
俺は小さく息を吐く。今の自分はどんな顔をしているか分かったものではない。勘のいい彼なら、きっと気づいてしまうだろう。
一体、いつからだっただろうか。
元々、人付き合いが得意な方ではなかった。
特に嫌われたり、輪の中から外されたりといった経験をしたわけでは、ないのだが。
人を好きになるという感覚もよく分からなかったし、きっとこんな自分を好きになる相手も居ないだろうと思っていた。
事実、何度か付き合ったことのある相手は居たけれど、…よくわからないまま、向こうから別れを告げられた。
一緒に居ても退屈だ、なんて、それは俺が一番よく分かっている。
(……でも、和紗は)
彼は、多分俺以外にも、とても優しいのだ。
初めて会った時から、人懐っこい笑顔をする奴だなと思っていた。
俺のことを知れば、すぐに飽きてどこかに行くだろう、と散々な態度を取ったにも関わらず、彼はそんな俺にも変わらず接してくれて。
何が面白いのか理解できない、と昔言われたビーチコーミングにも、彼は興味津々で、俺が何か見つけてくるたびに、あれはなんだこれはなんだと楽しそうに聞いてきた。
初めて料理を出した時に、彼がとても美味しそうに食べて、彼女が作ってくれるのより美味しい、なんて。その当人が聞いたら激怒しそうなことを言って、笑ったことも、よく覚えている。
いつから、友人以上の感情を抱いていたのか。…もしかしたら、最初からだったのかもしれない。
自分は酷く狭い世界で生きる人間だから、もしかしたら何かの感情を―そういったものと、はき違えているのかもしれない、と考えた。
けれども彼の話を聞くのが楽しくて、傍に居るだけで嬉しくて、居ないと、酷く寂しくなって。
…烏滸がましい、本当に、烏滸がましいことだけれど、彼に触れたいと、思った。
そんなことを思ったのは、生まれて初めてだったのだ。
それに気づいた時の俺と言えば酷く動揺してしまって、花の手入れをしていたというのに、庭で滑って転んで泥だらけになってしまった程だ。
汚れた服を洗おうと風呂場に行けば、そこに映る自分の顔は泥にまみれていても分かるくらい真っ赤になっていて。
けれど、だからこそ、俺はそれを和紗にだけは、知られたくないと思った。
彼が離れて行ってしまうのが、今の関係を続けられなくなるのが、怖い。
和紗はきっと優しいから、俺の気持ちを知っても軽蔑することはないのだろう、と思うけれど。
それでも、今まで通りの関係なんて、無理だ。
こうやって横で眠っているのだって、俺のことを友人だと、…大切な友人だと、思ってくれているから、成り立っていることで。
「……、…」
ふと、鈴を転がすような鳴き声が耳に届く。
そちらを見れば、ゲッカがまるで慰めるかのように、俺の手に擦り寄っていた。
俺は苦笑しながら、彼女を撫でる。これではどちらが飼い主だか、わかったものではない。
きっと、これくらいが俺には丁度いいのだ。
本当に彼と今以上の関係になろうだなんて、望んでいない。傍に居ることが出来れば、それだけでいい。
彼が俺の事を友人だと思っていてくれれば、それだけで、俺は幸せなのだ。
そうして、出来ることなら和紗には幸せになってほしい。人並みの、…わがままを言うなら、それ以上に幸せになってくれれば、俺は何も言うことは無い。
ゲッカを撫でる手を止めて、眠る彼にそっと手を伸ばす。
殆ど触れたことのない彼の髪は思っていたより柔らかく、手を二、三度往復させただけで俺は恥ずかしくなってきてしまい、すぐに手を離した。
布団にもう一度、潜り込む。明日起きたら、和紗の好きなものを朝食に出そう。
それを見た彼が嬉しそうに喜ぶ姿が目に浮かんで、俺は思わず笑みを零した。
微睡んで意識を手放す、その前に。
好きだ、と呟いた俺の言葉は、どうか和紗には聞こえていませんように。