おはなし倉庫

▼2018/09/02:万里 --長文

『これより、開廷』






名前の無い罪
(ギラティナ/過去話)




思考に耽る真夜中。
ボンヤリしていた感覚が澄み切ってきた真っ暗闇。無造作に転がる、明らか愛玩用ではない壊れた人形にようやく目を向け万里は考える。"人形"遊びなぞ、これまで一度もしたことがなかった。"人間"遊びに関しては、何度も何度も精神も肉体も破壊し尽くして満足するまで蹂躙したことはある。万里にとって生き物とは、そういう使い捨ての玩具だった。眼前の人形は万里の普段の行いを象徴してか、左足と右腕が本来曲がる筈のない方向へ歪み、口だと思われる部分からは赤い糸が垂れていた。まるで死体のようで気持ちが悪い。いや、死体なのかもしれない。汚いモノには触るな障るなと母から口酸っぱく言われている万里には、生きモノか死にモノかを確認する気はさらさらなかった。遠い昔にこういう事案と邂逅したことがある気がして、万里は記憶の隅に追いやられ埃を被った小さな引き出しからそれを探る。どこかでコレと似た人形めいたモノを見たことがあるのだ、とざわざわした不安定の中で確信めいていた。遥か万里のその先で記憶は絡まっていて、その時に見た人形がもっともっと赤糸を全体に散りばめてぐちゃぐちゃに四肢が粉砕されていたことだけ、虚にそして朧気に思い出した。詳細を鮮明には思い出せない自分に、なら仕方ないと万里は軽く暗い思考を中断させたのだった。

『万里、貴様のソレを私が責めることはできない…決して、私には不可能だ』

誰かが言う。
自暴自棄になって、死すら恐れてどうしようもなくなった時に突き放された台詞は、おそらくあの人の心すらも傷付けるもの。万里は酷く冷えた瞳をそれから知らない。崇拝にも近い尊敬を抱いていた人に幻滅された糞にもならないエピソードを回顧しながら、ふと自分が何故この場所で無駄な時間を物思いに耽っているのかと不安になった。万里達死神が創る穴は、反転世界とも境界世界とも呼ばれる空間に繋がっており、さらにその出入り口である穴は創った死神のみの介入しか受け入れない特別な亜空間。よっぽどのことがなければ普段は創ることのない筈の場所。この場所が開かれ創られているということは、自分はそれ程までに何かに追い詰められ逃げ出したということだろうか。万里はそこで漸く、思案する先程まで自分は何をしていたのだったかと小首を傾げた。まっさらな闇に人形と一人、ただ万里は存在していた。

『万里の幸せを壊してごめんなさい。ごめんなさい…私の惨めな気持ちが、自惚れが、自尊心が、嫉妬がうぬさえも壊してしまったの。ごめんなさいごめんなさい…』

誰かが言う。
愛している人からの好意が見せかけだと突き付けられ、伴って万里の心に生まれた殺意で初めて行為に及んだ際に聞いた最期の台詞。一番に幸せを望んでいた筈なのに、自分を置いて裏切って幸せになろうとした瞬間に感情は刹那憎悪に変わる。そうして万里は思いつく限りの罵倒を浴びせて、笑顔を花のように咲かせる人の心を根本で腐らせてしまった。ごめんなさいという、陳腐な謝罪が頭の中を駆け巡る。ここにあの人はいないというのに、まだ万里を悩ませるのか。不意に起こる偏頭痛にギリギリと歯軋りして、万里は消えろ消えろと頭を抑えながら呟き続けた。頭の内を握り潰す痛みに吐き気がする。荒い息でズルリ、と力なく体を横たえると床の無慈悲な冷たさに悪寒が走った。熱の帯びない汗が頬を伝う。同じように横たわって動かない人形に自分を重ねて、万里はどうしようなく惨めな我が身を呪う。こんなモノがあるから、現実を見せ付けられて辛いのだとどこかで理解していた。けれど、体は動かず四肢は離れない。

『愛しています』

誰かが言う。
誰かが言った。
誰だったのかは覚えていない。ずっと欲しがった言葉を軽々と言ってのけたその人を万里はもう覚えていない。顔の作りすら曖昧で。馬鹿馬鹿しいくらいに正直な彼にどれほどの唾を吐いただろうか。自分を更生させようと躍起になる彼に踏み躙ってきただろうか。一段と頭痛の波の振り幅が大きく酷くなって、万里はぐぅ…と唸り声のようなくぐもった声を漏らした。このまま床に胃液諸共ブチまけてしまったほうが楽だろうに、黄色く腐った液体は一向に万里の喉を通り過ぎる様子はない。追い詰められている、と思う。《何に》、《誰に》、なんてところまでは思考できないにしろ万里には分かる。誰かがまた、足のない足で忍び寄ってきては痩せ細る四肢を追い詰める。

『愛しています』

「煩い」

『あなたがたとえなんであれ、私には支障になりません。愛しているんです』

「違う違う違う黙れ」

『最初に火を点けたのはあなた』

噛んだ唇から血が出る。
思い出してはいけないと危険信号が鳴り響く。金と銀、二人の影が連なって、愛しているなどという戯言を吐き万里に両手を差し伸べてくる。長い長い金髪が、まるで不純と純が混じりあったようなまだら模様の触手が、否応なしに万里の足に絡みつく感触がした。そう感じた。助けを求めてか、痙攣した左手が人形が羽織っている布生地を弱々しく無意識的に掴む。幼い頃から愛を歌われ歌わされてきた万里にとって、誰かと交わす愛の問答などただの拷問。一瞬、この世で最も軽蔑すべき女の笑みを見た。

『愛してあげる』

裂ける口許。
途端痛みより前に体を起こして、衝動的に引き寄せた人形の頬を手の甲で力いっぱい目一杯に叩いた。人形と女の顔が重なって、万里はどうしてもコレを殺さないと気が済まなくなった。血が泡立っている。ふつふつと煮えくり返るのは血か腸か。荒げた息のまま、人形に馬乗りになって首元に手を回し、深奥から湧き上がるのはこれから生まれる達成感への予兆、余震。両の手にぎしぎしと負荷をかけ続けていくと、視界の端で人形の口からまた赤い細糸が無遠慮に垂れているのが見えた。万里の頬に伝うのが冷や汗かソレかもうなんとも区別はつかない。あの女から逃げ出したくて色々な方法をとってきたが、それでも万里は未だに逃げられず愛という名の暴力と檻に支配され続けている。女からの執拗な支配に屈服した万里は結局、愛を理解した歳にそれを捨てたのは言うまでもない。愛とは罪で、愛することは罰なのだと。
恐ろしさに身震いする。

(ねぇ、それは本当に)

動く筈のない木偶の人形から唐突に温かさを感じる。嫌悪で忘れていた恐怖も頭痛も吐き気をも思い出して、万里は慌てて後ろにたじろいだ。人形を慌てて放り捨てる。命のないモノに殺されそうな気がした。もっとも、動く筈がないのであれば、話すことも息をすることも愛を紡ぐこともできない筈だ。勿論、恐れる心配もしなくていい。頭では理解していても自分自身の荒い息は落ち着かず目は泳いでいて、どうやら人形について、人形を含めた忌々しい記憶の引き出し漁りをやめなければ治りそうもないと万里は結論づける。何もなかったのだ。何もなかったのだと自分自身に言い聞かせる。足先に見えた触手はきっと見間違いだと。
同じ罪を犯しはしない。

「………、…ぁ…」

自分を仕切りに呼んでいたのは彼。縋る手を振り払い裏切ったのは自分。確かな答えがそこにあった。在りし日の罪を犯さないために愛も己も捨てたというのに。目の前の人形がまざまざと、あの人と自分では、到底愛しい全てを共有することは不可能だと告げられて有罪判決を下されたようで、万里は力なく口角をあげ己の愚かさに嘲笑した。ほつれた自分の嘘から、絶え間なく真実が溢れ出してくる。危険信号は未だ脳内鳴り止まないが、自覚してしまった今ではもうそれも遅い警告。黄から赤に変わった色は、懺悔と後悔でさらに激しく万里の脳内を塗り潰していく。瞳孔が限界まで開く。ガタガタと奥歯が揺らぐ。自分のやってしまった行いに万里は頭痛のするポンコツな頭を抱え震えて、明白に明瞭に明確に思い返せば現実に引き戻されてしまっていた。直視できないからと目を伏せる。暗闇の中で、救いの神に助けを求めようとも一人奈落に突き落とされるだけ。万里はただ、自身の犯した罪の重さに戦き、そうして精神は闇に同化していく。人形が人形であるかは、万里にとってすでに小さな問題にすぎなかった。
永久の愛の黎明。


Dead of Reality
(生は難く死は易し)


--野放図裁判開廷--




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