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▼2018/09/02:音紬 --長文

『何処へ行くの』





涅色の心臓
(ダークライ/過去話/長文)




水底に沈む。
遠くの方でゴォォン…ボォォン…と重々しく大地の震える音がした。音の振動はリデルのいる箱庭中心部に程近い、ヴィヴァーチェ邸の薔薇園にまで届いていた。重低音が繰り返される度、赤や黄の薔薇達が箱庭を取り巻く悲劇に慄くようにその身を震わせる。リデルは今、この箱庭で何がどのように起こっているかを知らない。父や兄が同胞達をどう処分しているかを知らない。自分がただの伝説の獣であるわけではないということを全くと言っていいほど把握をしていない。決して彼女が無知なのではなく、知識を与えられる機会がなかっただけで、のちの才女は大きく潤んだ瞳に空と樹の葉影を映していた。微細な振動で薔薇達が落ちてしまわないかと、小さな両手で側にある一輪の花をもぎ取らぬようそっと花弁を支える。彼女の周りのみだけが平和を取り繕う異様な光景。黒檀の影から声が聞こえて、喧騒の最中へと駆り立てる心が煩わしい。気を抜くと影に全てを呑み込まれそうで仕方なく、リデルは愛しい家族達の帰還を切に願っていた。結局、考えていることは自分本意で情けが無いというのに。
影達が笑う。
薔薇達は嘆く。

「……夜が来ればいいのに」

夜になれば狭い邸宅と薔薇園にひとりぼっちではなくなる。リデルを恐れてか、輪廻に言い付けられたからか、好んでリデルに触れる使用人は誰一人としていなかった。無邪気に会話を持ちかければ、彼らは張り付いた笑顔で失態をしまいと冷や汗を拵え対応する。一線を越えることは決してしない。狭くて広い世界に一人きりだという事実をリデルに無理矢理に知らしめるように、そんな拷問遊びを彼らは日々絶え間なく勤しんでいた。友人さえ作ることの叶わない彼女にとって、何千年も繰り返された日常は孤独を呼び、影の濃さを深く極める。
ふと、大広間で食器が金切り声をあげた。ガチャン、と大きな不協和音ののちに甲高くキィキィと獣が喚き鳴く。こんな晴れた日に災難なことね、とリデルが薔薇達に言葉を贈った。音の方向に目をじぃと向けると窓越しに見えるのは、過去数回父との会話場面に遭遇した見覚えある男達の姿。キョロキョロと狂者のごとく、先程まで金切り声をあげていた筈の獣を摘んでは捨て摘んでは捨て、仕切りに周囲を警戒している。すぐにリデルは自分を捜しているのだと勘付いて、何故だか衝動に駆られて、茨で己を護る薔薇達の中に身を寄せ彼らの動向を伺った。シルクで仕上げられたドレスの裾が、鋭い棘であっという間に裂ける。お気に入りのドレスでも構わない。諦めなければならない。布が裂けるの同じくらいに容易く、あの獣の首骨は圧し折られてしまったのだろう。侵入者達は"いけない"ことをした。それを悟ってしまったからリデルは物陰に隠れたのかもしれない。しかし明白に、薔薇園に足を踏み入れてしまった彼らから逃れることはできなかった。紅い死化粧を施した男達によって、リデルはその姿を発見・目視され狙いを定められていた。もたついた身体に纏わりつき蠢く影が、機会を窺っている。二人いるうち、青い方の男…"ディアルガ"時臣がいやらしい笑みを貼り付け、怯えるリデルの元へ歩み寄ってくる。薔薇達が死んで逝くのが可哀想で、目を覆ってしまいたかった。

「あぁ良かったリデル様。随分とお探ししたんですよ」

「時臣…」

後ろで兄弟神の"パルキア"空臣がこちらを睨んでいる。声を掛けられては観念せねばならない。リデルはおずおずと、かなり遠慮がちに彼らの前に姿を現した。困ったことに二人の素性をリデルはよくは知らなかった。勿論、今の今まで知ろうともしなかった。持ち合わせている知識を列挙すれば、名前とそれから"ディアルガ"と"パルキア"などと恭しく呼ばれた、時空を司る神を母から賜った大義ある双子であるという二点のみ。過去のリデルには、それ以外を調べるほどの興味を、少女として過ごす間にはほんの少しも持ち合わせてはいなかった。だからこうして、父の遣いでやって来たという彼らを容易信じることも疑うこともままならない。眉を顰めたまま、獣達の射程距離外ギリギリで立ち止まり注視する。リデルが紅を見て怯えていると勘違いしたのか、時臣は貼り付けた笑みをさらに濃く描いた。

「輪廻様…もとい使徒カルマ様からあなたを連れて来るようにと命がございまして。じきにあなたを迎えるための正式な使者がここに到着するでしょうから、しばしお待ちください」

愛想のいい笑みは隠し事を公にする。差し出された掌のほんの端っこにすら触れてはいけないと脳内で警告音がなる。時臣は破れたドレスをあざとく見つけ出して、着替えを持ってこさせましょうと優しさを盾に詰め寄ってきた。すかさず後退りで距離を取る。警戒心剥き出しの幼顔で、いらないわと睨み付けるが威力は到底ない。今にも彼ら双子の喉元に獣達が噛み付いてしまいそうな、ピンと張り詰めた空気にリデルは小さく息を飲む。

「お父様は出ちゃいけないって言ったわ。嘘つき狼さんが来てもここにいなさいって」

リデルの発言を耳にして、時臣は馬鹿馬鹿しいと溜め息を吐き、空臣は顔を背けて小さく舌打ちを打った。背中がじんわり汗で濡れ、ひんやりと渇いた風を感じる。どうやら屋敷の外では酷くよくない事が起こっていることを、無知なリデルでも容易に察することができた。むしろ気付いてはいたものの、平穏を望む脳味噌がここ数日帰って来ない家族達に気付かないフリをさせていた。勘付いたように振る舞うリデルを前にして、二人は神妙な面持ちで相談をし始める。どうすればリデルを意のままに操れるか…そんな会話が聞こえて、リデルは身を守るためにと少しだけ獣達を抑制する力を緩めた。彼女に獣を御する術は考えつかないではいたが、獣達は頭が回ることからして、宿主をやすやすと殺してしまうことは避けるだろう。最悪の結果が起ころうとも、父兄達にはリデルの訃報を知らせることが出来る。

「輪廻様も心配性ですね」

「時臣、余計なことを言うな」

「分かっているよ空臣」

苛立ち気味の空臣が親指の爪を噛みつつ、少々暢気に振る舞う片割れを嗜める。二人に与えられた任務はただ一つ…『ヴィヴァーチェ邸に軟禁状態のリデル=ヴィヴァーチェを連れ出す』こと。立場的にも最上位にあたる彼らが下っ端に消化させるべき劣悪な任務にあたらされていることを、空臣は未だ完全に納得しきってはいなかった。リデルに勘付かれないようにとのお達しも、回りくどくてより一層苛立ちを隠せない。ヴィヴァーチェ家は影の支配者だ、とは誰しもが口を揃えて言う文言。空間の神である空臣にも時間の神である時臣にも、干渉出来ない空間に彼らは個別のテリトリーを持っていた。それはギラティナが生成する"反転世界"とはある種別物で、同じ時間軸の別世界ではないもっと悍ましいナニカである。冥府といえばいいのか、深遠なる闇の中で彼らは腐敗し朽ちた化け物を飼っている。人畜無害そうにしか見えない眼前の少女を明らかな敵意を持って睨み付ける空臣に対して、真面に受けたリデルは、圧倒され屈しないよう折れないよう破れたドレスの端を握り締めた。咄嗟に父の顔を思い出して、捨てかけていたプライドを必死に保とうとしていた。

「あなた達は狼さんなのかしら」

整った可愛らしい顔で相手を睨み返したところで、ダメージはない。時臣が見兼ねて、空臣を軽く嗜める。警戒心を一向に解く気配のないリデルに困り果てたらしい時臣が、ついてきてくださいと突飛にリデルの腕を掴んだ。突然すぎて痛いという悲鳴も出せないまま、無慈悲に身体が引きずられていく。影から獣達が、荒い息で傍観しているのが分かる。さも、我らを飼い殺している報いを受ければいいのだと嘲笑していた。

「我らに任せてくだされば、リデル様に害は及びません。従ってくださいますよね」

「元々拒否権は与えられていないのですけれどね、リデル様。輪廻様がひた隠しにするあなたの能力は、我らの側には必要だ」

無理矢理にぐいと引っ張られる手は、普段兄達がリデルを扱うのとは別の、無遠慮で思い遣りのない力加減をしていた。歩幅が違うというのに時臣は先程までの優しさも忘れて減速しない。良いようにリデルを従えないことに、顔には出さずとも空臣以上に苛立っているらしかった。リデルを見据える瞳が周囲の時を止める。物言わぬまま、蹂躙を仕掛けるための命令をする。黒赤黄青と変わる彩色を横目に、男達は薔薇園の外へとリデルを連れ出そうと躍起になっていた。

「良い子ですから言うことを聞きましょう」

「…悪い狼さんからは錆びた鉄の臭いがするって」

間髪入れずの応答。
狼に捕まった。

「ケーキの香りですよ」
「砂糖菓子の香りです」

虚言が揃う。
錆びた鉄の臭いが一層と濃くなった。獣達が影の中で出番を望んで、彼方此方と吼えている。唸っている。薔薇園の黒檀色した門の前で赤々と身体を濡らしたリデルと大差ない歳に見える少女が、ニタニタと口角を上げて笑っていた。途端、表に出てこなかった筈の恐怖がリデルを直接貫いた。屋敷から出て行ってはいけないと言った父の言葉を思い出す。今更もう手遅れだと黄薔薇の嘲り笑う声を耳にして、不安で押し潰されそうになりながら腕を掴んだままの時臣の表情を伺う。時臣も空臣も互いに一片の狂いなく恍惚の、それも特大級に幸せを感じ取った顔をしている。赤の少女は相変わらずニタニタと笑みを崩さない。異常に身がすくむ。

「時臣、空臣…ねぇ、あれは」

「リデル様、ようやく…ようやく、迎えが来たようです。さぁ、その無垢なる御身をこちらへ」

「我らが王の妾となるべきは純粋無垢を体現されるあなた様しかおられないのです。さぁ、早くこちらへ」

「何を…言っているの」

愕然とした。
狂乱する四つの瞳が笑う。異常を越えた光景を理解して、リデルは早くこの場から逃げ出してしまいたかった。存在したくはなかった。反響する声が頭に響いてくる。逃げ出さなければ。そうして焦燥の中で聞こえた言葉にまた幾度目かの絶望するのだった。大人にならなければいけないと耳元で誰かが言った。
聞きたくない。

「我らと共に新世界の母になりませう」
「我らと共に新世界の礎となりませう」

二人の声が交わる。
万象一切黒に染まる。
唐突に、馬鹿なリデルが無垢を殺した話はそこで終焉を迎える。なんの面白みもないよくある御伽噺。最後は王子様が助けてくれる上辺だけのハッピーエンド。音紬は突如襲った苦痛に目を覚まして、平静を取り戻すため微かな息を吐いた。書類整理がいつの間にか余計なことを思考するようになってしまって、現実に戻らなくてはと一人愚痴った。あの後、連れて行かれるものかと無意味な抵抗をしたのち過剰な危険防衛本能が働いて、リデルは獣達を抑えることが出来ずに暴走した。助けて助けてと無我夢中に周囲を飲み込んで、しかし加速する肥大を止められない。泣き声も掠れてようやく自我が復活した時、途切れ途切れの呼吸を繰り返し血塗れで己を抱き締める自身の兄を、愛するアゼルをリデルは目の前にしていた。自分を守るため胸に突き立てられた刃の痛みより、見るからに死にかけの弱々しい大好きなアゼルに塞き止めていた恐怖がどっと押し寄せて、嫌だ嫌だ死なないでと啜り泣いた。結局、リデルは己の弁護も許されず、危険動物扱いで父の手によって幽閉されてしまうのだけれども。弱くて惨めで本当に我儘な女だったと振り返れば思う。子供も取り上げられて、家族との接し方が分からなくなって、果てには自分自身すら維持出来なくなってしまった欠陥品。月光院にリデルと呼ばれることは嫌いではなかったが、己が"リデルではない"という差異に音紬は悩まされていた。誰にも打ち明けはしないけれども、思考するにリデルはあの薔薇園で死んでしまったに違いない。

「………おいしい…」

淹れたてのアールグレイに酔う。提出期限の迫った軍機密書類への押印作業にも飽きてきた音紬は、今朝摘んだばかりの黒薔薇を一輪手に取って花弁を一枚もいだ。普段真面目に執務をこなしているのだから、たまには五分くらいの予定にない休憩を取っても責められることはない筈だ。余計なことに思考を持っていくと終わる仕事も目処が立たない。終わらない。そろそろ訓練場に顔を出さなくてはいけない時間だと外を眺める。何処で屠ったか腹を満たせて、先刻まで熟睡していた獣達も群れて起きだした。何千年と経った今でも、自身の罪を責めて贖罪の日々を過ごす音紬は所謂ねちっこい性格だろう。既に誰かの赦しを欲しいと願う時期は越えてしまった。音紬が命を奪った罪の過去は、胸の刻印同様決して消えることはないことを自覚している。純粋無垢を歌っていた少女は、あの日からただの罪人と成り果てた。神殺しの罪を負った。月光院に抱かれても、子供達と戯れても、思い出すのは黒塗りの古傷一点。

ーーあぁ、結局そうだ。

リデルは壊れてしまった。請われてしまった。幸せになってはいけないのだという戒めが、元来の真面目な性格が心の臓に杭を打つ。薔薇の棘で傷付いた皮膚から滴る血は涅色をしていた。出来た子供だった。全ての罪から逃げるため、愛しい兄に会うため、母からの赦しを賜るために卑怯にも母と取引を行い左眼の代わりに力を得た。愛される度に思うことはいつだって二つだけ。


悪因悪果の沼
(幸福にも心付かない)


音紬は不幸にも幸せだった。




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