おはなし倉庫

▼2021/08/29:月光院 --長文

『……何故、お兄様だったの』





三頭狗の楔
(ぎらだく/ミュウ/あんりで)




空虚な世界。
じわりじわり、四肢が冥府の常闇に持ってイカれる感覚は、例えば奈落の深海に堕ちるようで、ゆっくりと確実に深層へと沈んで逝く。傍らで安穏と微睡みに勤しむ少女の細く柔らかな銀髪を、起こさぬようにゆっくりさらりと撫であげながら、刹那は逢魔が時の執務に身を投じていた。積み重なった書類を読み、判子を押すだけの単調で退屈過ぎる作業的な執務でさえ、大切な人の眠りを護りながらという代名詞が付いてしまうと愛しい時間へと変化し、気付けば悠久を望んでしまっている自分自身に刹那は些か苦笑を零す。自分が自分ではなくなる感覚に目眩がして、今まで作り上げてきた虚構が容易く崩れてしまうような錯覚に戸惑う。全ては、傍らに眠る少女が刹那にとってどうしようもなく、そして理由もなく、愛しいせいだ。次期冥王という重責も、暗く淀み恐怖に包まれた冥府の闇も、今の刹那には取るに足らぬ価値へと落ちる。父である輪廻にそんな話をしてしまえば、きっと侮蔑の目と屈辱的な言葉を贈られるに違いない。それでも、耳奥で絶え間なく聴こえる呪いや悲鳴、情念が、さながら歓喜と祝福の旋律に聴こえる程に流れる今この時が、ただただ愛おしかった。梳く銀髪を一束だけ持ち唇に当て、愛の言葉を贈ると世界樹の華の匂いが鼻腔を擽る。そうして、誰にも漏らせぬ想いを刹那は孕んでいる。少女に押し付けている。少女が、唯一無二の妹が、箱庭において完全無欠と称されている刹那の弱点だ。

「お顔がふにゃふにゃになりすぎてるワ、すぐに潰せちゃいそうネ」

恋情に浸っていると突然聞こえてくる声。顔をあげるとそこに在るのは、冥府には似つかわしい桃色の髪を束ねた艶美な魔女。いつもと変わらぬ純白のワンピースに身を包み、ニヤニヤと底意地の悪い、いやらしい笑みを浮かべて訝しげな刹那の顔とスヤスヤと眠る少女の顔を交互に眺めていた。どうせまた、テレポートをして無断で屋敷に入り込んだのだろう。遥華がこうして入り込む度に罰を与えられる家政達が気の毒でならないな、と溜息を吐いた。この暴君を止めるには死を覚悟しなければならない。不可能に近い事を家政達が成し遂げられる筈もないのだから。

「ようこそ、遥華様」

「どうもだワ、刹那」

「仕事は…と、貴方には不躾な質問でしたね。今度は入口から入って来てください、執事やメイド達が驚きますから」

「しらなーイ、あたしそいつら知らないもノ!どうなったって関係ないじゃなイ?ネ、だからあたしは好きなようにしちゃうワ。許さない輪廻が悪いんだから、怨むならそっちを怨めばいいのヨ」

簡単な話じゃないかと傲慢に嘲り笑う。生憎とこの女には礼儀を正す等といった、手間のかかる事を行うといった選択肢の思考を持ち合わせてはいないようだ。卑しく微笑む遥華という稀有な獣は、刹那の父親である『冥王』輪廻の片割れであり、箱庭を任された『太陽神』である。片割れという響きは運命共同体のように酷く美しく聞こえはするが、この箱庭では全くの別物。対局に位置しており、お互いがお互いを監視し、箱庭に対し不敬を行えば無情に切り捨てる為に存在している忌むべきカタチ。箱庭を最高のままに保つシステム。朔耶姫が作り上げた美しきこの世界は、陰と陽の太極神を持ってして御魂を削る事を命じ、玉座から決して逃れられぬよう楔を埋め込んでシステムを確立させていた。太陽神には瞳を与え、冥王には扉を与え、まるで病のように支配する。箱庭を裏切れば辿り着く先は死である。刹那はきっと、あと何百年もすればこの病に鳳朱と共に囚われる。そう、また感じ入って瞳を閉じた。
ところでこの遥華という最高神は、冥王が盲愛する少女とは違い、己の純潔を軽視している娼婦の身だった。夫としている獣でさえもその内に秘めたる本心を知らない。ただ箱庭のため朔耶姫のため、奉仕と悦楽に浸る狂女であると刹那は認識し誤差程度には軽蔑していた。御前会議においても、彼女は決して自分以外の意見には耳を傾けない。暴政だと叫ぶ者もいる。圧政だと嘆く者もいる。大抵それは、神ではなく罪人だけれども。少なくとも今の箱庭で、神籍に名を連ねる者の中で彼女に意見するものは、使徒か始祖くらいではなかろうか。最高神を失うということはそれ程までにデメリットが大きく、未だ頭と胴体が繋がったままの彼女が、この先死を迎える未来を刹那には描けなかった。
桃色の唇から低旋律が紡がれる。

「ねェ、あなたは何時までそうしてるつもりなノ?」

ぴたり、刹那の時が止まる。

「……どういう、ことでしょうか」

「あラ、さっきのは戯れだったのかしラ?あたし以外は見ていないから証人もいないわネ……ふフ、そんな怖い顔しなくてもいいじゃなイ。きっとカルマが知ったら怒るだろうけれど、それはそれで見てみたいワ」

「……最高神が覗き見を趣味としていらっしゃったとは存じ上げませんでしたね」

「えぇ、だぁーいすきヨ!!!………なんて、あたしはただ忠告しておいてあげてるだケ。そんな怖い顔しなくていいノ。刹那、あなたのその言動はいつか呪いに変わるワ。覚悟が無いのであれば即刻切り捨てておしまいなさイな」

それでもあたしは近親相姦って酷く綺麗だと思うけれどネ、と短い嘲笑を刹那に与える。刹那は続く言葉を紡げずに堪らず目線を背けた。遥華の瞳は全てを見透かしている。そう悟ると途端に重くのしかかってくる罪悪感が、刹那の心の臓をきりり…と痛ませた。覚悟はとうの昔にしていた筈なのに。

「してますよ、それくらい」

「そウ、ならもう何も言わないワ。ごめんなさいネ、余計なお節介をしてしまったワ」

輪廻はいル?と小首を傾げる遥華が、これ以上はおまえ達の仲に立ち入らないという意志を態度で示す。この女は何処までを知っているのだろうか…刹那は無言のまま、部屋の外、中庭を指さした。これ以上遥華との会話を続けていると自分の本心が暴かれてしまう気がして、不敬不遜な態度を無意識に取ってしまう。此方の感情等知らぬ存ぜぬなのか、遥華はありがとうと簡単に礼を済ませるとまた、テレポートで姿を消した。残り香に吐き気がする。

(鳳朱の、言っていた意味が分かるな)

女の残り香は白檀だった。
鼻腔を擽る不快な香りに刹那は堪らず顔を顰めた。男を惑わす香りではないからこそか、清廉潔白を感じさせる残り香の不快指数は高い。そして此処は薔薇香るヴィヴァーチェ邸、屋敷の何処に居ようとも届く香りは黒薔薇の、少し酸味の効いたモノ。禁裏には朔耶姫の、大樹の花の香りが満ちているため感じられなかったソレに刹那は初めて嫌悪感に近しい感情を抱く。これが幼なじみである無粋な男を、怨歌で絡め苦しめ続ける匂いなのだ、と。
穏やかな時間が終わる。

「……ん…、」

「おはよう、リデル」

「…………おにい、さ…ま」

大きく澄んだ瞳に映る自分が醜く思う。
微睡みつつも上体を起こし、刹那を真ん中に映すスカイブルーの瞳は、その汚泥に塗れた感情に疑問を持たない。自分を愛してくれとは決して願わない、言わない、そうやってリデルを己という存在に縛り付けたくはない。しかし言わずとも、刹那にはリデルから一番に愛されているという自負を持っていた。言動、仕草、感情全てに於いて、自分を愛しているのだという根拠の無い自負に縋っていた。あの水銀の海の中、刹那が彼女首をへし折り殺していれば、リデルがこの箱庭に生まれてこなければ、リデルという存在は幸せだったかもしれない。悲しみを知らず、穢れを知らず、純新無垢のままリデルが眠り続けていたのなら、刹那もこれ程までに狂おしい愛で掻き乱されることは無かっただろう。いつか決まった未来で彼は冥王として生きなければならない。彼女の元から感情と一緒に去らなければいけないと理解しながら、今この一時が心地よく狂おしい程に離れ難く滑稽で、心に海を作る。
頬に触れると温かかった。

「……夢を、見たの」

「どんな…?」

「アンお兄様が、……消えちゃう夢。助けてあげたくて、手を伸ばすのに…お兄様はこっちを見てくれなくて、…」

無理な話を言う。

「…私は何処にも行かない」

行けないのだ、と言葉を飲んだ。
彼女の中で、刹那は己を永遠に美化させていて欲しかった。リデルが屋敷にいる間、自分が何を行っているのかをこれから何を行う予定であるのかを教えるつもりは一切無い。優しい兄の幻想で死んでしまえと願っては、枯れぬ想いにゆっくりと目を細める。見つめ合う時間がリデルの脳裏に不安を横切らせたのか、視線を振り払うように小さく首を左右に振ると堪らず刹那に抱きついた。
薫るはユリか、ラナンキュラスか。

「っ、…どこにも行かないでお兄様……だめ、リデルは嫌…!ひとりぼっちになっちゃうもの…!!」

「リゼル兄様達がいるのに?」

「アンお兄様はリデルの特別だもの…!違うの、みんなとは違うんだもの…リデルは、リデルはお兄様がいればそれでいいっ…!」

これ以上はいけない。
刹那は立てた人差し指でしぃ…と軽くリデルの唇に触れ、言葉を遮断する。聞き耳を立て、誰も近くには居らず誰も先程のリデルの発言を聞いていないことを確認した。
ふぅ…、と息を吐く。

「……うん、私も。私もリデルが一番で特別だよ。他の誰にも君を渡したくはない。…私だけのリデルで、」

「ずっとよ、ずーっと」

リデルによって容易く、完璧に作り上げていた筈の兄の仮面を剥がされていく。遠く遠く、脳裏の奥底で崩壊の音を聴きながら、首に巻き付いた細腕に応えるようリデルの腰に手を回した。どちらともなく唇を寄せると微かに香る黒薔薇の甘さが胸を抉って、遥華の忠言が重く深く背中にのしかかり振り払っては身を焦がす。交わってはいけない感情が、こうして交わっていては様は無い。最悪自分は死んでしまうのだろうなと刹那は考えてはいたけれど、リデルに愛されていない世界では生きていても仕方ないと目を瞑る。底なし沼、とは言い得て妙で、殺されるならば父に首を落とされたいと願った。誰かを愛する事がこんなにも許されない世界ならばいつか滅びてしまえばいいと濁る紅眼は、薔薇を絡んだ少女を色鮮やかに補足して嘘偽りのない愛を紡いだ。どうなろうともきっと自分は彼女を愛したままなのだと。
冥府で感覚を失う日まで。


ハデスの揺籃
(悶え苦しむ生き地獄)


去れば死のみ。

「可哀想な星巡りネ」

魔女は狡猾に笑う。
残酷な運命ほど、楽。




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