おはなし倉庫

▼2018/09/02:穢雛と幸尋 --長文

『性善説信者ですか』






勧善懲悪意志

(セレビィ/トレーナー)





瞳に映る景色。
美しい銀の髪をした男が、すました顔で笑っていた。何処から監獄に入ってきたのだろうか。自分は部外者であるからお前がこの先死んでもこうして笑い続けてやるよ、と酷く心地のよい声が穢雛の脳内を蹂躙する。穢雛は穢れきっていた。穢れきっていたために男を払い除ける術も力もなかった。心地のよい声が耳障りに変わる前にどうしても、男を自分の墓から引きずり出さなくてはいけないということを理解し焦る。生まれながらの悪に生まれながらの善は勝てない。善を知っているからこそ悪は成り立つが、善は違う。悪を知らずとも成り立つのである。悪を知らなければ一層際立つのが善。次に穢雛が生きて帰ってきた時、悪を知っている状態では使い物にはならないのだ。穢れを受ける存在が、初めから穢れを知っていては何かしらの影響が出てしまうに違いないのだから。
囁きは罪。
そして愛憎。

「……ち、がうよ」

目覚めた。
見慣れない風景に頭がまだぼんやりとしている。幾度となく視る夢は現。幻にしたいところだが、そうもいかない。いけない。死ぬ前に体験した現実は、結局穢雛に影響を及ぼしてしまったのだから。時折彼女がそうして、穢雛に悪夢を見せてくるのはどういうわけか、まだ生きていたかったという無念の想いなのか、どのようにしろ馬鹿の一言で片付けてしまえるような話。都合が悪いことといえば、悪夢を視た後に全身に襲う激痛で、アシェリアの配合した特別な薬でしか収められないことだろう。穢れを受け入れる時とは違う、受け入れたくはないという痛み。そのうち心までもが傷む。

薬ク ス リく す り

さて今の穢雛には問題があった。記憶はもちろん飛んでいて、昨日は確かまた箱庭から脱け出してソトに繰り出し、遊び歩いていた筈だった。それからの記憶がない。酒を人の倍以上飲んで酔わない(そんな人間のことをなんと言ったか、前に幽雛に教えてもらったが忘れてしまった)体質であるから、酒を飲んで記憶が飛んだということはあり得ない。何しろ幽雛より強いらしいのだから。それで何故、こんな見慣れない部屋のベッドに押し込まれ寝ていなければならないのか不思議なこともあるものである。『不思議なこと』で片付けて仕舞える辺り、穢雛は落ち着いていた。落ち着いて、まずは目覚めの一杯にコーヒーでも飲みたいなどと暢気に考えていた。心臓に毛が生えているとは良く言われたもの。ベッドから出て、起きあがるとついでにシャワーも浴びたくなってくる。うん、と一回背伸びをして、他の部屋に誰かいるだろうことを予想して、穢雛は悠然と部屋を出たのであった。
そして出会う。

「……もう、いいの?」

少女がいた。

「…幸尋様、だ」

「おはよ、穢雛」

幸尋はポケモントレーナーらしく腰にボールを数個程セットして、数日前箱庭から出て行ったままの姿で穢雛を見詰めていた。穢雛はあまり幸尋という人物についてを知らない。こうして対面していることも奇跡に等しい。彼女は穢雛が生き帰ってくる前に倶利迦羅の反対を押し切ってソトへ旅に出ることを許されたらしいと聞いた。それでも月に数回は箱庭にきちんと帰還し、詰まらなさそうな顔をして玉座に座っているのだ。阿羅耶と呼ばれた人間神の生まれ変わり。箱庭を支配する少女。神を統べる神に対して、穢雛は考えを言葉にするのでさえ恐れ多い雰囲気に行き場がなくなり、ぐっと息を飲む。人を拒む威圧感が最高神と同等またはそれ以上で、恐怖という感情を実感させられた。幸尋は食事らしきものが乗っかったプレートを持っている。無愛想な顔付きのまま驚く穢雛を横目に部屋に入ってくると、机と対になっている椅子をひいて、さも自分のものであるかのように深く腰掛けた。おいで、と言われた気がして穢雛も部屋の中に戻る。

「ひろは別に穢雛を拾おうと思った訳じゃないの。龍が優しいからそう言ったのよ。龍にあとでお礼をしてあげてね穢雛」

「…はい」

静寂。
堪えきれない。

「幸尋様」

「なぁに?」

「…何故、女はいつまでも想いに執着するのでしょうか。俺はこの頃悪夢を視ます。視たくないのに悪夢を視ます。視せてきます。馬鹿馬鹿しいことです」

「そう…ね」

「俺はおかしいですか」

どうせなら、箱庭では話しかけることすら許されぬ神と対話が出来るならと穢雛は馬鹿馬鹿しい話をする。馬鹿馬鹿しいと思い込んでいる話をする。幸尋は返答を考えているのか目線を斜め下にやりながら黙っていたが、思いついたかのように穢雛をじっと見詰めると笑った。

「ひろもね、悪夢を視るの。毎年決まった日に。ひろが神様になった日、それからひろが大切にしてたモノが死んだ日。それが悪夢を視る日。ひろは神様なんか嫌い。素知らぬ顔で全てを奪っていった神様なんか大嫌い。……それでも、ひろが神様なのはたった一つだけしてくれたお願いだから。仕方ないの」

「…お願い」

「ひろは、あなたを知らない。だけど昔から知ってる。ひろもね、馬鹿馬鹿しいとは思うけれど想いに縛られていることを愛しいとも思うの。善だけを知れば、あなたは決して悪にはならない。恐れているのはきっと、あなたが悪に染まることなのね」

響く笑い声が、あの日の男の笑い声に重なりぐちゃぐちゃになる。襲う既視感に目眩がする。幸尋の言葉に穢雛自身が答えを見つけてしまっていた。悪に染まることで使い物にならなくなることを恐れていたのかもしれない。彼女の願いに今の今まで向き合わなかったせいかもしれない。馬鹿馬鹿しいと思い込みたかったのかもしれない。神様である自分が虚しかったのかもしれない。愛していた事実を受け入れたくないだけなのかもしれない。幸尋はまだあどけなく笑っている。頭を乱雑に掻き乱して、いくつもいくつも脳裏によぎる考えを整理しようと躍起になった。吐きそうだ。

「……ね、穢雛はひろと違って純粋でいなくちゃいけないから苦労するのよ。大丈夫、落ち着いて。昨日倒れたのもまた一つ穢れを溜めちゃったからだもの。あなたは正しい。あなたは悪じゃない。善なの。それで良いじゃない。だから考えることを止めちゃおう」

あなたを愛してあげられるのはひろだけよ、と幸尋が言う。さながら洗脳的に言う。あの日のように心地のよい洗脳。頭を一定速度で撫でる手は、なんと小さくなんと大きなことだろう。彼女のペースに穢雛はまんまとハマっていく。
愛しい神様の御手。

「穢雛は穢雛よ。ただそれだけの存在。おかしくなんてないから、ひろは笑わない。誰にも笑わせやしない。善を知っているからこそ悪は成り立つよ。善は悪を知らなくても成り立つけど、善のまま死ぬなんて人間誰しもあり得ない。仕方ないことを受け入れられないのなら、ひろが代わりに受け入れてあげる。だからほら、泣かないで」

「……俺、は」

「ひろが許すよ」

頬を包む掌の温もりが、安心感に穢雛を落として逃がさない。底無し沼のような懐に沈んでいく。幸尋が本音を引きずり出すのがずば抜けて上手いわけではない。全てへの底知れぬ愛に溢れすぎて、全ての人間が溺れてしまうのだ。息が出来ないままの穢雛は誰かの呼吸を待っている。瞳に映る少女は確かに神だった。

『善ト悪ニ潜ム』
『死ヘト続ク生』
『クスクスクス』

クスクスと笑う声はまだ響いている。そのうちに耳障りとなってくるだろうに穢雛は構わなかった。幸尋という神に一歩近付いた気がしたが、いつか終わりの日には後悔するのだろう。女という生き物はやはり馬鹿馬鹿しくて理解不能だ。まだ見ぬ朔耶も輪廻した遥華もそしてこの幸尋も、既に穢雛には恐怖の対象とでしか見なせなかった。彼女達は死んだ穢雛が知り得なかった『全ての悪を知り自ら悪に身を置く全てを受け入れた善』なのである。良いことを勧め悪を懲らしめる、そんな勧善懲悪を笑顔でやってのけた。穢れを溜め込む穢雛には恐怖しか残さない。
これが神か。
死にたくない。


死ぬことの意義
(逃げられぬ性)


悪を殺す善。
善とは一体何か。





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