▼2018/09/02:倶利伽羅 --長文
『母の愛は柔らかかった』薬石之言
(ホウオウ/ギラティナ/暗)
(ホウオウ/ギラティナ/暗)
『噎セ返ル白檀』
『濁ル曼珠沙華』
『妖艶ニ笑ム女』
(可愛いネ倶利迦羅)
踊る四肢に強張る身体が恐ろしい悪夢として記憶を垂直に刻んでいく。為す術を持たぬ訳ではなくただ己の弱さ故に神の力に屈するのみ。これは夢であり現実ではなく、嫌に鮮明に刻まれた記憶がただ過ぎ去るのに陳腐な我慢をしていれば良い。縛り付けられた身体の心の痛みを受け流さねば倶利迦羅自身の世界は壊れてしまうだろうか。血で溢れ溺れ腐り果ててしまうだろうか。
白檀の香りが嫌いだった。コレは倶利迦羅自らを動かぬ石にする。泣き喚くことも許されぬ。女は香りで倶利迦羅を縛り付けて離さない。
曼珠沙華が嫌いだった。コレを見る度に女の影を思い出し、記憶が薄れて終うのを拒む。女は花で倶利迦羅の意識を無に帰す。
「倶利迦羅」
冷ややかな手に反応し開けた瞳は、ただ働かぬ頭の芯までを凍らせた。夢との誤差を生む現在の名はいくらか多少のズレと齟齬を生み出し、目の前にいる男が誰であるかの認識を鈍らせる。鳳朱が倶利迦羅へと移行され何千年を経た今でも、未だに昔の名が己を縛るのは解けぬ母親の呪いだろうか。否、そうとしか考えられない。倶利迦羅にとっての母親は絶対的で不可侵的で服従せねばならぬ存在あって、魔女として暴君として恐怖を齎す神にではなく、麗しき哉聖女として命を捧げていた。独特の香を放ち、曼珠沙華を手折り血に笑う淫靡な聖女が歌い紡ぐ悪夢は、まさに精神汚染に等しい。
浮上する意識はやがて鮮明に、且つ克明に今が今であることを思い出させ、そうして鉄の鎖で雁字搦めにしたままの記憶の小箱を深層心理の途方もない濁った海に投げ捨てた。同時に現実に引き戻された意識から荒い呼吸と冷や汗が、現在に至るところの不安を上乗せする。倶利迦羅は上体を軽く起こしてぐしゃぐしゃと髪をかきあげ、言い知れぬ不安や恐怖感をやり過ごすしかない自身に嘲笑した。傍らの月光院が気遣うように視線を送る。連日の疲れで、うっかりと夢現にのめり込んでしまった。気持ちが悪くどうしようもない嘔吐感をやり過ごしてから、倶利迦羅は月光院に言葉を発した。
「……っ、はぁ…どれくらい寝て、た…」
「一刻程度」
「…いやはや、寝過ごしたね。起こしてくれれば良かったの、に…君は酷いよ。いやいや、全く」
「遥華様の夢なら仕方がない」
卓上に散乱している書類をかき集めていた手が止まる。どういう意味かと恨みがましく睨み付ければ、そういう意味だと涼しい声がした。ついで寝言で母親の名を呼ぶ神などお前くらいだろうと茶化されてしまい、倶利迦羅は冷えた頭で我ながら情けないと溜め息を吐く。ここ数ヶ月の、ろくに睡眠も取らず薬すら服用せずの生活は体に何かしらの負担となり、久しく見ないで済んでいた悪夢すらをも奥底から釣り上げる始末。同等な条件で働く月光院には自分の弱さが後ろめたく無様で、倶利迦羅は続けて二度目の溜め息を吐いた。
「…もう良い年した大人のくせにまだ縛られている自分が憎いよ」
どう表現すればよいのか思いつきはしなかったが、そうとだけ言える。トラウマを植え付けるような愛情がとても重く苦しかった。しかしそれに縋っていた過去を消せないのも事実。
「貴様はまだ子供だろう…相変わらず己を偽ることばかりに精を出す。本来なら華陀様に診断くらいはしていただくべきところを」
「してもらったってどうしようもないことぐらい分かるだろうに…君ね、俺が偽ってるって毎回言うけれど、自分を偽って生きてるんだからおあいこだよ。……うん、君に言う権利はない」
「義務はある」
「浅ましい屁理屈だ」
月光院から差し出された紙を受け取り目を通しながら、冷え切った紅茶に口をつける。口内に広がる甘い砂糖の溶けた味が何となく落ち着きをもたらして、倶利迦羅はようやく月光院が、何故ここで執務をしているのかという考えに至った。月光院は倶利迦羅と執務を共にするのを極度に嫌がる。実質、顔を合わせる機会は御前会議か重要機密事項を伝え合うその時のみに限られていた。それがどうして、今ここにわざわざ冥府からアンティークな机を持ってきてまで執務をするのか。交わす言葉が見当たらないまま、何気なく机の隅にある水盆に顔を映せば、情けなく虚ろな瞳が静寂に寄り添い己を見詰めていた。揺れる水盆はすぐに世界を変え、ただゆっくりゆっくりと斑尾に色を重ね合わせて消える。そうしてしばらく、全ての混沌世界を見やると先程の疑問を月光院に対して言葉に紡ぐことにした。
「ねぇねぇ、なんでここにいるんだい。もしかして君、俺が心配だったとか?……俺ってばモテ期かね」
「阿呆を言うな。貴様の判がなくば、重罪を負った死刑囚を冥府の先に送ることが出来ん…時間を潰すに執務は都合がいいだろう」
「結局仕事かい…」
仕事の鬼だね、と毒混じりに呟きながら書類に指押しの焼き印を入れる。ぺろりと焼ける指を舐めれば肉と血の味がするのは、錯覚なのか夢心地が抜けきらない。感慨に浸り母親との忌まわしい記憶を孕む脳を身体が拒絶し、投げ捨てた筈の小箱を引き上げようと倶利迦羅を狂わせた。たまらず引き出しの中から大量に入った薬を掴んで、水なしで一気に飲み込む。麻痺する脳を抑える姿は、我ながら痛々しいと倶利迦羅は嘲笑する。
水盆には夢の残り香。
かつて己と同等に生死を弄んだ月光院が、今は倶利迦羅の裏を映す鏡として作用し、重なる嘲笑の声が異様な空間を生む。終わりがないに等しい寿命の中で倶利迦羅は、母親に呪われながら生きて死ぬのだろう。月光院の嘲笑はきっとそれを嘲り笑うに近いのだ。
散らばる残骸。
(君の屍体と俺の屍骸)
薬物中毒のワタシは神様。
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