放棄住宅街

 夜の警戒区域の住宅街はいつも静かだ。廃墟散策はやはり夜に限る。なゆたは一人で換装もせずに警戒区域を歩いていた。住む人がいなくなった家々はその内に虚無だけを残して、静かに朽ち果てるのを待っている。
 しっかり形を残している家屋もあれば、近界民ネイバーとの戦いに巻き込まれて、半壊している家屋もある。誰かの旋空孤月できれいに塀を斬られた家に入ることにした。旋空孤月は塀どころか庭に面した掃き出し窓も破壊していて、家の中に入ることができた。普通に不法侵入だが、気づかれなければ大丈夫だ。世の中は大体、気づかれなければ大丈夫でできている。
「おじゃましまーす」
 返事をする者はいないし、必要ないが、いつもお邪魔するときは声をかけるようにしている。家の中は比較的きれいだ。家具はまだ残っている。いくらボーダー隊員を連れて行けば家に帰ってこられると言っても、家具までは持っていけないのでどの家も家具は残っている。
 壁に忘れられたのか、子どもの絵が貼られている。大きな水色の長方形の上に紺や黄色や赤などの棒人間が散らばっていた。多分これはプールの絵だ。この警戒区域内にある旧三門市民プールだろうか。次に隣の絵も拝見する。描いた本人らしい男の子とお母さん、お父さん、弟とイヌがみんな、笑顔で並んでこの家の前に立っている。なんでこの絵を置いていってしまったんだろう。せっかくの家族の肖像画なのに。
 ここが警戒区域になってもう四年経つ。この絵を描いた子どもも大きくなっていることだろう。今はどこで暮らしているのだろうか。今も家族全員で仲良くやっているのだろうか。警戒区域外のどこかに住んでいるか、市外へ引っ越したか、近界民に連れ去られたかのどれかだ。どれであっても健やかに生きていて欲しいものだ。
 放置されて久しい、砂埃まみれのソファに座り、持ってきたコンビニの袋から炭酸ジュースとアイスを取り出した。もちろんゴミはいつも袋に入れて持って帰る。それが廃墟散策のマナーだ。
 天井には派手な大穴が空いていて、月が見えた。どんどん欠けていくいい月だ。チョコミントのアイスを堪能しながら、月を眺める。なんと贅沢なのだろう。あの絵を描いた子どももこのソファに座ってアイスを食べたりしたのだろうか。
「おー、やすきちやん。こんなとこで何してるん?」
「オッキー!」
 大穴から声が降ってくる。私服姿の隠岐がこちらを見下ろしていた。何してるん? とはこちらも訊きたい。
「廃墟散策の休憩中。こういうとこでぼーっとすんの、安らぐねん。今日はええ月も出てるしな」
「おもろそうやん。おれも混ぜてや」
「ええよー」
 大穴から隠岐は軽やかな動作で飛び降りてくる。二階建て家屋の屋根から飛び降りるのはトリオン体でもないのに危険ではないだろうかと思わないでもないが、一度二階に降りてから、次に一階に降りてくる。トリオン体で慣れているせいか、二階から飛び降りるくらい造作もないことらしい。それでも脚に衝撃がいったのか「イテテ」と膝を押さえる。
「折れた?」
「折れてへん。けど生身で飛び降りるんは無謀やったわ。生身でもグラスホッパー欲しいな、これは」
「オッキー、アホやん。でもわかる。ウチもメテオラで吹っ飛ばしたいときあるもん、生身のときに」
「物騒すぎやろ。どんなときやそれ」
 なゆたの隣に座りながら、隠岐はふくらはぎを撫でる。無謀な挑戦をした友人のためにコンビニのビニール袋からコンビニスイーツのクレープを取り出して渡す。
「まあ食べて食べて。あ、ゴミは袋に入れといてな」
「おー、おおきに。廃墟散策の流儀やな」
「世間の常識やろ。そこらへんにポイ捨てしたらあかんのは」
「なんでお前さっきから倒置法やねん。穂刈ポカリ先輩か」
 クレープの袋を開けながら隠岐が笑う。
「ほんで、オッキーは何しとったん?」
「おれ? せやな、誰もおらんとこでぼーっとしたくなるときってあるやろ?」
「うんうん、わかるわかる」
「本部の自分の部屋おっても、近くにみんなおるし、なんか落ち着かんから、たまに一人でこうやって散歩してんねん。部屋にスマホ置いて。一人の時間って必要やんなあ。トノの気持ちわかるわ」
 はあ、とため息を吐いてから、隠岐はクレープをかじる。なるほど。隠岐の連絡がつかない時間というのはこういうことだったようだ。
「へえ〜、彼女やなかったんや」
「何回もちゃうって言ってんねんけどなあ。おれモテへんし」
「モテへんのはウソやろ。虚言やめや」
 そこから各々アイスとクレープを食べるだけの沈黙が続く。生駒隊結成時からの仲だからか、沈黙でも特に辛くない。二人でぼーっと月を眺める。さっきよりも少し西へ傾いている気がした。
「やすきちはなんで廃墟散策が好きなん?」
「オッキーみたいに一人になるんが好きっていうのもあるけど、人がおった痕跡からそこにおった人がどんな生活送ってたか想像するのが好きやねん。この家やったら、ほら、子どもの絵が飾ってあるやろ? お父さんとお母さんとぼくと弟がおってんな〜、とかプールで遊ぶのが好きやったんやろうな、とかな。その辺、三門市に来て良かったかも。いっぱい放棄されてる家あるし」
「へえ〜、なるほどなあ」
「この家の人らもどっかで元気で生きてるんかなあ」
「三門市の被災住宅におるか、三門市を出てるか、近界民に連れ去られたか、殺されたかやろなあ」
 なゆたがぼんやり呟くと隠岐がしみじみと言う。殺されていなければいいと思う。生きてさえいればそれなりになんとかなるものだ。
 なゆたや隠岐のようなスカウト組は第一次侵攻を経験したわけではない。家族を喪ったわけでもないし、家を壊されたわけでもない。だから、近界民に強い恨みを持ち、近界民を倒すことに強い執念を持っている三輪の気持ちは解らない。
 雇われの傭兵のようなもので防衛任務でたくさん倒せば給料が上がる。ただそれだけの存在だ。B級にはA級のような固定給はないので、厳しいときは防衛任務のシフトを増やすこともある。
「もう誰もこの家に帰って来んのやろな。警戒区域やし、近界民もいなくなる気配もないし。他の土地で新しい生活を始めてしもたら、もうこんな家いらんもんな。初めは帰りたいって思ってても、段々忘れて、どうでもよくなる。そういう放棄された家の侘しさみたいなんを感じるのがええんかもしれん。廃墟散策」
「……うーん、いらんってことはないんちゃうか? あの絵描いた子どもも新しい生活の中でたまにこの家でのことを思い出したりするんちゃうかな。ほんで、ちょっと帰りたいなって思ったりして……心の故郷? みたいなもんになるんちゃうやろか。勝手な想像やけどな。まあ、おれは大阪の家も家族も健在やから、奈良坂とか三輪とかの気持ちってあんまり解らんねんけど」
「心の故郷なあ……オッキーって存外詩人やんな。でも、ウチらってホンマ、部外者やねんなってつくづく思うわ。ウチも実家も家族も全然元気やから、たまにちょっと疎外感みたいなん感じるときはあるな〜。当たり前のことやねんけどな。でも、他所から来たお前にはわからへんやろみたいな態度取られたときはちょっと腹立ったな」
「やすきちが腹立つって相当やん。あ、おれ、そろそろ帰るわ。クレープごちそうさん」
 隠岐はそう言って、袋の中にクレープのゴミを入れるとだいぶ脚も回復したのか跳ね上がるように立ち上がった。それになゆたも続く。まだ飲み切れていないペットボトルの蓋を閉めて、アイスのゴミを袋に入れた。
「ほな、ウチも帰ろ。そろそろ帰らな、みんな心配するし」
「せやせや。曲がりなりにも女の子やねんし気ぃつけや」
「曲がりなりにもとは失礼な」
「明日もウチ来るんか?」
「学校帰りに本部行くし、行くよ。真織にもイコさんにもオッキーにもカイにも、一応、センパイにも会いたいし」
 生駒隊を離れた身であるし、もう生駒隊を離れてからの期間の方が長くなったが、あの作戦室には色んなものを置いてきた。たくさんの思い出もある。かといって、支部での生活に文句があるわけではない。むしろ、とても良くしてもらっている。
「あの作戦室がこっちでのウチの故郷みたいなもんやから」
 隠岐の話を聞いてから、故郷という言葉がしっくりくる。「さようか」と笑いながら、隠岐が手を差し伸べてくれた。こういうさり気ない優しさが彼のいいところだ。
「オッキー、マリオとなんか進展あった?」
「ぼちぼち」
 掃き出し窓から外へ出るとくだらない話をしながら、警戒区域を歩く。
 相変わらず少し欠けた月が煌々と輝いていた。
 
210503
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