このままでいたい

 お腹が痛くて、どこか調子が悪い日はさっさと帰って寝た方がいいんだろうけど、ここにいるのが楽しくて、多少体調が悪くてもつい入り浸ってしまう。基地の中ならトリオン体に換装もしているし、その間はいくらランク戦をしても平気だ。
 生駒隊の作戦室にいるのは楽しい。いつも、二、三人くらいはいて、だらだらしょうもない話をしていたり、モニターで映画を観たり、奥の部屋でゲームをしたりしている。まるで、秘密基地のようだ。その存在はまったく秘密ではないのだが。
 元はこの部隊にいた身として安喜なゆたもよくそこで寛いでいた。オペレーターの真織は幼馴染の親友であるし、他のメンツも三門市にやって来た頃からの知己だ。なゆたと入れ替わるようにして入ってきた海も楽しい遊び仲間である。しかし、さすがにランク戦前に行くことは避ける。それくらいの分別はあった。
 ほぼ毎日、思う存分個人ランク戦をした後に生駒隊の作戦室で聞き慣れた関西弁を聞き、時間になれば支部に帰る。なゆたの放課後はいつもこんな感じだ。
「もう六時か」
 なんとなしにスマートフォンで時間を確認すると時刻はすでに午後六時であった。まだ外は明るいだろうが、あと一時間もすれば支部の夕食の時間だ。
「支部の晩ごはん、七時からやろ。そろそろ帰らなあかんのんちゃう?」
「うん。帰らなあかんか……。はあ〜、もうちょっとおりたかったなあ」
 定位置であるオペレーターデスクから真織が声をかけてくる。彼女は幼少期からどこか抜けたところのあるなゆたを姉のように引っ張ってきた。これもその一環だ。いつも本当にしっかりしているな、と思う。
 なゆたはンッと伸びをすると無造作に置いていた学校鞄を拾った。拍子に鞄のポケットに入れていた自転車の鍵が落ちた。
(換装、解きたくないなあ)
 なゆたは今日、すこぶる調子が良くなかった。学校から基地まで自転車で来たが、乗って帰れる自信がない。ぼんやり鍵を見つめながら、一つため息を吐いた。
「どないしたん、安喜ちゃん」
 いつもと様子が違うなゆたに気が付いたのか、イスに座ってギターのコードを確認していた生駒が顔を上げた。
「イコさん……なんか……あんま帰りたくないな〜って思て」
「なんや、支部でいじめられてるん? 安喜ちゃんの元隊長として俺が一発ガツンと言ったろか?」
「いや、そういうわけやないんですけど……。なんか、あんまり換装解きたくなくて」
 どう説明したらいいかわからなくて、なゆたはそれきり口を噤んでしまう。
「何やの。はっきりしぃや」
「今、ほら、アレになったばっかりやから、あんま調子良うないねん。生身やったらお腹痛くてたまらんし、なんやったらちょっと頭も痛い」
「それやったらこんなとこ来んと支部で寝とったらよかったやん」
 真織が何かを言う前に、アレが何なのか見当がついたらしい隠岐がスマートフォン片手に痛いところを突いてくる。まったくもってその通りである。
「せやねんな……。でも、あとちょっとで孤月も六千ポイント行きそうやから稼いどきたくって……」
「なんや知らんけど、そんなん元気ないときにせんでええやろ。はよ帰りや」
「あ、ハイ……まったくもってその通りです……」
 次は水上が刺してくる。生駒以外の関西人の男は容赦がない。水上はイマイチ理由を分かっていないようだから、知れば多少たじろぐかもしれないが、基本的に主張は変わらないだろう。
 俯いているなゆたの顔を覗き込みながら、南沢が訊ねてくる。
「でも、なんで調子悪いの押してまで来ちゃったんすか? やすきち先輩。換装解いたら辛いんすよね?」
「うーん、やっぱり、みんなに会いたいから……かなあ。ここ、めっちゃ居心地ええねん。みんな関西人やし、いつも絶対誰かおるし、寂しい気持ちにならんから」
「それ、わかるっす! おれも好きなんすよ。みんないるし、遊んでもらえるし、たまに宿題も手伝ってもらえるし……ここにいるの、楽しいっすよね!」
「安喜ちゃん、海……嬉しいこと言うてくれんなあ」
 南沢が無邪気に笑い、生駒が涙を拭う真似をする。この態度、多少は隠岐と水上にも見習って欲しいものである。いや、彼らも心配をしてくれてはいるのだが、単に言い方の問題である。
「……まあ、ウチもそういう我慢したい気持ちはわかるけど、あんた帰れるん? ウチは本部やけど、あんたは支部やで」
「……換装解いたらチャリ乗れんかも……」
「それ、重症やん。どんな病気やねん。支部から迎えとか来てもらえへんのか?」
「……あんまり迷惑かけたないです」
 同じ支部でも玉狛などは木崎が年少の隊員を車で送り迎えしたりしているらしい。なゆたがいる支部にも免許を持った成人隊員はいるし、言えば迎えに来てはくれるだろうが、なんとなく迷惑はかけたくなかった。
「せやったら、俺が送るわ。安喜ちゃんのチャリはあんねんやろ? 俺が安喜ちゃんのチャリこいで、その後ろに乗ったらええ。帰りは通路から歩きで帰るわ」
 そこで名乗りを上げたのが生駒であった。思わず面食らって、なゆたは首を横に振った。そんなの、申し訳ない。
「えっ、悪いですよ」
「気にせんでええ。俺は元隊長として当然のことをしとるんやからな」
「イコさん……」
 たとえ、なゆたが隊を離れていたとしても、生駒はまだ、彼女を隊員として見てくれている。その思いやりが嬉しかった。
 なゆたが隊を離れるとき、色々と精神的にダメになっていたが、そのときに「ランク戦しんどいんやったら、支部に異動したらどうやろ。別にやめんでええやん。戻りたいときにまた本部に戻って来たらええ。安喜ちゃんが大丈夫になったとき、まだ俺らが四人部隊やったら、また一緒にやろうや」と言ってくれたのは生駒だった。
 なお、なゆたの調子が戻る前に南沢が加入したため、彼女の帰る場所はなくなったが、なゆたも生駒もそれでいいと思っている。なゆたは支部に所属して、B級ランク戦は観戦だけにとどめている今の暮らしに満足しているし、生駒隊は南沢が加入してから上位常連になった。これでよかったのだ。
(この人の、こういうところがホンマに好きやな)
 生駒の顔を見ていると胸が温かくなった。なゆたの表情の変化に気づいたのか、真織が笑いながらその背中を叩く。
「良かったなあ、なゆた。イコさんに送ってもらい」
「イコさん、重なったら、振り落としてくださいね」
「安喜ちゃん一人くらい、俺は全然大丈夫やで!」
 遠慮がちになゆたが言うと生駒は真顔でグッと親指を立ててくる。なんとも頼もしい。この口調と顔が追いついていない感じもたまらなく好きだ。
「やすきちが重かったらマリオとかどないなんねん」
「やかましいわ」
「気ィつけて帰れよー」
「元気になったら、おれもやすきち先輩と孤月でランク戦したいっす!」
 同い年の二人が茶々を入れてくる横で水上が気だるげに手を振り、南沢は元気に飛び跳ねていた。
「ほな行こか!」
「はい」
 仲間たちに見送られ、二人は駐輪場へと向かった。


 夜の三門市の旧市街を自転車で走る。私服姿の生駒の背に抱きついているとずっとあった腹の痛みが多少なり和らぐような気がした。換装体ではない生駒本来の体温だ。すごく温かい。生身でここまで触れ合ったのは初めてなので自然とドキドキしてしまう。
「安喜ちゃん、調子どない?」
「大丈夫です。なんか、イコさんに抱きついてたらちょっと和らいでる気ィします」
「……さようか。そら良かった」
 生駒は水上のように背がずば抜けて高いわけではない。平均身長ほどだ。それでも、なゆたにとっては見上げるほど高いのであるが。
 なゆたは生駒のこう、筋肉やら何やらがギュッと詰まっている感じが好きだ。男らしい太い眉に、達人にふさわしい渋いいぶし銀を思わせる顔つき。チマチマ行くのは性に合わないくせに繊細さを要求される生駒旋空を得意にしているところも好きだ。他にも好きなところはたくさんある。
「支部の晩ごはんなんやろな」
「何やったかなあ。うーん、確か、エビフライって言うてました」
「エビフライ、ウマそうやな。俺も今日の晩ごはん、エビフライにしよかな。でもなんか真似してるみたいやな。エビマヨにしよか」
「ええんちゃいます? でも、エビマヨなんか食堂のメニューにありました?」
「あれ、なかったっけ?」
「どーやったかな……うーん、もう忘れちゃいました」
 そしてこのどうでもいい話を振ってくるところも大好きだ。ランク戦の前、五秒で終わりそうな作戦会議の後はいつも自分にあったどうでもいい話を聞かせてくれた。いくら緊張していてもその話を聞けば、不思議とランク戦の間も平常心を保てたものだ。
「そうそう、安喜ちゃんに俺がこないだ、公園でギターの練習しとったら職質された話した?」
「ンフッ……! なんすかそれ、めっちゃおもろそう。まだ聞いてないです。聞かせてください」
 生駒のどうでもいい話がいきなり出てきて、思わず噴き出してしまう。それがなんだか気恥ずかしくて、顔を見られてもいないのにその背中に埋める。シャツ越しに生駒の汗のにおいがしてきた。不思議と臭くはない。
(ずーっとこのままでおりたいなあ)
 自転車は夜の三門旧市街を相変わらず駆け抜けている。もうすっかり、腹と頭の痛みを忘れてしまっていた。


end