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授業の終わりを告げるベルが鳴る。それが金曜日最後の授業かつ退屈な座学となれば喜びもひとしおだ。それは釘崎も例外ではなく、あくびとともに大きく背中を伸ばす。
隣が何やら騒がしい。隣を見れば、伏黒が何やら忙しなく道具を片付けている。ふと、広げられたままのノートが目に入った。眠気と戦った一時間だったから、あとで板書を写させてもらおう。そう思って軽く覗き込めば、ノートの右上。絶妙なバランスでギリギリ犬と分かるラクガキが。
「へー、あんたそういうのやるタイプだったんだ」
「いいだろ別に」
「あ、伏黒! 行く前にノート貸して!!」
「ほらよ。じゃ、またな」
ぶっきらぼうで無愛想なのはいつも通り。だが、釘崎も借りる予定だったノートは乱暴に虎杖に投げられ、そのまま伏黒は教室を出て行った。妙に慌ただしい。ノートだって、いつもは貸さずに写真を撮らせるだけだというのに。荷物を持っていなければ便所を疑った。
「何? なんであいつあんな急いでんだ?」
「釘崎釘崎。今日! 何の日?」
「……あーー!! 今日か!」
第3金曜日。それはとても特別な日。
伏黒は毎月、外泊届けを提出して恋人に会いに行く。
・・・・・
それは数年前の話。中学生の伏黒恵は非常に退屈していた。わざわざ教室を移動してまで行われる古典の授業。担当教師は初老で親父ギャグを連発。古典的雑学は下ネタまみれでくだらない。自由席なこと以外の長所を見つけられないほどつまらない時間だった。
広い教室は空席が多く、いつもは窓際後方の席を獲得する。だがその日はあいにく掃除当番のミスでそこら一帯が水浸しだった。誰も好き好んで靴底を湿らせたくはない。伏黒も別の席に移動した。
当然の事ながら、場所が変わったからと言ってつまらない授業が面白くはならない。しかし眠れば優等生な義姉に叱られる。
ふと思いついて、机に犬の絵を描いてみた。モデルは玉犬の白。まあ、悪くはないのではないか。伏黒は美術に関しては自己評価が高かった。たとえ五条悟に下手の横好きと評されていようと、ロバを描いたと思われようと、伏黒にとってこれはとてもいい絵なのだった。
しばらくして時計を見た。あと十分。クソジジイは本題も忘れ、和泉式部とその日記がいかにエロチシズムかを語っている。もう、いいのではないだろうか。今日は放課後に呪霊祓除任務が入っている。必要な休息だ、と心の中の義姉に言い訳して目を瞑った。
──その結果。彼はあの力作を消し忘れるのである。
・・・・・
数日後。ああまた古典の時間かと肩を落とす伏黒は、その時になってやっと己の失態に気づいた。サボろうかと思っていたため時間はギリギリ。最後に教室に駆け込んで、前回と同じ席に座れたのは完全に運が良かった。
そしてペンではなく消しゴムを握ったその時。目に入ったのは犬の絵、だけではなく。
←かわいい
────誰だ。
犬の絵の下に添えられたメッセージ。クセのない字で書かれたそれは明らかに自分の絵に向けられていた。無視してもよかった。別に誰だろうとどうでもいい。でも一方的に落書きを見られたのは癪だった。犬を綺麗に消して、メッセージの下に自分も書き足した。
←かわいい
←お前も書け。
しばらくしてまた古典の授業がやってきた。三回連続で出席するなんて初めてじゃないか? と自分を笑いながら例の席に向かう。何かあるだろうか? 何もなければそれはそれ。ただの暇つぶしが終わるだけ。
返事があっても面倒くさいだけだろうと言い聞かせつつ、少し期待しながら確認すればそこには下手な猫の絵があった。足が五本描かれている。いや、おそらくひとつはしっぽなのだろう、ただそう見えないだけで。
「にゃんこー!」と、間の抜けた文字にクスッと笑った。
←足多くね?
←しっぽですぅぅう!!!
←なるほど、わからん
←悔しいからもう一回! 勝負だ!
←何描いてんだよ
←どう見てもアフリカゾウでしょーが!
←ゾウの耳がどうしてトゲトゲなんだよ、ロックバンドか
←え、カッコよくね? そういうあんたは何描いたんだよ
←うさぎ
←まじで……? なんで耳のところに目があるの……??
変に意地を張ってしまって、何故か続いたこのやり取り。最初は憤ることもあった。でも、今ではあの古典の時間が待ち遠しくなっていた。
相手が誰かは分からない。伏黒の場合は古典だったが、この教室は他の学年、他の授業でも使う。だがわざわざ知ろうとはしなかった。それが暗黙の了解であるかのように、二人は授業の話題も互いを探る質問も書かなかった。ただひたすらに絵を描いて感想を書いて、くだらないやり取りを繰り返した。
・・・・・
しかしそんな日々は唐突に終わりを告げた。古典の教師が転勤した。どうやら女子更衣室にてやらかしたらしい。人間性を疑う人だったがそこまで酷かったとは。どこまでもどうしようもない男だ。
新しくやってきた教師は教室を移動したりしなかった。あの教室自体も変態教師がメインで使用していたため避けられるようになった。
そうして、伏黒と名前も知らないそいつとの交流が復活することはなかった。
別にどうでもよかった。新しい教師の古典は興味深く、飽きることはなかった。そもそもの発端が暇つぶしだったし、自分たちは名前を知ろうともしなかったのだ。騒ぎ立てて無理に続ける気もない。どうでもよかった。あの交流が途絶えたところで呪霊は消えないし津美紀は目覚めない。なのに。
それなのに。
伏黒の胸にはぽっかりと穴が空いてしまった。
・・・・・
卒業式を迎えても、伏黒は泣かなかった。保護者席に座った五条が鬱陶しすぎて涙が枯れたとも言えよう。特に親しかった人物もいないし恩師もいない。さっさと帰ろうと教室を出れば、不自然な人だかりが目に入った。
問題ない。反対側から出ればいい。そう思ったのに、足は自然とそちらへ向かっていた。何故か、行かなければならない気がした。
人だかりの元は連絡用掲示板。通常委員会や学校からの連絡事項のために使用されるソレは卒業式の日だけ、卒業生が自由に使える。その端っこに貼られた一枚のルーズリーフ。誰も気にとめないそれは伏黒の視線を奪った。
……覚えている。忘れるはずもない。「にゃんこー!」と間の抜けた文字。あれと一緒に描かれた下手な猫。全く上達なんてしていない、五本足の猫が描かれていた。ルーズリーフを掲示板から剥がして、裏面を見れば。そこには変わらないあのクセのない字で「あの場所で待つ」とメッセージがあった。
五条先生と伊地知さんに連絡するのも忘れて急いでそこに向かう。
階段を駆け下り、渡り廊下を渡って隣の棟へ。あの教室はこんなに遠かっただろうか。自分はこんなに足が遅かっただろうか。こんなに体力がなかっただろうか。
こんなに、何かを知りたいと思ったことがあっただろうか。
息を切らし、しかし整えずに扉を開ける。中にいたのは一人の男子生徒だ。自分と同じ卒業生の証であるピンクの花を胸に飾ったそいつは机を撫でていた。もうあのラクガキの数々は残っていない。なのにゆっくりと、ひとつひとつの名残りを辿るように触れていた。
そいつは顔を上げて、伏黒の姿を見るとはにかんだ。
「あー、と。初めまして……だよな。俺は三組のナマエ」
──お前の、名前は?
伏黒恵。女のようで気に入らない名前。つけた親父のことはずっと馬鹿だと思ってる。家族以外は呼ぶなとさえ思っている。けれど。
初めて、自分の名前を呼ばれたくなった。
板書解読班出動要請
それを無理やり恵くんに直させたのは、恋人としての最初のワガママだ。
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