僕には兄がいる


泣き虫で弱虫で臆病で

でも誰よりも僕を可愛がってくれた


目付きの悪いシャチの人魚が通りかかると、兄はそっと僕を後ろに隠してくれた

自分だって怖いくせに、それを僕には見せなかった



とてもとても優しい兄だった




兄がエレメンタリースクールに通ってからしばらく経つと、目を赤くしながら帰ってくることが多くなった

──海水が目に染みたんだ

そんなの嘘だって僕にもわかる

でもその理由を教えてくれることは無かった



答えがわかったのは一年後だった

僕もエレメンタリースクールに通い始めて、兄の姿を見た

僕や兄よりうんと背の高い人たちが、集団で兄を虐めていた

助けなきゃ、そう思ったのに足が動かない

怖くて怖くてたまらなかったのだ

その時、兄と目が合った

僕は思わず逃げてしまった



それから兄が僕に構うことは無くなった

僕が兄を見捨てたから嫌いになったのだと思う

僕は嫌われて当然のことをした


悲しい寂しいなんて思う権利、僕にはない





あれ以来兄は何かに取り憑かれたかのように勉強に励むようになった

運動もしているみたいだ


数年後、13歳になった兄は痩せてかっこよくなった

誰よりも頭が良く、さらにはユニーク魔法まで身に付けたと聞いた

双子のウツボと仲良くしている姿を見かけるようになった


その頃には、僕と兄は顔を見合わせることも無くなった


自分でも勝手だと思うけれど、僕は双子のウツボが羨ましかった

だってその二人と兄は固い絆で結ばれているように思えるから

兄は双子を信用しているみたいだ

いつも一緒で楽しそうだ

ずるいずるいずるいずるい


僕が弱虫じゃなくなったら、兄はもう一度僕を見てくれるかな

僕を赦してくれるだろうか




僕達人魚の子供には、絶対に行ってはいけない場所がある

それは船首に女神の像が取り付けられた沈没船、通称“祈りの船”だ

祈りの船はサメのたまり場となっているから、僕達は近づくことを許されていないのだ

でももし祈りの船に入って何か持ってこれれば、兄はまた僕に優しくしてくれるかもしれない

兄は陸のものに興味があるみたいだし



思い立ったが吉日

両親も兄も寝静まった真夜中に、僕はこっそり家を抜け出した

海底まで月の光は届かない

真っ暗な道をただひたすら進んだ



サメに見つかっても夜ならきっと撒けるだろう

そんな甘い考えでいたその時の僕は知らなかった

サメは夜行性であることや夜でも目が利くことを



祈りの船に着いたとき、嫌な予感がした

これ以上は駄目だと頭ではわかっていた


それでも兄にまた頭を撫でて欲しかった

もう一度褒められたかった


だからバレないようにこっそり祈りの船の中に忍び込んだ

嫌な予感とは裏腹にサメに出会うことも無く、あっさりとかなり内部まで入ることができた

陸の本を数冊手に取った

これを持って帰ればきっと兄は喜んでくれるはず

そんな期待を胸に振り返った先には



大きく口を開いたサメがいた


逃げないと!

その一心で必死に足を動かす

抱え込んだ本が落ちそうになるが、これだけは守らなくては


サメはゆっくりゆっくり追ってきた

まるで僕で遊ぶかのように


船内の色々な部屋を通って撒いて撒いて撒いて、ようやくサメの姿が見えなくなった

安心して一息ついた時、それはやってきた

バコンッ

何かが壊れるような音がした

見るとサメが尾びれを叩きつけ、部屋を壊して入ろうとしている

僕は慌てて部屋から逃げたが遅かった


べちっ

そんな軽い音と強い衝撃が僕を襲った

サメの尾びれで殴られたようだ

本だけは守れるようにぎゅっと腕に力を込める

殴られた衝撃と風魔法を利用して逃げることだけに専念した



ふと気がつくと知らない場所だった

腕の中の本もどうやら無事のようだ

兄の元に届けなければ

そう思い足を動かす

足が動かない

見ると足の大半がちぎれてしまっていた

再生の兆しがないことから、無意識に自分で食いちぎってしまったのだろう

たこはストレスを感じると足を食いちぎってしまう

本来たこの足は切れても再生するが、自分で食いちぎった場合は再生されない

これでは歩くこともままならない



おいおいと泣いていたところを助けてくれたのは、人間だった

人魚の生態を調べる学者の先生らしい

先生は僕を拾ってくれた

でも人間になる薬を貰って脚が生えても、僕は歩くことが出来なかった



足の動かない僕はもう海の中では生きていけない

弱い者は淘汰される、それが海の掟だからだ


先生は僕に陸の生き方を教えてくれた

新しい知識を得る度、兄に教えてあげたくなった

あの本は今でも手放せない

いつか渡せたらいいのに

先生は僕に魔法も教えてくれた

僕は自分の身は自分で守れるほど強くなったと思う

あくまでも陸での話だけど



僕が先生に拾われてから4年が経った

黒い馬車が僕の元にやってきた

先生は酷く喜んで、僕をその馬車に乗せた

正確にいうと馬車の中の棺にだけど





深い眠りから醒めた僕が見たのは沢山の棺だった

やがて棺の中から一人また一人と人が出てきて、どこかへ歩いていく

僕も追いかけようと、棺から車椅子を出したが不安定な足場では上手く乗ることができない

自分が情けなくて泣きそうになっていると、後ろから声をかけられた


「なあ、それに乗りたいのか?」


青い髪をした真面目そうな人だ

質問に肯定の返事をすると、彼は車椅子に乗るのを手伝ってくれた


「ありがとう、僕はモナ・アーシェ...」

そこまで言って僕はアーシェングロットの名を使ってもいいのか怖くなった

兄がここにいる確証はない
でも優秀な兄がいないはずがない

それでももし兄が僕を弟だと認めてくれなかったら...

「ごめん、モナでいいよ。モナって呼んで」

急に黙り込んだことを誤魔化すようにそう伝える

彼は何か察してくれたのかその事について何も言わなかった

「モナか、よろしく頼む。俺は、いや僕はデュース・スペードだ」

デュースに車椅子を押してもらい、他の生徒の後を追う

途中すれ違う足元の覚束無い人達から、うっすらと遠い故郷の匂いがした

肺呼吸には慣れてきた筈なのに一瞬呼吸の仕方を忘れてしまった



デュースと話しているうちに寮分けが行われている場所に着いた

この学校には7つの寮がある

人魚である僕はきっとオクタヴィネルに行くだろう

そうデュースに伝えれば、酷く驚いた顔をされた

確かにこの脚じゃ泳げないし、泳げないなんて人魚らしくないからね


「僕はハーツラビュル寮に入りたいな」

「なんか法律いっぱいあるところだっけ?」

「ああ、きっとそこなら優等生になれるだろう」

「てっきりもう優等生なのかと思った」



そしてついに僕達の番が来た


「汝の名を告げよ」

「モナです」

「汝の魂のかたちは...オクタヴィネル」

やっぱりそうだ、内心で独り言ちるとオクタヴィネルの列に並ぶ


オクタヴィネル生のほとんどが人魚のようで、僕の前に並ぶ人達の脚がふるふると震えているのがわかる

それを横目に見ながらデュースの寮分けの様子を伺うと、寮分けは既に終わったみたいでハーツラビュル寮の列に歩いていくのが見えた

希望が通ってよかったね、という気持ちを込めて手を振ると僕に気づいて小さく振り返してくれた



全員の寮分けが終わったみたいで、寮長の指示に従い寮まで向おうとしたとき


勢い良く扉が開いて、仮面をつけた人と新入生っぽい人が一緒に入ってきた

よく見えないが猫みたいな生き物もいるみたいだ

触ってみたいなあ



その生徒は寮分けがまだみたいで、鏡の前に立つ

しかし何かトラブルが起きたのか、ごたついてるように見える


状況についていけないまま見てると、突然猫もどき君が火を噴いて暴れだした


もう何が何だか...


僕のところの寮長とデュースのところの寮長っぽい人がその猫もどき君を捕まえたみたいで、とりあえず一件落着したのかな

でも猫もどき君を捕まえようとした時に見えた寮長の横顔が、兄の顔に似ていたのが気になった




寮に案内され、寮長がフードを外した時疑問は確信に変わった

やっぱり寮長は兄だったのだ
僕が兄を見間違えるはずがないからね


「みなさん、改めて入学おめでとうございます。僕はこのオクタヴィネル寮の寮長、アズール・アーシェングロットです。どうぞよろしくお願いします!」


そう謳うように挨拶した兄には、あの頃の面影はないように思えた

自信に満ち溢れていて、きらきらしてて

でも僕を守ろうとしてくれた、あの優しい表情は今の兄にはなかった


兄は僕がいなくなってせいせいしたのかもしれない



┈┈┈┈┈┈