モストロ・ラウンジの営業時間も終わり、私はジェイド先輩より託された資料を持ってVIPルームへと向かう。アズール先輩は店の支配人でありながら最近は自ら接客の場に出てくることも多くなった。しかし、今は来るイベントの準備中。今日は主にジェイド先輩に現場を任せ、アズール先輩はVIPルームでアポの対応をしつつ、イベントに向けた企画を進めるために店じまいが終わるギリギリまでなにやら大量の書類をさばいている。
私がVIPルームの扉をノックすると、「どうぞ」と、アズール先輩の声が聞こえた。私が扉を開けると、先輩はデスクから顔を上げて、にこやかな営業スマイルで私を見る。
「失礼します、アズール先輩。これ、ジェイド先輩からです」
「ああ、ありがとうございます。こちらへ」
アズール先輩は奥の椅子に座り、デスクの書類に目を通している。私が書類を持って近づくと、彼は左手を差し出して書類を受け取った。書類を見ているだけなのに、やけにアズール先輩の口角がつり上がっていて、モストロ・ラウンジ店内で客によく見せる表情のままだ。たぶん、連日働き詰めのために笑顔がそのまま貼りついてしまっている。
たまにこういうことが起こる。アズール先輩は天才というよりは努力人間だ。いつもカフェや寮の利益のために綿密な計画を立てては、過密なスケジュールをこなしている。自らがオーバーブロットしてからは接客対応も担ったことで、彼の負担は確実に増えているはずだった。それなのに授業の予習復習から他生徒のお悩み相談まで、さまざまなタスクでいっぱいにしてしまっている。私も彼の表ざたにしない労力を予想しつつ、ジェイド先輩に相談しては、店の手伝いやこういった雑用を任せてもらっていた。「それほどアズールを心配してくださるのですね」とニヤついた笑顔でジェイド先輩にいじられたこともある。だってこうもしないとアズール先輩と私の時間が取れない! アズール先輩は私に時間を割こうとしてくれるけど、こういった書き入れ時はそもそも話しかけづらいし、わがままも言えなかった。そしてこうやってアズール先輩が営業スマイルのしすぎで不自然な表情になっていると、さすがに心配にもなって何かを手伝おうとする。最近はずっとこんな感じだ。
「先輩」
「はい。どうかしましたか」
先輩のデスクに回り込み、彼の背後から手を回して、口角を押さえる。
「また、営業スマイルが……」
「……失礼」
先輩は意識して、口角を下げた。いつも通りの真剣そうな、への字みたいな口の形に戻った。これで一安心。
そうしていると、コンコンと扉をノックする音が聞こえる。
「アズール。なまえさん。紅茶をお持ちしました」
扉が開き、ジェイド先輩がティーセットを持って部屋に入ってきた。
「こちらはカモミールティー、過労死しそうな貴方にぴったりです。店じまいまでまだ時間がありますので、是非おふたりでごゆっくり……」
ジェイド先輩はローテーブルに一式を置くと、私たちを見てニヤニヤとしながら紅茶を淹れた。咄嗟に私は恥ずかしくなって腕を下ろして少しアズール先輩から遠ざかる。数秒の沈黙。紅茶が出されたローテーブルに早く行きなさいと促すようなジェイド先輩の笑顔に応えるように、アズール先輩が眉をひそめながら立ち上がった。
「……ニヤついていないで早く終わらせなさい」
「失礼します」
「あ、いただきます!」
ジェイド先輩はこちらへ軽く一礼すると、VIPルームを後にした。
「せっかくですから、いただきましょう」
「はい」
向かい合わせになってソファに腰掛ける。カップを持ち上げると、カモミールの落ち着く優しい香りが、鼻先をなぞった。ジェイド先輩が気を使って私たちに作ってくれた時間。それを味わっていく。この部屋は外部の音が入りにくくなっているため、正面に座るアズール先輩と私の息遣いが互いに聞こえそうでどきどきした。
アズール先輩は紅茶を飲み終わるとカップとソーサーを持ち上げたまま脚を組んで、考え事をしているようだ。正面にいる私のことを見もしないのが、つまらなく感じた。私は立ち上がって、先輩の座るソファに向かい、横並びに座る。2人分の体重で、ソファがゆっくりと沈んだ。
「先輩」
「どうしました、なまえさん」
「ここ、どうぞ」
私は自分の太ももを軽く2回叩く。私の意図に気づいたアズール先輩は少し戸惑って、固まった。
「そちらに、ですか」
「はい。どうぞどうぞ」
戸惑う先輩の肩にそっと手を回して上半身を招く。太ももの上に彼の頭を誘導した。スラックス越しに彼の眼鏡のテンプルの硬さが太ももに伝わり、そこに上から指で触れると、先輩は自ら眼鏡を外してローテーブルに置いた。私はそのまま彼のこめかみあたりに手を置く。
「貴方、今日はどうしたんですか」
「癒されてほしいなと思って」
「……なんだか落ち着きません」
少し不服そうな声が聞こえたけれど、アズール先輩は一向に起き上がってくる気配もなかったため、このまま過ごしてみる。彼が呼吸するたびに身体が上下したり、居心地のいいポイントを探すために頭を動かしてもぞもぞしたりしているのがかわいく思えて、ひたすら先輩を撫でていた。定位置を見つけたらしく、もぞもぞは収まった。すると数秒後に、先輩が大きい溜息をつく。
「はあ……」
「先輩はすごいんですよー。頑張ってますよー」
「馬鹿にしているんですか」
「してないです。本心です。……心配なんですよ」
だんだんとアズール先輩の呼吸がゆっくりになってきて、落ち着いてきたのがわかる。向上心というものは終わりが見えない。自己評価をそれによって高めている人であればなおさら、休みどころを失いかねなかった。こうやってでも、私たちが休んでと言わないと、どこまでも大丈夫だと言い残して、どこかへ行っちゃいそうだ。少しの時間でもいいから身体を近づけて、本当に私のそばにいるという確信が欲しいという気持ちもあった。
「心配をかけるつもりはありません。僕はいつだって、上手くやれますから」
アズール先輩が、ぼそりと呟くように言葉を返し、大きめのあくびをした。返答は不穏ではあるけど、普段私にすら見せないその弛緩した姿に、安堵する。
それから10分は経っただろうか。会話もせずにただ、膝枕をしてくつろぐ時間を過ごした。……そろそろ私も眠くなってきたため寮に戻ろう。先輩に話しかけようとしたが、上からのぞき込むと、目を閉じて、口をうっすら開けたまま眠りについていた。これは動けないな、と思っていると、コンコンとノックが聞こえて、店じまいをすべて終わらせたジェイド先輩が、私たちを呼びに来たのであった。
「おや、赤ん坊のようにかわいらしい姿ですね……」
ジェイド先輩が面白がってスマホを上着のポケットから取り出し始めたところで、アズール先輩がかすかに「うう……」と声を出し、目覚め始めた。ジェイド先輩は撮影をあきらめてティーセットを手早く片付ける。
「僕はこちらを片付けてきますので、それまでに起こしてあげてくださいね」
「ふふ……はい」
アズール先輩が上体を起こして、眼鏡をかける。寝起きの声で私に尋ねてきた。
「今、誰かが何か言いましたか?」
「いいえ。なんにも」
私は営業スマイルで答えた。
… …
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