劉備さんのはからいで、今夜は宴の席がもうけられていた。日々のみんなの働きを労うという趣旨のもと開かれた宴では、談笑する者、料理を堪能する者、はたまた酔っ払って絡み出す者、と様々だけど、みんなとても楽しそうだ。
そんな宴をしばらく楽しんだあと、喧騒を抜け出して庭の木の下に据えられたベンチに1人腰かける。ところどころに設置された篝火と、夜の静かな雰囲気と、小さく聞こえる仲間たちの声と。そっと目を閉じてすべてを取りこむように息を吸いこんでいると、
「何をこっそり抜け出しているんですか」
と、頭上から低い声が降ってきた。驚いて仰ぎ見ると、いつもの調子の法正さんが見える。
宴の行われている部屋からは死角になっているのに、なんでわかったんだろう。
「ここにいるってよくわかりましたね」
「あなたの単純な思考がわからないとでもお思いですか」
問いかけるとそんな言葉が返ってきて、あいかわらずだなと苦笑する。
静かな場所で1人になりたいけどみんなの楽しそうな声も聞いていたい。そんなわたしの希望を叶えるにはこの場所が最適だったのだけど、それすら彼にはお見通しなんだろう。
気づけば、出ていたはずの月は雲に隠れてしまっていた。だけどそのおかげというべきか、星がきれいに瞬いている。いい夜だ。
法正さんが隣に座るのを眺めながら、わたしは彼に尋ねた。
「そういえば、わたしになんの用ですか?」
「なぜ用があると?」
そう質問に質問で返され、さっきのお返しとばかりにわたしは答える。
「法正さんは意味のないことはしませんから」
わたしだって、法正さんのこと多少は知っているのだ。そうでしょう?と笑って首を傾げると、彼は目を細めて口角を上げると、視線を空へと向けた。
横目で盗み見たその横顔は、浅黒い肌が申し訳程度の篝火に赤く照らされていた。時折吹く涼やかな風が、濡れたような黒髪をふわりと揺らしていく。後ろ手をついて空を仰ぐその様子をいつの間にかぼんやりと眺めながら、整った顔だよなあと思う。
きれいはきれいなんだけど男らしい色気に溢れていて、少しだけ、怖い気もする。
睨まれでもしたらすくんでしまうくらい迫力がある上に、自他共に認める悪党である彼。それなのにこんなにも惹きつけられるのはどうしてだろう。
悪い男に惹かれてしまうのは、精神的に成長していない証拠なんだろうか。でも法正さんはただ悪い人ってわけでもないような……それもわたしが自分に都合のいいところしか見ないようにしているだけかもしれないけど。
そんなことを考えていると、法正さんはつ、と視線を庭の暗闇に投げた。
「…そうですね、あなたがいないと張飛殿を止める人がいないのですよ」
一瞬なんのことかわからなかったけど、すぐにさっきのわたしの質問に対する答えだと思い至る。
それにしてもこの人、それ今考えたよな?
なんだか取ってつけたような答えにそう思う。そもそもわたしが言ったところで、張飛さんはそんなに素直にお酒を離す人ではないと思うんだけど。
「戻りますよ」
適当だとわかっている言葉にすら真剣に考えてしまったわたしに向かって、立ち上がった法正さんが手を差し出す。もう少し一緒にいたかったと残念に思いながらその手をとると、ぐいと思いの外強い力で引き寄せられた。
「っ?!」
お互いの体が密着して、その上彼の手がわたしの腰に回った。差し出された手はしっかりとわたしの手を握っている。その感触をいやというほど感じながら、上半身をむりやりそらして法正さんを見上げた。
「まったく…」
呆れた顔をした彼は、小さくため息をこぼした。
「え、な、なんですか?」
「危機感を持つべきですよ。俺じゃなくても、あなたは素直に手をとったでしょう?」
今の状況ならそりゃとるでしょうよ。仲間に差し出された手まで警戒する意味がわからず、眉を寄せる。
なにが悪かったんだろう…。
法正さんの顔を見ることができず、困って視線を下げていく。男らしい首元に喉仏、そして大きく開いた胸元。不謹慎ながら目につくものすべてが心臓に悪くて、体に火がついたように体温が上がった。
「どうすれば俺のものになるんですか」
目のやり場に困るわたしの耳に届いた、独り言のようにぽつりと落ちた言葉。それは普段の彼からは想像もできない途方に暮れた声で――。
わたしは思考が停止したようにまばたきも忘れて、再度ゆっくりと顔を上げると彼のその瞳の奥を凝視した。
今、なんて…
「……聞こえていますか?」
たっぷり時間をおいても反応しないわたしに、法正さんは訝しむように眉根を寄せる。
「え、ちょ、ちょっと待ってください!! なんでそんな急に」
彼は「急、ね――」とつぶやき、視線を流してふうと息をはいた。
「俺としてはもっとじっくり攻める予定だったんですがね」
そこで少し言葉を切った後、視線をわたしに戻す。
「今日の様子を見て考えを改めたんですよ。うかうかしていると、誰かに掻っ攫われてしまいそうなので」
「な、なんですかそれ?!」
「張苞殿に魚の骨を取ってもらっていたのはどこの誰です?」
射殺されそうな鋭い視線を向けられてたじろぐ。
「そ、それは…関興さんがそうしてもらってて、ついでだからって」
「では、その関興殿に手を取られていたのは?」
「え…?そんなこと……あ。あれはお酒を注ごうと思ったらこぼしそうになったのを助けてくれただけじゃ、」
「それでは趙雲殿と馬超殿に口説かれていたのは?」
「あれは!口説かれるとかじゃなくて…2人とも酔っ払ってたじゃないですか」
冷めた目を向けられて、悪いことをしたわけでもないのに叱られた子どものように体を縮こませる。
張苞さんとはたまたま同じテーブルで、自分でできると断ったら思った以上に残念そうな顔をする彼にいたたまれなくなった上に「やらせてやって」と星彩ちゃんに言われたらからで。関興さんについてはさっき言ったとおりだし、趙雲さんと馬超さんは誰かにけしかけられて飲みまくっていたあげく、妻にするなら誰だとかいう話を関羽さんに向けられて、たまたま女というだけでわたしの名前も出ただけだった…のでは。
「凪殿。あなたという人は、本当に何もわかっていない」
心底呆れたという顔をする法正さんに、泣きたくなってくる。
「なら、放っておけばいいじゃないですか」
いまだ握られたままの彼の手を振り払い、ただただ逃げ出したくて言った言葉は、自分が思った以上に拒絶の色が濃くなって、違うのにと思うと涙がぽろりと落ちた。
とてもひどいことを言ったのに、腰に回った彼の手の感触が離れなくて、法正さんは今なにを思っているんだろうと戸惑う。
「そうできればここまで必死になっていませんよ」
その言葉に、思考と感情が停止した。え、今必死って言った?と反射的に口から出そうになって慌てて飲み込む。今の彼の発言で涙も引っ込んでしまった。
普段通りのその表情からは必死さなんて微塵も見えないけど、そう言われてみると確かに小馬鹿にした様子はなさそうだし、瞳には真摯な色が見える…気もする。本当に彼は必死なんだろうか?わたしなんかに?あの泣く子も黙るインテリヤクザの法正さんが?いやいやまさか。
そんなことをぐるぐる考えていると、さっき振り払った彼の手がわたしの背中へ移動して、そのままぐいと抱きしめられた。離れていた上半身が彼にぴたりとくっつき、法正さんの匂いに包まれてくらりとする。
「俺のものになるのも、あながち悪くはないと思いますよ」
鼓膜を心地よく震わせる淡々とした低い声とは裏腹に、わたしを抱きしめる腕の力が強くなって、もうなにも考えられなくなった。
こんなの、逃げられるわけがない
後記
「どうすれば俺のものになるんですか」本当にただこれを言わせたいがためだけに書きました。
たぶん法正が根負けしそう(とはいえ絶対に諦めない)になるくらいなので、彼女は好意を社交辞令くらいにしか受け止めなかったんだと思います。そう考えると法正不憫。
宴の間、法正は彼女のことをずっと見ていたんでしょうね。実際ならホラーですが、そこはフィクションなので。法正が怖い顔で睨んでいたら周りの人はさぞ恐怖だっただろうというおまけも、誰か目線で書けたら楽しいだろうなあと思いつつ、実現は難しそうですが…。
張苞が魚の骨を取ってくれるというのは、8のムービーで関興の料理を切り分ける?シーンがあったのでそこからです。