定軍山で、法正さんが劉備さんを庇って矢を受けた。当の本人は痛みに顔をしかめながらも、いつも通りの嫌味を言っていたし、なんと翌日には執務に戻っていたらしいし、それに彼を見舞った人も問題なさそうだと言っていたから、たぶん大丈夫なんだと思う。なんだろうけど、不安で押しつぶされそうで、だけどどんな顔をして彼に会えばいいのかもわからなくて、法正さんの部屋の前を行ったり来たりすること早3日。この間、彼の性格ゆえかあまり部屋を訪れる人はなかった。わたしとしては慌てて隠れる必要がないのはありがたかったけど、誰かの訪問に紛れて様子をうかがうことができなかったのは残念でもあった。
しんとした廊下に、稽古をしている兵士たちの声がどこからか小さく聞こえてくる。
今日こそはと意気込んで、ノックしようとしては諦めてを繰り返し、ドアを見つめながらやっぱり明日にしようかなと思っていたら、突然目の前でそのドアが開いた。
「っ⁈」
驚きで息を止めて固まったわたしを、ドアに寄りかかるように立った法正さんが冷ややかに見下ろす。
「3日も人の部屋の前をうろつくとは…俺がここを開けなかったらどうするつもりだったんですか」
皮肉まじりの口調が憎たらしいけど、胸元から覗く包帯は痛々しい。なんで3日通っていたことを知っているのかと思いながら、わたしは「それはその……」ともごもご言って、彼の包帯を見つめた。
けっこうがっちり巻かれているように見える包帯の下の傷は、どれくらい深いんだろう。服の袖に腕を通さず、胸の下あたりで固定しているだろうところを見ると、手を動かすだけでも痛いんじゃないだろうか。もっと早くお見舞いに来ればよかった。そう思う一方、なにもできない自分に後悔しただろうこともわかっている。
そもそもなんであのとき、わたしはなにもできなかったのか。たった数歩の距離にいたのに。わたしなんかが反応できる状況じゃなかったってことは理解している。だって法正さん以外、誰も動けなかったんだから。それでも、どうしても自分を責めずにはいられない。
「心配しましたか?」
ふいに投げられた言葉に、わたしは視線を上げる。法正さんはからかうような笑みを浮かべ、
「どうなんです?」
と続けた。その様子に、わたしの中のなにかが溢れた。
「っ、知りません!」
思ったよりも怒っていたのだと、自分の怒鳴り声で気づいたけど、もう遅い。
「悪党のくせにヒーローみたいなことしないでください‼︎ なんで――、」
続けようとしたわたしの口元に、すっと法正さんが指を立てた。わたしが言葉を飲みこんだのを確認して、彼は淡々と口を開く。
「こんな所で立ち話もなんですから、どうぞ中へ」
そうドアの奥を示されて逡巡するも、さあ、と有無を言わせない口調で促される。重い足で部屋へ入ると、そこは彼に似合わず意外にも明るい空間だった。窓辺では葉陰が揺らめき、柔らかな光が部屋に差し込んでいる。
ただ、机の上にはいくつもの資料や手紙らしきものが広がっているし、そばには丸められた竹簡が山のように積みあがっていた。あの状態で本当に仕事をしているのかと半ば呆れながら、ドアを閉める彼の背中を眺める。
「あなたは時々不可思議なことを言う」
振り向きながら、法正さんがつぶやく。勢い余ってヒーローとか言ったせいだよな、と思って、それだけ冷静でなかった自分を反省した。勢いを削がれたせいですっかり頭の冷えたわたしは、今度はゆっくり言葉を紡ぐ。
「法正さんなら、もっと卑怯な手だって使えたと思うんです。いや、もちろん劉備さんを囮にするとか卑怯すぎるとは思いますよ。でもこっちの誰も怪我しないような、敵にとってはものすごく嫌な手だってあったんじゃないんですか?」
「ふ、これは手厳しい。それにしても、普段とは真逆なことを言うんですね」
いつもは酷いとか、もっとやりようがあったんじゃないかとか、それこそ酷いことを言っているくせに、今更といえば今更だ。だけど、誰かに傷ついてほしいわけじゃない。みんなが無事で終わった後だからこそ言えることで、大事な人たちが傷つくくらいなら手段なんかどうでもいい。結局わたしのは、ただのきれいごとでしかないのだ。
「わたしの歪んだ正義感なんか、法正さんが怪我するならいりません」
「、あなたという人は……」
目を見張った法正さんは、呆れたような困ったような表情をした。
「あれが最善だったと言ったところで、納得してはもらえないんでしょうね」
「え、最善……?」
そんな重傷を負ったのに、と驚いて、わたしは彼の肩口に視線を走らせる。
「劉備殿は知る必要があった。己の決断がどれほど重大な意味を持つのかを。まあ、あそこで矢を放ってくるとは思いませんでしたが、せっかくなのでこちらもそれを利用させてもらいましたよ」
国のために、というより劉備さんのために、自分の命すらかける法正さんの覚悟に眩暈がした。それでもその覚悟を受け入れることができなくて、わたしは必死に食い下がろうと試みる。
「だけど……、」
ただ、その後に続く言葉を持ち合わせていなくて、どうしようもできない不甲斐なさに鼻のあたりがつんとした。泣きたいわけじゃないのに涙が出そうで、悔しさに目を伏せる。
「凪殿」
唇を引き結んだわたしの名前を、体に響く低い声が呼んだ。反応できずにうつむいたままでいると、彼の足音が近づいて頬にひやりと冷たい革の感触がした。ほんの軽くだけ顎あたりに加わった力に押し上げられて、法正さんと視線が絡む。
窓際にやってきた小鳥がチチッと小さく鳴いた。
「怖いですか?」
そう言われた瞬間、ぐ、と顔の中心に力が入った。
「あなたが怒るのは、恐怖と不安でどうしようもないからでしょう」
自分でもよくわかっていなかった怒りの正体を見事に言い当てられて、納得すると同時に嫌だという感情が浮かぶ。怖がっている自分を認めたくない。そしてそんな自分を誰にも知られたくない。なぜだか無意識にそう思っている自分がいて、ひどく動揺した。
「怖いですか」
答えなんかわかっているくせに、法正さんはあえてその言葉を繰り返す。あくまでもわたしの口から言わせたいらしい。視線をそらしたいのに、そっと包まれているだけの手のひらからも、彼の真剣な眼差しからも逃げられず奥歯を噛んだ。
どれくらい見つめあったのか、わたしはついに降参した。
「……怖くないわけ、ないじゃないですか……」
むりやり言葉を絞りだすと、法正さんは微かに笑う。彼の手が頬をそっとなぞった。「強情ですね」と言う思った以上に柔らかな声が、よくできましたと言っているようで、なぜだかぼろぼろと涙がこぼれる。そんなわたしを法正さんは片腕で軽く抱き寄せた。
「……だいじょうぶ、うぅっ…なんです、か?」
「これくらいでは死にませんよ、急所は外してありますから」
わたしが頭を寄せているのが怪我をしていない方の肩だといっても、振動が伝わって傷に障らないのだろうかと心配になってしゃくり上げながら尋ねると、彼は飄々と言った。
「そんなこと、できるっ、なら、ぐすっ…怪我しない、ことだって、できたんじゃ、ないですかっ」
「言ったでしょう、最善だと」
すました声で言ってのける彼にむかついて、肩に当てた頭に少しだけ力をこめる。
「っ――、怪我人だってわかっていますよね」
一瞬息を詰めた彼の極悪面が見えるようで、わたしは落ちる涙の中笑った。
矢に当たりに行くような人に言われたくありません
後記
このシナリオ、法正のくそっぷりが好きです。劉備を囮にするとか笑ってしまう。蜀らしからぬ男ですよね。怪我をしていても、使える手には黒手袋をしていてほしいのはきっと私だけではないはず。右手が使えないから、左手と口でどうにかしていたら鼻血ものです(なんかの公式イラストでそういうのありましたよね)。
ゲーム内で彼が劉備を庇った時にここまで考えていたかはさだかではありませんが、この人ならそれくらいしていても不思議ではなさそうだなと思います。そしてこの後、「次は3日も放っておかないでくださいね」「う……それより怪我しないでください!」と怒られていたらいいなと思います。