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 格子窓から覗く満月に向けていた視線をフと落とすと、身体を丸めて布団に横たわるサイタマがいた。目を開けてはいるけれど、眠りたいのか瞳はぼんやりとうつろだ。
 サイタマ、と名前を呼ぶと、まぶたがぴくりと動いて、小さな黒目が俺を捉える。真っ直ぐ俺を見つめる瞳に影が映ってゆらりとゆらめいた。
 サイタマ、もう一度名前を呼ぶと薄紅の唇が幽かにひらき、ゾンビマン、と細い声が上がる。眠いんだけど、と告げる声音はいつもより掠れていて、とっぷりとまどろみに浸っているようだ。穏やかにも見える光景だが、なぜだか、このまま放っておいては、サイタマはじきにぱたりと目を閉じ、真っ白い布団のなかに深く沈んでいってしまう気がしてならなかった。
 布団からこぼれ出ている片方の手に指先で触れ、包み込むように握る。サイタマが、冷たい、と漏らすが、反対に俺の手はあたたかい。
 互いの体温が、触れあう箇所から滲んで交わる。
 枕元に膝をついたまま、しばらくの間そうしていると、緩慢とした瞬きを数度繰り返していたまぶたが、ついにふつりと閉じられた。寝るなよ、と言ってもサイタマは、でももう夜だから、と諦めを諭す言葉を返して、続けざま、仕方ないとでもいうように云った。

夜だから、もう寝なくちゃならない。俺も眠いし。だけど、朝になったら起きるから。

 確かに夜だけれど俺は眠くない。サイタマにも、起きていてほしい。
 握った手はそのままに、空いているもう片方で、左のまぶたの上を撫でる。眼球のゆるやかな山をそろりと越え、手のひらでサイタマの頬を包んだ。すると、サイタマはゆっくりと目を開き、ぱちりと瞬きをしてからまた、冷たいと云った。それから、なぁ、と俺に呼びかける。
 短いまつげに縁取られた眼は卵の殻のように滑らかで、同時に無感情であり、冷ややかだ。
 俺は月明かりのわずかな光だけを反射してきらめく瞳を見ていた。瞬きをするたび、眼差しは濡れていく。ひやりと冷たい眼が、ほんとうはいくつもの感情を黒目の奥であたためていることを知っていた。
 もう一度、サイタマが口をひらく。

ちゃんと朝になったら起きるから――それまでお前、待っててくれる?

 小さい声で、けれどはっきりと発せられたその問いに、俺は考えるより先に頷いていた。そうしてほしそうに見えたからだ。
 頷いてから、サイタマの言葉を遡り、反芻し確かめる。格子窓の向こうには、満月がある。さっきと寸分違わない位置だ。
 朝はいつくるんだ、と尋ねた。

いつって、星が出て、雨が降って、桜が咲いて、虫が鳴いて、風が吹いて、月が欠けて、虹が掛かって、明日になって、雲が晴れて、そうしたら、いつか日がのぼるだろ? 夜を過ぎて、日がのぼれば、もう朝がくる。

 ゆるり、ゆるりと指折り数えるように、サイタマは朝がくるまでのことを並べた。
 はてと首をかしげて「朝とは、そんなに遠かったか?」と訊くと、うん、と小さな頷きが返ってくる。
 俺は、サイタマを信じることにした。
 もう寝ていい? と訊く声は、ほんのさっきまでの、はっきりしたものから、また眠そうに掠れたものへと変わってしまっていた。これはいよいよ限界だろうと、うつらうつらしているサイタマにようやく「ああ」と答えてやる。
  その言葉と共に、眠たげな目は閉じられて、しばらく、沈黙が部屋を満たした。
 もう眠ってしまっただろうか、と思った頃、不意に短いまつげが揺れ、サイタマは、半分ほど開いたまぶたから薄く瞳を覗かせ俺を見た。
「まだ夜だぞ。眠れないか?」と訊くと、これまでよりいっそう小さな声で、ほんとうに待ってるの? とサイタマが云った。躊躇うような口調だった。今度、サイタマは待たれることを望んでいないように感じた。俺を留まらせることを、気後れしているのだろうか。やはり朝は遠いところにあるのだろう。だが、それでもいいんだ。朝はくる。
「ああ、待ってる」と返して、握った手の、筋ばった甲を撫でると、安心するように再びまぶたは下ろされた。
 おやすみ、と声をかけるが返事はない。
 今度は、眠ったようだ。



 それからサイタマの云う通り、星が出て、雨が降って、桜が咲いて、虫が鳴いて、風が吹いて、月が欠けて、虹が掛かって、明日になった。
 格子窓の向こうで流れる夜の情景を気まぐれに眺める以外には、ずっとサイタマを見ていた。
 畳んだ足はもう感覚さえなくなったような気がしたが、そんなのもとよりなかった気もする。
 すべてが遥か過去のことに思えるのだ。
 目の前の男は、どんな声をしていたか。
 思い出そうとサイタマを見つめていると、いまになって上下していない胸に気がついた。
 まるで死んでいるようだ。きっと、極めて薄い呼吸なのだろう。しかし、もしも、ほんとうに死んでしまっていたら。
 もう、待つことは無意味なんじゃないか、と過った思考を咎めるものは誰もいない。けれど手を離す気にもならない。約束を交わしている。それがなくとも、手を取ったことの後悔はあまりに遠く、俺まで届かないだろう。俺は待つと決めたのだ。この男が目を覚ましたとき、ひとりぼっちではかわいそうだ。泣いてしまったら、どうしよう。もし離れた隙に目を覚まして、俺ではないやつを見てしまったら大変だ。いや、それより、それを俺だと間違えてしまったら、そんなことになったら。
 サイタマの手をぎゅっと握る。やはり、約束がなかったとしても、俺はここで、こうしていたことだろう。
 考えるのはいつも、ひとりのことだけ。
 この男を離したくない。それが望みなのだ。
 握っている手が、少し、動いた気がした。
 あ、と声を漏らしそうになり、サイタマを見ると、静かに閉じられていたまぶたはゆっくりとひらいて、あの夜と変わらない濃度の黒目が、真っ直ぐ俺を捉えた。
 するりとほどかれてしまった手に感傷を覚える隙もなく、今度はサイタマが指を絡めて俺をつかまえる。ずっと握っていたというのに、手のひらから伝わる体温は久しく、触れあう部分と、それから心臓を、じんわりと痺れさせた。

「ずっと待っててくれたんだ」

 ああ、そうだ。こいつは確かに、こんなやわらかい声をしていた。
 サイタマがふっと笑う。
 冷たい眼はほころび、雪解けの果て、つぼみのひらく様を見たような気になった。
 部屋に降り注ぐまばゆい日の光を浴びて、いま、朝がきたことを知った。








「こんな夢を見たんだ」


 サイタマが目を覚ますのをずっと待っている夢を見た。雨が降っても、虫が鳴いても、お前は目を覚まさなくて、一度死んでいるんじゃないかと思ったが、それでも朝まで待っていた。それに、サイタマが目を覚まして、俺がいないことを悲しんだらいけない。
 所々が朧気になった夢の顛末を語ると、サイタマはふうんと興味もなさそうに相づちを打った。別にお前がいなくても、怒んないし悲しまないと思うぜ俺は、とさらさら流れる言葉にはよどみがなく、それは真実なんだろう。
 そもそも寝てる間に約束なんて忘れてるかも、と更に続けられて、サイタマならそれもありえそうだなと、思ってしまった。
 確かに、と呟くと、だろ? と自らの薄情を認める声が返ってくる。
 相変わらず適当なやつだ。
 窓から差し込む朝日を浴びるサイタマに、夢で見たような危うさはない。だというのに、適当な言葉を吐く男の眼差しは、満月の夜からはじまった長い時を、どうしてか思い起こさせる。
 黒い瞳は真っ直ぐ俺を捉えている。
 見つめ合うふたつの目に映る影さえ見えそうだ。
 読めない表情。
 やわらかい声。
 サイタマが、でも、と言ったとき、欠けた月たちが蘇った。

「ずっと待っててくれたんだ」

 ひやりと冷たい目元が和らぐ。薄紅の唇はゆるやかに弧を描いた。
 思いがけず浮かべられた笑みに、身体の奥がじんわりと痺れてあたたかい。
 そうだ、俺はこれを知っている。
 日溜まりのなか、まるで花開くその微笑は、夢のような光景だった。
一文で妄想というよりパロディにしてしまいました。
いろいろわかりにくいと思うのですが、これは前提として「一日」を「人の一生の寿命」として書いています。
夢の中の「夜」とは「終末」で、眠ることが「死」です。なので先生は夜に眠くなり、ゾンビマンは夜も眠くないというわけです。
朝になるまで待ってて、というのは「生まれ変わるまで待ってて」と同義になるので、先生はそうしてほしそうにしたり、躊躇ったりなどをしています。




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