可惜夜






梅雨の明けた空は青く高く、まるで絵に描いたような真っ白で柔らかい雲が気持ち良さそうに大海原を泳いでいる。蝉が鳴き、湿気を含んだ風が吹き、時鳥が朝の訪れを謳っていた。


そんな清々しい空気の中、正門に着いてみると風紀委員達が立っていて、先程から登校してくる生徒を一人一人チェックしていた。そろそろ抜き打ちチェックがあるから気をつけてと友達が言っていた事を今更思い出し、慌てて自分の制服に目をやる。

先週から衣替えでYシャツは半袖になり、スカートも夏用の薄い淡い色の生地になった。丈は短くない、と思う。リボンも指定の物だから平気なはず。不安になったのは静止を振り切ろうした二人の男子生徒を締め上げている冨岡先生が居たからだ。あの前を通るのはなかなか勇気がいるな、と思ったけどいつまでも突っ立っているワケにもいかないので、みんなと同じように検問へと向かった。

そして門の隣に立っている綺麗な金髪の彼と目が合った瞬間、光のような速さでガッと手を握られ、肩にかけていた鞄がずり落ちる。


「ゆい先輩〜!!おはよーございますぅ〜!!!」

『お、おはよう善逸くん。朝から元気いっぱいだね』

「そりゃもう!!朝から先輩に逢えたら眠気も吹っ飛んじゃいますって!!今日も安定の可愛いさですね!!ゆい先輩ならピアスをしてたり、スカートが短くても通しちゃいますぅ!!!」

「風紀が乱れる!!」

「と!?冨岡せんっ…ぐへ!!」

『善逸くんー?!』


突如、間に入ってきた冨岡先生の拳が善逸くんの右頬へ綺麗に決まって思わず目が点になってしまう。スローモーションのように宙に舞って倒れた善逸くんの元へ行って先生との盾になった。


『先生、ストップ!』

「堂々と不純異性交友は認めん」

『落ち着きましょう、正門なのでみんなが見てますから!』

「見せ締めにちょうど良い」

『どこのヤクザですかっ』

「庇ってくれる先輩にトキメキすぎて死にそうっ!!」

『そんな場合じゃないーっ!』


冨岡先生はスイッチが入ると不死川先生より破天荒で危ないのかもしれない。善逸くんは善逸くんで殴られたのにホワホワしてるし、何なんだこの状況は。いつもこんなに検査はバイオレンスなものなのだろうか。周りの生徒も特に気にするそぶりもない。むしろ今のうちだ!と言わんばかりの人達が横を駆け抜けていく。

しかし、それを良しとしない冨岡先生が追い掛けて竹刀で通せんぼしていた。フットワークが軽すぎる。50m走、何秒で走るんだろう。物静かな出立ちだけど中身はとてもパワフルだ。


「ゆい先輩、おはようございます!善逸!朝から先輩に迷惑かけちゃダメだぞ!」

「違うんだよぉ〜!俺じゃなくて冨岡先生だよぉぉぉ!!」


朝からニコニコと爽やかな笑みで話しかけてくれたのは炭治郎くんだった。隣に妹の禰豆子ちゃんもいる。まだ眠いのか、うつらうつらと頭を揺らしている姿が可愛いかった。


炭治郎くんとはこないだの事もあるから少し気まずくなっていたけど、彼はいつもと変わらず人当たりの良い表情で接してくれるから安心した。普通なら変な人だって思われても仕方ないような出来事だったのに、本当に根から人が良いと思う。避けるどころか、今までに増して校内やパン屋で会う度に話しかけてくれる。内緒で試作品やおまけのパンもくれて、すっかり虜だ。

そんな人懐っこくて優等生の塊の炭治郎くんの耳に花札のピアスが揺れている。綺麗でいつも似合うなぁと見ていたけど、今日は何だか嫌な予感がする。それは何故なのか、要因はただ一人。背後に立っている青いジャージの先生だ。


「竈門、ピアスを外せ」

「無理です!形見なので!」

「取るまでここは通さん」

「大丈夫です!何としてでも通りますから!」

「猪突猛進ーっっ!!」

「おいコラ伊之助ぇ!!お前も止まれぇぇ!!制服をちゃんと着てくれよぉぉぉ!!」


伊之助くんにポコポコと殴られながらも腰に飛びついて離れない善逸くんに、冨岡先生の振り下ろした竹刀を白刃取りする炭治郎くん。阿鼻叫喚な光景にただただ唖然とするしかない。

どうしようか悩んでいると手をくいっと後ろから引かれたので振り向いた。そこにはこんな喧騒さを感じさせない花のような笑みを浮かべたしのぶが立っていた。まるで光の粒が降り注ぎ、空気が浄化されるみたいだ。…私も善逸くんと同じタイプの人間かもしれない。


「おはよう、ゆい」

『おはよう、しのぶ。どうしよう、何だか凄い事になっちゃったんだけど』

「服装チェックの時期はいつもそうだからほっといていいのよ」

『本当?怪我人が出そうな勢いだよ…』

「大丈夫、大丈夫!早く行きましょう」


出そうというか怪我人は既に出ていた。でも、しのぶが大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう。後ろ髪を引かれながらも、戦場からこっそりと抜け出す事にした。










「ゆい!!」

「あ、こら!!"さん"を付けろよ!」

「俺にも稽古つけろ!!鈴菜と同じようなやつを俺もやる!!」

「何言ってんのお前ぇぇ!そう簡単にやれるものじゃないの!伊之助みたいにガサツな奴はとくにね!」

「うるせぇ!!やってみなきゃ分かんねぇだろうが!!てめぇだって変わんなきゃダメな事くらい分かってんだろ!?信じるって言われたんだからよ!!」

「そ、それはそうだけどさ…、」

『……伊之助、』

「な、なんだよ」

『私より先に死なないって約束できる?』

「……っ!!」

『出来ないならこの話はなし』

「で、できる!!!」

『本当に?』

「あたりめーだ!!」

『それならいいよ。任務がない時、ここへおいで』

「師範!良いのですか…?」

『託された思いを無駄にしたくない。今度は鈴菜達がみんなを引っ張っていくんだよ。その為なら私は何でもする』

「…私はもっとたくさん師範と手合わせしたり、ご飯食べたり、任務に行きたいです」

『そんな顔しないの』


聡い子だから「今度は」の意味を察して俯く鈴菜の頭を優しく撫でた。永遠はない。誰しもそれは理解している。だけどさよならは言いたくないから、見ないフリをする事も。例え居なくなる日が分かっていたとしても後悔は生まれるから、笑って別れを言える人はいない。そう思っていた。


「煉獄さんは最期、笑っていたんです。本当に穏やかにーー」


その大きな金環の瞳の先には瑠火さんが居たのかな。そうであってほしい。そして杏さんを優しく抱き締めてほしい。誰よりも強く、優しく、頑張ってきた人だから。









「おい、ド派手な事になってんぞ」


急に真横から覗き込むように顔を出してきた宇髄先生の声に改めて前を見ると、キャンパスに描いていた風景画のど真ん中に真っ赤な絵の具が付いてしまっていた。本当は木の実を塗ろうと思っていたのに、ぼんやりとしていたせいで、湖の青に赤が混ざってとんでもない色になっている。

そうだ、今は選択美術の時間だった。


『え、…あー!!』

「目開いたまま寝てたのか?」

『寝てはなかったのですが、ちょっとトリップしてたと言いますか…私、寝てたんですか?』

「俺が聞きたいわ。無心で塗り始めたから面白くてずっと見てたけどよ。ちょっと貸してみな」


私の手から筆を取ると、ひょいひょいっと手慣れた手つきで塗りムラを修正していく。さっきまであんなに浮いていた色が自然なグラデーションになっている。本当に水面が動いているみたいだ。さすが美術の先生。爆破したり、悪戯してきたりするからすっかり忘れていたけれど、美大を出た凄い人だった。

パレットから白い絵の具を取って次から次へと手を加えていく真剣な横顔。こんな間近で先生の顔を見た事はほとんどなかったけど、恐ろしく整った造形だなぁと今更思った。さすがバレンタイン獲得率一位の男は伊達じゃない。素でこのクオリティは本当に罪だと思った。

そんな私の視線に気付いて先生は筆を持ったまま菖蒲色の目を怪しげに細めて口角を上げる。


「なに、どーした?」

『先生って格好いいんだなぁと改めて思いました』

「…お前、凄いな。派手にド直球」

『ちゃんと本心ですよ』

「余計タチわりーわ。言われ慣れてるけど、お前からだと何かこう、クるな。ガツンと」

『照れましたか?』

「うっせ。後で覚えとけよぉ」


いつもはからかわれる側だけど、今日はやり返せたぞ。嬉しくて笑っていると先生はバツが悪そうに頬をかいた。案外純情な人なのかもしれない。でも仕返しが怖いな、と自席へ戻っていく先生の後ろ姿を見ながら思った。





※※※


放課後、調べたい事があって一人図書室へ来ていた。歴史、倫理系の本棚を漁り、気になったものを何冊か両手に抱えて窓側の席へと座る。持ってきたのは「輪廻転生」「前世」「潜在意識と夢の関わり」「大正から現代にかけて」等、今の自分が引っかかっている出来事ばかり。読んで何になるのか分からないけど、まったく知らないより少しは気が済むのかもしれないと思ったからだ。

ページをパラパラ捲り、慣れない活字に目を瞬かせながら読み進めていく。


……転生とは死んで新しい生命に生まれ変わること。生まれ変わる世界は天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六つの世界に分かれており、総称して「六道」と呼ばれていること。

生前に行った引業の重さによって次に生まれ変わる先が決まる。悪い事をしていれば転生する事は容易ではなく、もし出来たとしても随分と長い年月がかかると。

そういう話を小さい頃、絵本で見た事があったのを思い出した。当時は絵だけを見てその悍ましい色合いに怖くなったんだ。来世を願い、再び出逢える日を待ち望む人は少なくないのだろう。そうやって人は別れと向き合い、生きていかなければ心が折れてしまうんだ。

そして夢で見る自分は同じく来世に想いを馳せていた事も。前世なのか自分の奥底に眠っている感情なのか答えを出せない。それでも無碍にしてはならないものだという事だけはどこかで痛感していた。


『夢日記でもつけようかな…』


でも現実と夢の区別がつかなくなって危険だと聞いた事がある。今とあまり変わらないかな。


「八月の花火大会に誘わないのっ?」

「誘いたいけど勇気がなくて、」


本を閉じ、ふぅと深い溜息をついた時、近くでヒソヒソと話す声が聞こえて視線を向けた。そこにはスマホを見ながら予定を立てている二人の女子生徒の姿。

花火大会…

そういえば図書室のドアにも張り紙がしてあった気がする。どこでやるんだろう。この辺の近くかな。


「高校最後なのに行動しないと勿体ないよ!」

「でも断られたら気まずいし…」

「絶対大丈夫!向こうだってよくこっち見てるから脈アリだって!声かけないとこの先ずっと後悔するよ?!」

「…頑張ってみようかな」

「うん!その意気だよ!応援する!」


話していたのは隣のクラスの知らない子だったけど、好きな人を想って一喜一憂している姿が可愛いくて温かい気持ちになる。

…煉獄先生は花火大会行くのかな。
誰と行くんだろう。先生の隣を見ず知らずの綺麗な女の人が歩いているところを想像してしまい、ズドンと心が重くなって沈む。


そのまま机へ突っ伏し、目を閉じれば先生が花火を見上げている姿が瞼の裏に浮かんだ。先生は浴衣じゃなかった。いつものスーツでもなく、黒い制服みたいなものの上に白と赤の羽織が風に煽られてる。腰には刀が隠すように携えられててーーー


『わっ!これは何ですか!?』

「ゆいは見るのが初めてか?これは花火というのだ!」

『はな、び?』

「商売繁盛や安全祈願で打ち上げられる事が多いが、亡くなった人の魂を鎮める為の意味もあるんだぞ!」


鞠が弾むように明るい声と夜空に咲く大きな華に目が離せなくなった。体の芯まで響く破裂音。風に乗って運ばれてくる火薬の匂い。

私はこの景色を一生忘れない。





鈴虫が鳴く静かな庭。
雲一つない夜空には下弦の月が悠々と森や田畑を照らしている。

少し冷えた縁側に着流しを着て座っていた。隣には月と相対する太陽のような金色の髪をした杏さんがいる。普段のよく通る声は影を潜め、ただ黙って夜空を見上げる横顔がずっと見ていたいほど綺麗だった。


「十日後、浅草で花火が上がるそうだ。共に見に行かないか」

『この季節にも花火が上がるのですか?』

「ああ、先日任務先で耳にしてな。それと良い甘味屋も教えてもらった。そこへ行こう。喜んでくれるといいのだが」

『杏さんと一緒ならどこでも嬉しいです』

「嬉しい事を言ってくれる。…その日は先程送った着物を着てくれないだろうか」


膝の上に大事に抱えていた着物を包み込むようにして頷けば、杏さんは優しく笑った。胸の辺りが温かくて、ぎゅうと苦しくて。この感情を伝える為にはどうしたらいいのだろう。こんなに嬉しくてたまらないという気持ちをどうやったら全て貴方に伝えられるのかな。与えてくれる言葉、仕草が愛しくて仕方ないのに。私は言葉にするのが下手だから失礼な事を言ってしまっていないか不安になる。


「湯冷めをしてしまうな。そろそろ眠るか」

『久しぶりにこうして逢えたのでまだ話していたいのですが…』

「俺も名残惜しく思う。だが、例え毎日逢う事が出来なくとも、心は必ずゆいと共に在る」


温かく大きな手が頭を撫でてくれる。安心するこの熱が好きだった。冷たい体に温度が灯り、私もちゃんと人間なんだって実感して。きらきらと眩しい色に目が眩みそう。触れたら火傷をしてしまうだろうか。


『…月が綺麗ですね』


息を呑むように金環の目が更に真ん丸と見開く。そして柔らかく、目元が笑った。初めて夜が明けて欲しくないと思った。


「お前と見るからだな」



…最期だったんだ。

こうして穏やかに過ごせたのは。
この日の約束を今も私は信じて待ってる。ずっとずっと、もう叶わない届かない想いでも、覚えていれば、願っていればきっといつか貴方に巡り合わせてくれるのではないかと信じて。




ポンポンと頭を撫でられる感覚がして、ユラユラと現実と夢の狭間に漂っていた意識が浮上する。優しい感覚にもっと浸っていたかったけど段々覚醒していく頭で、ここは学校だから起きなければと奮い立たせ、重い瞼を押し上げた。

そこにあったのは真夏の太陽のように眩しい光。煉獄先生が頭を傾げてこちらを見ていた。


「おはよう!」

『せ、先生…?』

「うむ!もうすぐ閉館になるそうだ!」

『もうそんな時間…何か夢を見ていたような…』

「どんな夢だ?」

『それがちゃんと覚えてないんです。…でも、目が覚めた時、先生が居てくれると安心しますね』

「…それは、」

『あ!もう退出しないとですね!すぐ片付けます!』


起きて一番に先生の顔が見れるのは嬉しい反面、心臓に悪い。バクバクと周りにも聞こえるんじゃないかってほど鼓動が煩い。それを気付かれないよう平常心を繕って机に広げていた本を掻き集めて元の本棚に片付けた。先生は私が終わるまで待っていてくれた。そういう優しさが刺さるほど嬉しい。いつもツボを一つ一つ押していく人だと思う。

好きになると相手の仕草が全部愛しく見えるというけれど、それとこれは少し別のような気もする。なんだろう、望んでいる事を見透かされているというか…これが大人の対応なのかな。先生と生徒の関係じゃなければもう少し近くにいれたのかな。出来る事ならもっと早く生まれたかったな。


図書室を出て、二人きりの廊下を歩く。窓から見える傾きかけた太陽、誰もいない教室、校庭から聞こえる部活の掛け声。普段と何一つ変わらない情景。すぐ隣に先生が居て、手を伸ばしたら簡単に届いてしまう距離がもどかしい。

柔軟剤のような優しい香水が余計に心臓をザワつかせた。どこのブランドのものを付けてるんだろう。街中で同じ匂いがする度、どうしても振り返ってしまうんだ。


「学校は楽しいか?」

『楽しいです。友達もみんな優しくて』

「それは良かった!あの少年からもその後なにか言われたりは?」

『何もないので大丈夫です。気にかけて下さり、ありがとうございます』

「少しでも力になりたいからな。勉強の事に限らず困った事があったらいつでもおいで」

『本当に先生のところへ沢山行ってしまうかもしれませんっ』

「それは大歓迎だ!」


先生は誰にでも優しい。
分かっていても、今向けられた言葉は心を満たすには充分すぎるもので。居心地が良いなぁ。ずっとこの声を聞いていたいなぁ。


『先生はまだ帰れないんですか?』

「そうだな、明日の準備をしておきたいのでもう少しかかるかもしれん」

『忙しいですね』

「好きな事なので苦ではないぞ!」

『先生がどれだけ考えて授業をしてくれているのか皆ちゃんと分かっています。だから歴史を嫌いな人はこの学校で誰もいないです!』


ガッツポーズしながら自信満々に言えば、先生はありがとうと耳障りの良い明るい声で笑った。静かな廊下に弾けて消える。この瞬間を切り取って何度も見たかった。


「そう言ってもらえるなら尚のこと頑張らねばな!」

『でも無理は禁物です!煉獄先生が倒れたらみんな心配しますからっ』

「君もか?」

『もちろんですっ』

「それは嬉しいかぎりだ」


真ん丸の目が夕日に照らされてキラキラと反射してる。至近距離でまともに浴びたから視界がチカチカした。吸い込まれそうな澄んだ瞳がゆっくりと瞬きをして、長い睫毛が揺れてる。整った顔をこんな真っ正面から見ていてもいいのだろうかと。こんなに幸せを浴びてしまってバチは当たらないかな。まるで夢みたいな光景に意識が吸い寄せられる。


『先生の傍はポカポカしてて温かいです。ずっと…そうだった気がします』

「ずっと、か」

『太陽みたいな人だと思います。だからみんなその熱に焦がれて…』


大きくて頼りになる背中に『いってらっしゃい』と言葉を送った。「行ってくる」と貴方は歩き出した。あの時、怒られても飽きられても貴方を止めていれば良かった。あの任務には私が行きたかった。


「お前と見るからだな」


ならば、どうして貴方は隣に居ないのですか。


「俺も名残惜しく思う。だが、例え毎日逢う事が出来なくとも、心は必ずゆいと共に在る」


それが最期だったんだ。
次に逢った時はもう冷たくて、呼んでも返ってこなくて。

日が落ちて、また昇る。
当たり前の事なのに貴方が居なくなってから、色も温度も全てが色褪せたんだ。




まるでフラッシュバックみたいに情景が巻き戻されていく。じわじわと溢れ出した想いが怖くなり、先生の袖を無意識に掴んでしまっていた。掴んだ私より驚いて見開かれる緋色の目。すぐに手を離して何でもないよう笑ってみたけど、上手く誤魔化せている気がしなかった。自分でも予想外の行動に言い訳は出てこなくて。


「どうした、話なら何でも聞く」

『…すみません。何を言おうとしたのか忘れてしまったので…思い出したらちゃんと言います』

「風雪、」

『先生、また明日っ』


まともに目を見れなくて、半ば言い逃げのように廊下を駆け出した。

どうしちゃったんだろう、泣きそうだ。先生と居ると嬉しいのに同時に悲しくて、苦しくて、情緒不安定になる。近付けば近付くほど纏わりつく負の感情が大きくなっていった。

振り返らずに走り、階段を降りようとした時、後ろからぐいっと腕を掴まれて引き止められる。掴んだのは追いかけてきてくれた先生で、今まで見た事ない必死な表情をしていた。


「…頼む。君にはそんな顔をしてほしくない」

『先生…?』

「笑っていてほしい。毎日が楽しいと、明日が待ち遠しいと」

『どうして、』

「俺が君に願うのはそれだけだ」


掴まれていた手がパッと離れる。触れていた場所が燃えているかのように熱い。まるで火傷のように深く、肌に痕を残していく。

私が声を掛けるより早く、先生は「気をつけて帰るように」と力なく笑って階段を上がっていってしまった。徐々に遠ざかっていく足音が寂しくて、迷子になった小さな子供みたいに不安になる。

あんな顔をさせたかったワケじゃないのに。私だって先生には笑っていてほしいのに。毎日が楽しいって。楽しい時は笑って、辛い時は泣いて、自分の気持ちには素直でいてほしいのに。


「私の前では一人の人間でいてほしいです。自分に嘘はつかないで』






季節外れの風鈴の音がする

まるで誰かの泣いてる声と似ていた















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