星の華
『リュウ、」
この声に呼ばれると全身に電流が駆け巡る。嬉しくて笑みが溢れそうになるのを堪えて平常心を装ってた。本当はそんな私の浅はかな行動は筒抜けだったかもしれない。だけど貴方は気付かないフリをして私を見つける度に声をかけてくれていた。隣は居心地が良かった。
ずっと続くと思ってたんだ。
幸せは砂の城と一緒で少しの風でも崩れやすいって知ってるはずなのに。
それでも貴方の声が届く範囲に居たかった。
冷たい体に熱が籠る。
ああ、抱き締めて呼び止めればよかったと。
あの日に戻れるなら困らせてでも、恨まれてでも止めたかった。
いかないで、と。
18時を過ぎても夏の空は明るかった。提灯の明かりが一斉に灯り、横をわたがしを持った子供達が通りすぎる。トウモロコシの焼ける香ばしい匂い。水風船の弾む音。屋台の呼び込む声。蝉の鳴き声に、楽しそうな人々の声が交互に反響する。
慣れない下駄を弄ばせながら今しがた買った林檎飴を口に運ぶ。隣を歩くしのぶはあんず飴を食べていた。菖蒲色の浴衣に藍色の帯が良く似合う。話す度に揺れる簪と花が綻ぶような笑顔がとても可愛いかった。先程から通り過ぎる人達が頬を赤くして振り返るのも無理はない。
『どんどん人が多くなってきたね』
「本当ね。知ってる人がいても分からないわ」
『花火までもう少し時間があるから先に食べたいもの買ってきちゃおっか』
「リュウは何たべたい?」
『たこ焼きと、フランクフルトと、お好み焼きと…』
「両手がいっぱいになっちゃうね。でもリュウが沢山食べてるのを見ると安心する」
『私も。何でだろう、しのぶが美味しそうに食べてるのを見ると嬉しくなるの』
不思議だね、と笑いかければ私を映す大きな目がぱちぱちと瞬きをして同じように笑いかけてくれた。大切だと言うのは簡単だけど守り抜くのは難しくて。ずっと、なんて言葉はどれだけ尊いものなのか知っている。永遠を願うのは簡単でも、叶えるのはどれだけ大変な事なのかも。
こうして色違いの浴衣を着て、お互いに似合いそうな簪を選び合って、いつもより大人っぽい化粧をして、好きなものを食べながら色とりどりの話が出来る今を、ずっとずっと忘れずに胸の中に閉まっておきたいと思った。
何となく寂しくなって誤魔化すように林檎飴を齧る。ガリガリと小さな破片と頬がぎゅうとなるような甘さが口内に広がった。舌を切ってしまわないよう少しずつ少しずつ食べていると、ふいにしのぶが顔を覗き込んでくる。その仕草に合わせて簪が涼やかな音を立てた。
「リュウ、煉獄先生のことはいいの?」
『…うん、好きな人には幸せになってもらいたい。先生は優しいから気を遣ってくれるけど、それだと甘えちゃってダメなんだ。ちゃんと区切りを決めないと』
「私が一緒に車で帰るように言ったから…嫌な思いをさせてごめんね」
『そんなことないよ!少しの時間でも煉獄先生と一緒に入れて嬉しかったから。それに早く知れて良かった。これ以上好きにならないよう今までみたいに関わるのは止めようと思うの』
「リュウ…でもね、」
「ねぇねぇ、君達すっごい可愛いね!!何歳?俺達と一緒にお祭りまわらない?」
浴衣を緩く着崩した大学生くらいの二人組が通せん坊するように進路を塞いできた。知ってる人でもないし、特に関わる理由もないからしのぶの手を引いて横を通り過ぎようとしたけど、肩を掴まれて引き寄せられる。よろけた拍子に下駄で挫いて痛かった。
「無視しないでよ〜、寂しいじゃんっ」
「食べたいもの何でも買ってあげるからさ!」
「この子から手を離して下さい」
『二人でまわるので退いてくれませんか』
「怒った顔も可愛い〜っ!連絡先教えて?」
『だから、』
「先輩達に汚い手で触らないで下さい」
突如、横から伸びてきた手が私の肩に置かれていた男の手を捻って掴み上げる。私服姿で気付くのが遅れたけど、掴んだのは鈴菜ちゃんだった。隣にはカナヲちゃんと炭治郎くん達もいる。善逸くんと伊之助くんは今にも男二人に飛び掛かって行きそうで、それを炭治郎くんが服を引っ張って必死に抑えていた。
「なに?邪魔しないでくれる?」
「あ!君も一緒にまわるー??そっちの女の子も可愛いし!!」
「おどえらァァァ!!気安く女の子に話しかけるなよォォォ!!」
「ぶっ殺すぞ!!」
「善逸!伊之助!やめるんだ!周りの迷惑になるから!!」
「ちょっっと顔がイイからって??ベタベタ触るのはどーかと思いますけどォォォ!?」
「おわっ!お前らなんだよ!?」
「近いっつーの!!」
善逸くんと伊之助くんの怒涛の凄みに二人組は相手にするのが嫌になったのか、罰が悪そうに去って行った。男達だけではなく、周りの人達からも白い目で見られてしまっているのは内緒にしておこう。
『助けてくれてありがとう。迷惑かけてごめんね…鈴菜ちゃん達にも嫌な思いさせちゃったね』
「私は全然大丈夫です!絡んできたアイツらが悪いんですから!!リュウ先輩が謝る事ないです!」
「そうですよ!そしてお二人の浴衣姿が美しすぎて心臓止まりそう!!!!」
「キーキーうるせぇぞ!紋逸!!」
「痛っ!殴らないでよ!暴力反対!!リュウ先輩!しのぶ先輩〜っ!!」
「あらあら、仲良くしないとダメですよ〜」
「おーい、お前らぁ。1km先まで声が聴こえてんぞ〜」
「げっ!輩先生!!」
人混みの中、頭一つ飛び抜けている宇髄先生が手を振りながらこちらへ歩いてくる。隣には冨岡先生、そして煉獄先生も一緒だった。花火大会や夏祭りの巡回も先生の仕事でよく見廻りをしているとは聞いていたけど、まさかこんなタイミング良く出くわすなんて。
思いもよらない出来事に心臓がドキドキと速く走り出す。車での件があってから何となく一人で気まずくなってしまい、先生達が目の前にやって来ても目を合わす事が出来なくて逸らしてしまった。
本当は逢えて嬉しいのに、素直に喜べなくて。だけど挨拶だけはちゃんとしなきゃと俯いていた顔を上げたら、煉獄先生の大きな瞳と目が合って喉がひゅうと音を立てて閉まった。
「よく似合っている。普段より大人びて見えるぞ」
『ありがとうございます…っ。母に着付けてもらったんです』
「そうだったのか。帯も着付け方も綺麗だが、何より君によく似合う色だ」
先生から温かく穏やかな言葉が落ちてくる。学校の時と印象が違って見えるのは何でだろう。服装だっていつもと同じ格好なのに夜だからかな。先生じゃなく、一人の男の人だって変に意識してしまいそうになる。
『…煉獄先生は浴衣は着ますか?』
「昔は母が着せてくれていたが、今はあまり着る機会がなくなってな」
『そうなんですね。先生の浴衣姿見てみたかったです』
「君が覚えていたら来年は着る事にしよう!」
『お、覚えてます!絶対に!』
来年の今頃、私の隣には誰がいるんだろう。先生の隣には誰がいるんだろう。好きな人には幸せでいてほしいと思う反面、叶わないという寂しさが氷となって胸の一番深い所へ落ちていく。先生の優しさで溶けて、跡形もなく消えてしまう。先生は遠い人だ。手の届かない遠い人。
時間が経つにつれ、人がどんどん集まってきた。さっきまで辺りを照らしていた夕陽は沈み、代わりに月が悠々と浮かんで屋台の明かりや提灯が赤く柔らかな灯りを讃えている。
すぐ横を走り抜けていく小学生の群れによろけて転びそうになったところを煉獄先生が咄嗟に手を出して支えてくれた。腰に回る大きな腕に恥ずかしさと嬉しさで胸がいっぱいになる。慌ててお礼を言って離れたけど、飛び出してしまいそうなほど鼓動が煩くて仕方なかった。
しのぶ達の方へ行こうと振り返った先に皆の姿はなかった。次から次へと流れてくる大勢の人達の波に呑まれて逸れてしまったみたいだ。どうしようかとキョロキョロ周りを見渡す私の手首を煉獄先生が優しく掴む。
「ここは道の真ん中だから少し端へ寄ろうか」
『はい、でもみんなが』
「宇髄達もいるので大丈夫だ。危ないからこっちへおいで」
履き慣れない下駄で転ばないように先生はゆっくりと歩幅を合わせて引っ張っていってくれる。そんな優しさが凄く嬉しかった。格好つけるワケでもなく、さらりとやってしまうところとか大人だなぁって自分との違いにいつも驚かされる。
人混みをかき分け、縫う様に進む先生を一歩後ろから見ていた。私より一回りも二回りも大きな手が沸騰しそうなくらい熱を持っていて、掴まれている手が火傷してしまいそうだと思った。
「寒いなら俺が温める!!」
「落ち着くまでこうしていよう」
懐かしい。
同じ声に、同じ温度に遥か昔、導いてもらった気がする。どこかで聞いたんだろう。どこで出逢ったんだろう。
ずっとこの繰り返しだ。
答えのない問いかけをしてる。
どうして、なんでって。
ぐるぐると頭の中を回って。
ふわふわ揺れてる金色に赤が混じった髪、Yシャツの擦れる音、力強い足音、優しく胸が締め付けられるような香水の匂い。夢じゃなくて本当に先生が目の前にいる。このまま二人でどこか行ってしまいたい。決して許されないのに、着いて行けば行くほどその後ろ姿に抱き付きたくなってしまって仕方なかった。
その時ドンっ!と大きな音が一つ、辺りに響いて先生は足を止めた。つられて止まれば帳の降りた空へまた一つ、色とりどりの大きな華が咲いて、散る。周りから明るい歓声が上がった。
「花火が始まってしまったな!」
『もう19時になったんですね。人も随分増えてきました』
「みんなと見たかっただろう。すまない、俺と見る事になってしまったな。早く探して、」
『…先生が良ければ…このままここで見ていたいです、』
図々しい申し出だ。
離れると言っておきながら自分から近付こうとしている。近くに居れば居るほど辛くなるのに、離れる事の方が苦しかった。
一体何て言われるか怖かったけど先生は驚いた顔をした後、静かに瞬きをして「そうしようか」と穏やかに笑った。眉を下げて優しく笑む表情に頭が真っ白になりそうだった。
一つ上がって華が咲き、二つ上がって華が咲き、重なる大きな光が雨の様に降り注いでくる。ドンっと体に響く音、風に流されて火薬の匂いがする。すぐ横で先生は腕組みをしながら楽しげに花火を見上げていた。噂では能や歌舞伎が好きだと聞いたから花火などのお祭り事は胸が騒ぐのかな。生徒達に見せる時とは違って子供のような無邪気さが見え隠れしていた。
「今のは一際大きいな!四尺玉だろう!!」
『先生は花火、好きですか?』
緋色の大きな目が空から視線を外し、私の方へ向けられる。花火の音、人々の歓声、写真や動画を撮る音、出店の呼び掛け、たくさんの音で溢れているのに。
「好きだ」
全ての音が止まった気がした。瞬きせず、ジッとこちらの反応を伺っているような視線。好きだと言ったのは花火の事なのに、意識してしまう心臓がひっくり返ってしまうかと思った。
「君は好きか?」
『…私も、好きです』
「そうか…、同じだな」
先生の目元が優しく緩む。
まるで愛おしむかの様に口元も笑っていて。
ああ、いいなと思った。
先生の好きな人はこの表情をいつも向けられているんだ。
分かっているはずなのにチクリと胸が痛む。
ここで逢えただけでも十分幸せなのに、それ以上を求めるのは強欲な考えだ。自惚れるな。ただの先生と生徒だ。ハマればハマるほど辛くなるのは自分なのに。伸ばせばすぐ届く距離に先生がいる。でも伸ばしてはいけない手だった。
ああ、先生の好きな人になりたかったなぁ。
色とりどりの光が先生の髪や肌に映る。まるで水面いっぱいに浮かぶ水風船のように綺麗で、この光景を忘れないよう目に焼き付ける事に必死だった。
約束したのは誰だったか
胸が躍ったのは何故だったか
声が浮かんでは消え
映像が浮かんでは消え
まるでこの空のように静かに散っていく
また、届かないのかな
星の華
地面に転がった鬼の首がパラパラと灰になり、上へ上へと昇っていく。刀を鞘に納めて、その行方を辿れば真っ暗だった空が徐々に赤みを帯び始めていた。地平線から差し込む陽光が深い森へ浸透していく。
ーーー眩しいな。
「師範、夜明けですね」
隣に居る鈴菜が安堵の声を出す。鬼殺隊は太陽が沈むのと同時に動き出し、太陽が昇ってから眠りにつく。だから朝日はホッとするんだ。
それなのに今日は胸がざわつく。手足の先から凍っていくような、痺れていくような感覚。木々の揺れがいつにも増して騒いでいるように聞こえて気味が悪い。まだ殺しそこねた鬼がいる…?
「…リュウ」
『…っ、』
ふいに聞き覚えある声がして振り返った。だけどそこには後処理をする隠の人達と不思議そうな表情を浮かべる鈴菜がいるだけ。季節外れの温かな風が体を貫いていく。
「どうかしましたか?」
『…なんでもないよ、戻ろうか』
嫌な予感を脱ぎ払うように踵を返し、歩き出したが鎹鴉の羽音が聞こえて立ち止まる。新しい任務だろうか、そう思ったのに伝えにきた子の目に光る雫が浮かんでいるのが見えて全身の血の気が引いていった。
ああ、沈む。
沈んでしまう。
「上弦ノ参ト戦闘ノ末二、煉獄杏寿郎…死亡ーーッ」
鈴菜が崩れ落ちる音がやけにはっきりと聞こえた。
「乗客二百名ハ無事ーーー」
私の太陽は、もう昇らない。
あの温かさを感じることも、あの笑顔を見ることも、あの快活な声に名前を呼んでもらうことも。もう二度とない。
もう二度と逢えないんだ。
.
Home/Main/Back