罪
槇寿郎さんと言い合いになってから三つ目の季節が過ぎようとしていた頃、鎹鴉から煉獄家に来るよう伝達を受けた時は驚いた。千寿郎とは変わらず文通をしているけど、槇寿郎さんとは一度もない。元からやり取りをした事はなかったが、前回の事があったのでもう二度と会う事は出来ないだろうと思っていたから。
行き慣れた場所なのに妙に緊張する。門前に着くと千寿郎が待っており、こちらに気付くと駆け寄ってきてくれた。少し見ないうちに背が伸びたなぁと思う。杏さんが亡くなってから今日に至るまで認めたくない現実を受け止め、懸命に生き、向き合ってきたのだと表情を見れば分かる。身も心も成長しているんだ。私も見習わないといけないね。
千寿郎とは居間で分かれ、そのまま長い廊下を進む。突き当たりの一番奥の部屋が槇寿郎さんの部屋だ。深く深呼吸をし、中へ声を掛ける。
『槇寿郎さん、リュウです』
「…ああ、入れ」
久しぶりに聞いた声はどこか張り詰めており、まるで初めて会った時の事を思い出させた。お酒の入っていない声色が懐かしい。
部屋の中は綺麗に整頓されていた。癇癪を起こし破られた障子は張り替えられ、散らばった本は棚に仕舞われ、引きっぱなしになっていた布団も畳まれていて、着物をカチッと着た槇寿郎さんが真ん中に座って待っていた。
その静かな圧に飲み込まれそうになるのをグッと堪えてゆっくりと座布団に座り、真正面から対峙する。
「息災だったか」
『はい。今は嵐の前の静けさの様に落ち着いております』
「鬼がここまで出没しなくなったのは初めての事だな。俺の時でもこんな事は有り得なかった」
まさか槇寿郎さんの口から「鬼」という言葉が出てくるとは思っていなくて耳を疑った。柱を引退してから「鬼」や「鬼殺隊」という言葉を避け続けてきたのを知っている。なるべく考えないようにしていた事も。最初はどうしてなのか分からず寂しく思っていたけど、葬儀の日に槇寿郎さんの握り締められていた右手が僅かに震えていたのを見て気付いた。
遠ざけていたのは心配していたからだと。親として子が傷付くのが怖かったのだと。自分と同じ目にあってほしくないという願いがあったのではないか。お酒を飲み続けていたのは寂しさを思わず口に出さない様にする為だったのではないか。
「今まですまなかった」
罰が悪そうに言う姿に私は頭を振って否定した。大きな体が今は見合わないくらい小さく見える。会わなかった間、ずっとそんな事を考えていたのかと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「お前にはずっと迷惑をかけていたな」
『そんな事ないです。重症のところを助けて下さり、ここへ連れてきてくれた事。感謝しかありません』
「…大きくなったな、リュウ」
喉の奥がひゅうと音を立てる。
久しぶりに名前を呼んでもらえた。
昔と変わらない優しい声で。
全てを失い、生きる事を投げ捨ててしまいたいと思っていた私に手を差し伸ばしてくれた時と同じように。あの日の貴方の大きな手と後ろ姿を今日まで忘れた事はない。そしてその勇姿は二人の息子たちにしっかりと引き継がれているんだ。
「あの子たちの傍に居てくれてありがとう」
静かな部屋に紡がれた言葉が目の前で弾ける。そして口を引き結ぶと、私へ深く頭を下げた。動作に合わせて金色の長い髪が揺れる。予想外の光景に驚いて身を乗り出した。
『頭を上げて下さい!煉獄家の当主が頭を下げてはいけませんっ』
「父親としてお礼を言わせてほしい」
『し、槇寿郎さん…』
「親らしい事はほとんどしてやれなかったがな」
『杏寿郎さんも千寿郎も貴方の子でいれる事を誇りに思っていますよ。一度も愛を疑った事は有りません。昔も今も、これからだって』
驚いて上げられた顔と視線がまじ合う。懐かしい、本当はこんなに驚いたり、沈んだり、微笑んだり感情が豊かな人だ。瑠火さんが居た時は喜怒哀楽が目まぐるしかった。それはまるで静かな瑠火さんの気持ちを槇寿郎さんが一緒に表しているようで、とても仲睦まじい二人が好きだったんだ。
人の命には終わりがある。早いか遅いかは選べない。例え身を引き裂かれるほど悲しい事でも辛い思い出にしてはいけない。
早くに亡くなったから可哀想?
そんなこと言わないで。
可哀想じゃない。
懸命に生きた命をその一言で終わらせないでほしい。先を知ってても笑い、たくさんの愛情を注ぎながら精一杯生きた命の美しさを忘れないでほしい。覚えていてほしい。いつの時も貰った暖かさはこの胸の内にある。
「瑠火もお前も強いな。同じ目をしていた。決して狼狽える事をしなかった」
『それは槇寿郎さんが守って下さっていたからです。この家を、この家族を。だから信じて待っていられたんです』
「…かなわんな」
庭先で鳴く鳥の声や木々の葉が重なり合う音が良く聞こえるくらい静かな室内。張り詰めた空気や息苦しさはとっくに消えていた。目の前に居るのは父の顔をした槇寿郎さんだ。寂しげな背を向けたり、お酒で感情を隠す事はもうない。穏やかで誰よりも家族を大事に思う一人の父親なんだ。
ーーー生きろ、
そう言って引き上げてくれた時と同じ顔が私を見る。真剣な眼差しに身を引き締め、見つめ返す。私がやらなければいけない事。やり遂げたい事。言葉にしなくてもこの人には筒抜けなのかもしれない。
「お前も聞いていると思うが、お館様から一週間…いや、五日以内に鬼舞辻が接触してくる可能性があると伺った」
『はい、その話は存じております。お館様の考えは外れた事がありませんので確かな事だと思います。私もいつでも戦えるよう準備をしております』
「そうか…リュウ、」
『はい、』
「全てが終わったらお前の誕生日を祝おう」
思いがけない言葉に思考が停止する。暦の事は気に留めていなかったから自分の誕生日が過ぎたのも忘れていた。そして何より槇寿郎さんが覚えてくれていた事にも驚いた。
『私の事はいいのです。そのお気持ちだけで充分すぎます』
「家族として、祝わせてくれないか」
杏さんと同じ緋色の大きな目が穏やかに瞬きをする。胸がぎゅうと痛んだ。感情が飛び出してしまいそうになるのを奥歯を噛み締めて堪えた。目の奥が熱く、視界が揺れる。
ーー部外者には関係ない!!
ーーお前はこの家の敷居を跨ぐな!!
あの日、私が勝手に遠ざけた距離。
この人はずっと暖かくて優しい人だったのに。
ーーお前は鬼を斬ったんだ、弟ではない。
ーーお前と年の近い息子がいる。話し相手になってくれないか。
守ってくれてありがとう。
稽古をつけてくれてありがとう。
お出掛けをする度、お土産を買ってきてくれてありがとう。
瑠火さん、杏寿郎さん、千寿郎に会わせてくれてありがとう。
家族と言ってくれてありがとう。
たくさんたくさんありがとう。
でも、ごめんなさい。
私はもうここに帰れないと思います。認めたくないけどあの鬼は私よりも強いから、易々勝てる相手じゃないから良くて相討ちでしょう。それでも守りたい人がいるから、守りたい場所があるから行って参ります。悔いはありません。運命に抗えと言ってもらえた。信じると言ってもらえた。充分すぎる言葉を貰った。
迷惑かけてごめんなさい。
約束出来なくてごめんなさい。
それでも私は、
『私は、幸せ者です』
槇寿郎さんの驚いた顔も、全部察して柔らかく笑む顔も杏さんと重なって泣き出してしまいそうになった。
願っていいなら一つだけ。
どうか全ての人が笑って眠れる夜が来ますように。そんな当たり前な毎日が平等に与えられますように。
大好きな人達がいる大好きなこの場所へ再び来られて良かった。
千寿郎の足音が聞こえてくる。
穏やかで愛しい日々がここにある。
ただいまはもう言えないけど、その代わり沢山のありがとうを言うよ。沢山抱き締めるよ。幸せがずっとずっと続くように願って。
あとは、託します。
短くも長くも感じた夏休みが終わり、二学期が始まった。九月になっても連日三十度近くまで気温が上がり、登下校だけでのぼせそうになる。夏休みが始まる前は早く終わってほしいと思っていたのに、今は少し気が重い。それは寝ても覚めても煉獄先生の事ばかり考えてしまって一喜一憂を繰り返しているからで。
逢いたいのに、逢いたくない。
話したいのに、話したくない。
「想い人がいる」
「よく似合っているな」
「好きだ、」
目を閉じれば先生との思い出がすぐ蘇るから余計に寂しさが募った。変わらず名前を呼んでほしいのに、呼ばれたら後悔してしまいそうだった。
始業式が終わり、日直の友達を手伝おうと各教科のクラス分の宿題を集めたのはいいのだけど、私が持っていく事になった教科は何の偶然か歴史で。いつもなら飛んで喜ぶのに少し身構えてしまった。それでもどこかで顔が見たいと思ってしまってる自分がいるからどうしようもない。
余計な事は考えないように深呼吸をすると教室を後にした。
社会科準備室に着き、トントンとノックをして呼び掛けたけど中からは何の反応もなかった。いつもなら大きな声で返事をしてくれるのに。もしかして職員室に行ってて居ないのかな。一応ドアに手を掛けると鍵は掛かっていなくて簡単に空いてしまう。先生が居ないのは残念だけど、待っていたら変に思われるから今日は大人しくノートを置いて帰ろう。
そう思ってゆっくりと扉を開けると、こちらに背を向けて椅子に座ってる先生が居て思わず持っていたノートを落としそうになった。私が来た事に気付いていない…?
ノートを近くの机に置き、そーっと近付いてみれば先生は机に肘をついたまま静かに眠っていた。しかも普段見た事ない眼鏡姿だったから尚更驚いてしまう。作業する時はいつも眼鏡を掛けてたのかな…。凄い発見をしてしまった。もっと見ていたい。だけどきっと先生は毎日残業してばかりだから疲れているんだ。普段そんな素振りは一切見せないけど、教師という仕事が忙しいという事は分かる。
生徒が分かりやすいように、楽しく勉強が出来るように一所懸命に向き合ってくれている事を知っている。だから沢山の人達に慕われている事も。そんな先生だから、私は好きになったんです。
静かな寝息に合わせて金色の髪が揺れてる。触ったらフワフワと柔らかいのかな。これ以上ここに居たら私欲が溢れて止まらなくなるから帰らなきゃ。そう思ったのに、先生の目がゆっくりと開いて微睡む瞳が私を映す。起こしてしまったと思って急いでこの場から離れようとした私の腕を、先生が掴んだ。
「行くな、」
眼鏡越しに目と目が合った。緋色が燃えてる。真っ直ぐに逸らさず体の芯まで溶かしそうなほどの色で。掴まれている腕が熱い。服越しでも分かる先生の大きな手。だけど、どうしてだろう。焦点が合っているようでどこか遠くを映すかのような視線。私を通して違う人を見ているみたいだった。ギリギリと増す腕の力に思わず声が漏れれば、先生は我に返ってその手を離した。
「す、すまない。間違えた」
『え、あ…大丈夫、です』
間違えた?
先生の好きな人と?
だから違和感があったんだ。
この人の見つめる先に居られる人になりたかった。
行くな、と呼び止めてもらえる人になりたかった。
好きだと言ってもらえる人になりたかった。
『…集めたノート、ここの机に置いておきますね』
「ああ、ありがとう。その、だな…」
『失礼しました』
「風雪…っ」
名前を呼ばれたけど、振り向かずに部屋を飛び出した。あのままあの場所に居たら泣いてしまいそうだったから。
甘い夢だ。
溺れた罪だ。
先生はみんなに優しいから、私もその内の一人だから。ただの生徒なんだと分かってたのに、近付きすぎた罰だ。遠くに行かなきゃ。ずっと遠く。先生の姿が見えない場所まで。
無我夢中で走っていたら角を曲がった時に前から来た人と正面からぶつかってしまった。反動で後ろに倒れそうになったところを腰に回された腕に支えられる。慌てて顔を上げた先に居たのは眉を顰めた不死川先生だった。
「前見て歩けェ」
『すみません!大丈夫でしたかっ?!』
「それはこっちのセリフだァ。怪我はしてねぇかァ?」
『してないですっ。ありがとうございます!』
先生は支えてくれていた腕を離すと、そのまま腕を組んでお礼を言いながら頭を下げた私を上から黙って見ていた。眼力と圧が凄い。ダイレクトに開いた胸元へ飛び込んでしまった事実に冷や汗が止まらない。普通なら死刑宣告だろう。
「何か言われたらいつでも言うように!」
「少しでも君の力になりたいんだ」
ああ、なんで煉獄先生の事を思い出すんだろう。今は考えたくないのにさっきの情景が容赦なく浮かんでくる。先生は一体、誰を見ていたんだろう。何を考えていたんだろう。
胸が痛くて苦しい。
好きになるんじゃなかった…。
「おい、着いてきなァ」
え、と聞き返す間もなく不死川先生はスタスタと廊下を歩いていってしまう。慌てて後をついて行くと辿り着いたのは数学準備室で、中に入るよう促され戸惑いながらも足を踏み入れた。中はペンの位置、本の向きなど細かなところまで綺麗に整頓されている。ごちゃごちゃしたのが嫌いな先生らしいと思った。
そういえば初めて入った部屋だ。
宇髄先生とは違うシトラスの爽やかな匂いで溢れてる。落ち着きなく室内を見渡していると先生が机に置いてあったお菓子を私の手のひらにポンと置いた。
「それやるよォ」
『ありがとうございます。でも、どうして…』
「辛気臭ぇ顔してやがったからなァ。甘いモンでも食って笑ってろォ」
『先生、優しいですね』
「あ?努力してるヤツは嫌いじゃねぇからなァ」
努力…そんな風に言ってもらえるような事は何もしてきてない。現に今だって逃げてきてしまった。勝手に悲劇のヒロインみたいに悲しくなって落ち込んで一体何がしたいんだろう。近付いたのは私なのに、後悔なんかして馬鹿みたいだなぁ…。
『先生は好きな人、いますか?』
ピタっとコーヒーの入ったコップを持つ不死川先生の手が止まり、目をパチクリと大きく見開く。まさかそんなに驚かれるとは思っていなかった。
「俺に恋愛相談する物好きはお前くらいなモンだぜ。何だァ、告られでもしたか?」
『…失恋したんです』
今度は盛大に咽させてしまった。先生が意外とリアクションしてくれる事に驚く。強面だけど面倒見が良く、教えるのも上手いから不死川先生も生徒達から好かれていた。表立って騒ぐと怒られてしまうから陰ながらにだけど。
「本当にフラれたのかァ?」
『好きな人がいるみたいです』
「だから諦めんのか?勝算があるから好きになるんじゃねぇだろォ」
『先生…格好いい。ファンの子に教えてもいいですか』
「ンなモンいるわけねェ」
『モテモテなんですよ』
「なんだそりゃあ。それこそ好きな奴から好かれなきゃ意味ねぇだろうがァ」
『先生、やっぱり好きな人がいるんですね』
ジッとこっちを見たかと思ったら大きな溜息をつかれてしまう。馴れ馴れしいと怒られてしまうだろうか。先生はコップを机に置き、立ち上がって傍に来たかと思うと頭を乱暴にかき混ぜてくる。まるで年下の兄弟にやるような優しい感覚に心がホワホワと温かくなったのも束の間、おでこをデコピンされて一気に目が覚めた。
「それ食べたらお子ちゃまは帰んなァ」
おでこを押さえて唸る私に口角を上げて揶揄うように言う姿に何だか恥ずかしくなる。長女だから撫でる側はあっても撫でられる事は滅多にない。だから慣れない。こうやって諭される事も。
『実弥さんは甘い物が好きなんですね』
「…何でそう思ったァ」
『先程、甘味屋の方を見ていたのでそうなのかな、と思いまして』
「意外だって言いてぇんだろ」
『私も好きなので同じだなぁと。任務前に少し寄って行きませんか?』
「…好きにしろォ」
机の隅に置かれたお菓子。インスタントコーヒーに角砂糖をコトンコトンと二つ入れ、カラカラとかき混ぜられる音が静かな部屋に響いている。貰ったお菓子は私もコンビニで良く買う好きなもの。甘くて、ホッとする。同じだ、あの頃と。あの頃っていつ…?
『…先生は、今も甘い物が好きなんですね』
ポロリと出た言葉に自分自身でも驚き、首を傾げる私の方へ先生はかき混ぜていた手を止めて振り返った。
「どういう意味で言ったァ?」
『いえ…すみません。何でこんな事言ったんだろう…』
「……」
『忘れて下さい、少しボーっとしてて』
あははと乾いた笑い声だけが虚しく響く。先生に似た声がしたんだ、頭の中で。どうしてそんな幻聴が聞こえたのか分からない。だけど温かい声色だった。だから嬉しい気持ちになった。
「タイミング良く逢えるといいな!」
「地味に自分を卑下する必要ねぇよ。祭りの神の俺が人肌脱いでやる!」
「努力してる奴は嫌いじゃねぇからなァ」
煉獄先生も宇髄先生も不死川先生も大きな手だった。強くて、温かくて優しい手だ。
一人で突っ走って、一人で落ち込んで何をやってるんだろう。好きにならなきゃ良かったなんて嘘だ。好きになって良かった。出逢えて良かった。そこを間違えてはいけない。後悔してはいけない。
不死川先生のお陰で気持ちも少し落ち着いた。一人だったらもっともっと悪い方向に考えていたと思う。お礼を言ったら先生は「何が?」というような顔をしていたけど、そこもまた先生らしくていいと思った。
沈んでいたって何も始まらない。
好きだから、幸せになってほしい。
煉獄先生の恋を応援しよう。
すぐには切り替えられなくて時間は掛かってしまうけど、近すぎてしまったから離れなきゃ。このまま傍に居ても苦しくなる一方だ。
楽しかった日を忘れてはいけない。
無駄にしてはいけない。
辛い思い出にしてはいけない。
貰ったチョコを一口頬張る。
ほろ苦い大人の味がした。
罪
あの時にこうしていれば、と思うのは今自分が未来に生きているからだ。
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