一念







『…月が綺麗ですね』



その言葉の意味を知っていたのだろうか。
俺の返事は伝わっていたのだろうか。


二十歳になった日、隣で祝ってくれた事が嬉しかった。母上が亡くなった時、泣きじゃくる千寿郎を慰める俺を支えてくれたのはリュウだった。いてほしい時にいつも傍にいてくれる。いつしか拠り所となり、近くにいる事を望んだ。


「十日後、浅草で花火が上がるそうだ。共に見に行かないか」


リュウは十八になっていた。
お互い忙しく、祝えなかったのでちゃんと言葉と形にしたいと思った。

リュウにとって「十八歳」は特別なものだった。その歳になったら迎えに行くと鬼に言われていたのだ。己の番にする為に、ご丁寧に左手の甲へ呪印まで残して。鬼の言う事を鵜呑みにしてはいけない。本人自身も信じてはいないが、気味の悪さは残るだろう。ましてやその鬼に家族を殺されているなら尚更だ。

リュウはその鬼をずっと探し続けていた。自分の手で殺す為に。殺したところで失った命は戻らない事は分かっている。だがやらずにはいられない、そんな時代だった。


「その日、先程送った着物を着てくれると嬉しい」


俺の言葉に腕の中に抱えていた着物をぎゅっと抱き寄せて小さく頷く姿が愛しい。

俺はリュウに想いを告げようと思っていた。

次々と夜空に上がる無数の大華たちの下で本当は。守りたいものがあるから心を燃やせる。守りたいものがあるから弱みになる。それは繊細で紙一重なのだと、父上を見ていて思い知った。それでも守りたいと、傍にいたいという想いが溢れ出て仕方なく、リュウに似合う色を選んで仕立ててもらったのだ。


任務で乗車した列車の窓から外を眺めながら、白い肌によく映える着物を着て笑う姿を思い描いていた。屋台で好きなものを食べよう。金魚掬いをやっていったら千寿郎も喜ぶだろう。水風船掬いもいい。確かリュウは得意だったな。初めて共に祭りへ行った時、まるで幼な子のように目を輝かせて辺りを見渡していた光景が昨日の事のように思い出せる。

そんな幸せを見てみたかった。
あの着物を着たお前はとても綺麗だっただろう。
見れなかった事がただただ名残惜しい。


…そう思っていたが。
夏休み、花火大会の見廻りをしに宇髄達と会場へ足を運んだ先にリュウを見つけた。何の偶然か、彼女が着ていた浴衣は昔に俺が送った着物と同じ色のもので思わず見惚れてしまった。

髪を耳に掛ける仕草に合わせて紅い簪が揺れる。いつもより大人びた雰囲気を纏っているのは化粧のせいか。赤みがかった目元。節目がちに言葉を探す長い睫毛が震えている。形の良い紅色の唇は林檎飴のように艶やかに色めいて。

やはり、思った通りだ。


「よく似合っている。普段より大人びて見えるぞ」


愛おしむように呟けば、じわりじわりと頬を紅くしてお礼を言う姿に心が満ちて温かくなる。大人気ない事は百も承知で、わざとはぐれたフリをしてリュウの手首を掴むと花火が良く見える場所まで連れ出した。


『先生は花火、好きですか?』


花火の音、屋台の呼び込む声、行き交う人々の話し声、沢山の音が混じり合う中でリュウの言葉だけがやけにハッキリと耳へ届いた。普段髪で隠れている頸が露になっている。その薄い首筋と頬に反射する花火の色。百年越しにやっと目の前でこうして花火を見る事が出来た。あの日果たせなかった約束を此処で。守れなくてすまなかった。

俺は今も昔も変わらず、お前の事が。


「好きだ」


こちらを見上げる優しい瞳に花火が映って、白い肌にほんのりと紅が差す。小さな唇が言葉を探して息を呑んだのが分かった。


「君は好きか?」

『私も、好きです』

「そうか…同じだな」


たった一言で、ここまでも心が満たされるものなのか。本当は手を引いてこのまま人混みに溶けてしまいたかった。誰も届かない場所へ連れ去ってしまいたかった。

どんなに綺麗な花や景色もお前には敵わない。

もう二度と置いていくような事はしない。


「想い人がいる」という俺の言葉をどのように受け取っただろうか。リュウにも同じような相手が居るという事実に頭が真っ白になった。その想いの先が俺であったならばどれほど良いだろう。あの子は優しいので一緒に過ごしていた頃も抱いていたのは家族のような愛情だっただろう。異性に対するものではなかったように思う。

不得意なりにリュウに対しては好意を向けていたのだが、些か抜けているところがあるからな。本人は気付いていなかったかもしれん。今世でも前世よりは反応があるように見えるが、それは俺というよりも教師という立場に対してなのかもしれない。

どうしたら意識させられるか。どうしたらその目に映る事が出来るか。リュウが他の異性と話しているだけで沸き上がる加虐心。俺のものではないというのに。






目を開けた時、リュウが心配そうな顔で覗き込んでいて咄嗟に腕を掴んでしまった。

もう離したくない、離さない。
何処にも行かせたくない、何処にも


「行くな」


お前を見失う事は二度としたくない。この手も足も顔も声も移り変わる気質も全部、全部、誰にも渡したくない。鍵を掛けて閉じ込めておきたい。他の者の目に映したくない。触れさせない。

掴む手に力が入り、ギリギリと音がする。比例するように小さく息を飲む声が聞こえてきてハッと我に返った。そこにいたのは制服を着たリュウだった。隊服ではない。ここは学校で、大正時代ではない。慌てて掴んでいた手を離すとリュウは一歩後ずさった。

現実と過去がドロドロに混じり合う。


「す、すまない。間違えた」


誤魔化そうとして出た言葉はあまりにも愚かなもので、そのままの意味を受け取ったリュウが今にも泣き出しそうな表情をした。呼び止める声も届かず、走って出て行ってしまった足音が虚しく胸の中へ落ちてくる。

追いかけられなかった。
違う、と言えなかった。
今、捕まえたとしても繋ぎ止められるような言葉をかけられないと思った。出来ないなら最初から近付かなければ良かったんだ。何とも情けないな。


あれから数日、リュウに避けられている。今までは頻繁にノートを届けに来てくれたり、授業の準備を手伝ってくれていたのがパタッと止んだ。目も合わない。廊下で見つけたと思っても話しかける前に何処かへ行ってしまう。

これが本来の距離感なのかもしれない。認めて受け入れなければならない。分かっている。分かっているのだが、正直堪えるな。


一日の授業が全て終わり、職員室の自席へ着くと大きな溜息がこぼれた。


「どーしたよ、地味にらしくねぇ溜息なんかついて」

「…取り返しのつかない事をしてしまったかもしれん」

「お!ついに手出したか!?」

「……」

「冗談だよ。そんな怖い顔すんなって」

「生徒との不純異性交友は犯罪だ」

「やめろ冨岡。火に油を注ぐなよ」

「宇髄にだけは言われたくないな」


職員室にいるのは俺と宇髄、冨岡のよく最後まで残る顔ぶれだけで、長い付き合いの二人の前だと気を張っていた感情も緩くなった。

窓から夕日が差し込んできて目を細める。ああ、眩しいな。日が落ちて夜がくるな。もう南へ北へと奔走する必要はない。だが、体に染み付いた習慣は簡単には抜けないようで、夜がくると今だに神経がピリついた。


「弟の千寿郎には自分の心のまま、正しいと思う道を進むよう伝えて欲しい。父には体を大切にして欲しいと、」

「そしてリュウには運命に抗え。お前が選んだ道を俺は信じると」



竈門少年に託した大切な者達への言葉

幸せになって欲しいと言えなかった。
そんな身勝手な押し付けを言うつもりなかった。
俺が幸せにすると言いたかった。
自分の口からちゃんと目を見て言いたかった。
だから遺書には書かなかった。
花火を見る約束を守りたかった。
甘え下手なお前を思う存分に甘やかしてみたかった。


噛み締めた奥歯が鈍い音を立てる。見兼ねた宇髄が椅子ごと俺の方へ向き直り、右人差し指を立てた。さっきまでの飄々とした雰囲気は消え失せ、真っ直ぐ瞬きせず射抜く眼光に引き寄せられる。室内の空気が変わった。


「一つ、煉獄に謝りたい事がある」

「どうした、藪から棒に」

「前に不死川玄弥は鬼喰いをしていた事は言ったな」

「ああ、聞いたぞ」

「禰豆子は知っての通り初対面の時から鬼だったし、炭治郎は最終決戦の際に鬼舞辻に鬼にされた。記憶が戻ってない、または戻るのが遅かったこの三人の特徴は"鬼"になった事だってな」

「そうだな。以前話した時に不確かではあるがその結論に至ったな」

「リュウが何故、記憶が戻らないままなのか」

「……まさか、」


耳のすぐ傍で心臓の鼓動が鳴っている。冷や汗が背中を伝い、喉がひりついて声が張り付く。まるで暗闇の中にポッカリと空いた大穴へ吸い込まれていくような感覚に指先一つ動かせなかった。


「鬼に、されたのか…」


やっとの事で溢れた声は情けないほど震えていた。何も発せず、真っ直ぐ射抜く宇髄と冨岡の目が肯定を意味する。鬼舞辻との戦いで命を落とした事は聞いていた。だが鬼になっていた事は聞いていなかった。宇髄達に気を遣わせてしまっていたのか。俺が真実を知ったら取り乱すと思ったのだろうか。リュウを遠ざけてしまうと。自暴自棄になってしまうかもしれないと。

椅子へ深く座り直すと錆びれた音が静寂の空間に反響して聞こえる。徐々に沈んでいく夕日だけが時間の流れを表していた。


「煉獄には黙ってて悪かったと思ってる。鬼になった期間の短い炭治郎は記憶が戻ってるからリュウも近いうちに戻るとは思うけどな」

「…炭治郎が思い出した時、高熱を出して数日寝込んだ。リュウもそうなると思う。もっと重い場合も考えておいた方がいい」

「…鬼にされた後、リュウはどうなった?」

「聞く覚悟はあるのか」


パタンと名簿を閉じた冨岡の凛とした声が響いた。

覚悟、か。
ずっと怖くて聞けなかったリュウの最期。
俺が死んだ後、誰とどんな風に過ごし、何を思いながら亡くなっていったのか。

冨岡の真っ直ぐな眼差しが深く刺さる。
受け入れる事をしないでどうして守れるだろうか。

リュウは十八で命を落とした。まだまだ若く、未来ある者が突然消えてしまう尊さを知っている。嫌ってほど間近で見てきた。そして今、リュウは十八になる。同じなんだ。『杏さん』と名前を呼び、駆け寄ってきてくれたあの頃と。


「鬼にされた後も意識を失う事なく最期まで氷柱として刀を振り続けていた。リュウが居なかったら炭治郎は…」


冨岡の言葉が途切れ、噛み締めるよう静かに瞬きをした。地獄絵図のような壮絶で残酷な戦いだっただろう。何十何百の者が死に、同じ数だけの命が傷を負った。全てが終わった後も残った大きな代償。文字通り命を賭けた大戦だった。みんなが守り抜いた未来だった。愛おしく、儚く、尊く、何物にも変え難い物。

目を閉じ、大きな深呼吸をしてゆっくり瞼を押し上げる。


『先生は、輪廻転生を信じますか?』

『ずっと…冷たくて、』

『お、覚えています!絶対に!』

『先生の傍はポカポカしてて温かいです。ずっと…そうだった気がします』



過去と今が入り混じって不安定に揺れていた心に寄り添う事が出来ていたのか。笑顔の裏にある言葉を拾ってやる事が出来ていたのか。己の欲だけに動いてばかりではなかったか。


「俺はその場に居れなかったが…鈴菜はリュウが灰になって空に消えていく様を見てたんだ。聞かない方がいいな」


鬼になるという事は骨も肉も残さず、跡形もなく消えていく事を意味する。まるで最初から何も無かったかのように。

そうか、リュウは守ったのだな。
最期まで運命に抗い、折れる事なく心を燃やし、戦い続けたのだな。その身に嘆称と畏敬の念を。

まるで肺が萎んだかのように呼吸がしにくかった。息を吸う度、後頭部から目の奥にかけて刺すような痛みが走る。自分の無力さを痛感し、唇を噛み締めた。口内に広がる血の味。守りたかった、本当はこの手で。それは叶わなかった。情けなさに吐き気がする。


「煉獄、あまり思い詰めるな。お前はお前の考えを貫けばいい。流されるなんてらしくないだろう」


様子を伺うように声をかけてくれた冨岡の声に顔を上げた。そして二人の視線がこちらに向いていた事にも気付く。俺が気落ちしてどうする。そんなものは今する事ではない。周りを巻き込むな。目の前で見ていた彼らの方が思う事はあるだろう。

居ても立っても居られなくなり、ありがとうとお礼を言うと頭を冷やす為に職員室を出た。


誰も居ない廊下はいつもより広く、遠く感じる。時間が止まってしまったようだった。足を止め、窓へ手を付き暗くなった外に目をやる。あの頃はこの時間帯から行動していた。東西南北、季節を問わずに鬼が出る所には何処へだって向かった。斬ったものが灰になって空へと昇っていく。雨が降れば一緒に落ちてくるのだろうか。リュウはこの空をどんな思いで見つめていたのだろうか。


「煉獄先生…?」


突如、聞き慣れた声がして視線を向ければ、そこには鈴菜が不思議そうな表情で首を傾げていた。


「こんな時間まで残ってどうしたんだ?」

「部活動が少し長引いてしまって。でももう帰ります。先生こそボーっとしてどうしたんですか?」

「いや…少し昔の事を思い出してな」

「昔の事ですか…?」

「リュウが君を継子にすると嬉しそうに報告をしに来た時の事だ」

「師範が嬉しそうにっ?!」


鈴菜は大きい声を出してしまったと気付き、ハッと口元を手で押さていたが目は爛々と輝いていた。この話は当時した事がなかったから衝撃が強かったのかもしれない。リュウも本人の前では喜びを押し殺していたから鈴菜はずっと自分から無理に押し掛けたと思っていた。もっと早くに話してやるべきだったな。


「継子にした日にすぐ来たぞ!」

「夢みたいです…師範はそういう話は一切しなかったので。初めて逢った時も怒っていました。私はいつも困らせてばかりなんです」

「それは君の事が大切だからだ。出来れば危ない任務にも行ってほしくない。傷一つ付けて欲しくないと思っていたはずだ」

「私だって…師範の事が大切だったのに」


天真爛漫な表情に影が差し、俯きながらポツリポツリと言葉を溢す。お互いがお互いを守りたくて時に歯車が合わない事があっても、誰かの為にと奮い立ち上がれる人を美しいと思う。

強さや弱さは心で決まるのだ。折れても折れてもまた磨いて叩いて研磨され鋭さを増していく。必要のないものなんて何一つない。


「"煉獄さん"」


懐かしい呼び名が鼓膜を揺らす。
俯いていた顔はただ真っ直ぐ俺を見ていた。
泣きそうな、だけど穏やかな鈴菜の表情が過去と被る。


「師範は最期、笑っていました」


「俺はその場に居れなかったが…鈴菜はリュウが灰になって空に消えていく様を見てたんだ。聞かない方がいいな」


心臓に刃が刺さるような痛みが全身を駆け巡る。発しようとした声が喉の奥でぎゅうと閉まって呼吸を止めた。拳を握り締めれば爪が手の平に深く刺さる。


『私は、綺麗じゃない』

「どうしたんだ、これは…」

『鬼が残した呪印です。これを付けられた時、一度体内に鬼の血が入りました』



鬼の血は元からあった稀血のお陰で浄化されていたが、一度は自分の体内へ侵食した血が許せなかったのだろう。怖かったのだろう。鬼にされ、変わってしまった風坊を見てどう思ったのか。悔しかったか、苦しかったか、悲しかったか、痛かったか。どうしてその時、傍に居られなかった。

それなのにお前は、笑っていたのだな。
抗うように。


「師範はあの鬼に会った日から覚悟を決めていたのだと思います。私の師範はそういう人です。そして、」


ーー今を生きています。


きっとリュウも今の鈴菜のような笑みを浮かべていたのだろう。強い子達だ。俺よりも。


『先生がどれだけ考えて準備をしてくれているのか皆ちゃんと分かってます。だから歴史を嫌いな人はこの学校で誰も居ないです!』

『先生はいつも一番に気付いてくれて、欲しい言葉を言ってくれる。ヒーローみたいですね』

『それがちゃんと覚えてないんです。…でも、目が覚めた時、先生が居てくれると安心しますね』



今もその愛情や芯の強さは変わらない。根から芽生えているものは何年何十年経とうとも色褪せず、その美しさを保ち続けている。だからこうして変わらずリュウの傍に人が集まるのだ。

お前が命を賭けて守ったものが、今もこうして繋がっている。どうか自分を卑下しないで誇ってほしい。


「師範は強くて優しくて私のずっと大好きな人です。それは煉獄さんも同じではないですか…?」

「ああ、俺も同じようにリュウを大切に想っている」

「他の人は許しませんが、煉獄さんになら取られてもいいですっ」

「そうか…君には昔から筒抜けだったな」

「二人が楽しそうだと私も幸せですから」


心の底から湧き上がるような屈託のない笑みが眩しい。

鈴菜の兄は鬼になった。そしてその兄をリュウは斬った。殆どの者が家族や大切な人を斬られたら怒り責め立てる。例え鬼になっても大切な人に変わり無いからだ。だが、鈴菜は兄を助けてくれてありがとうと真っ先にお礼を言ったのだと聞いた。その言葉にどれだけ救われたのだろう。それでもリュウは自分の罪だと背負い続けていたが。


リュウと鈴菜

この二人を間近で見てきたつもりでいたが、知らない事が沢山あったな。


「師範を大切にして下さいね」

「この身を賭けて幸せにすると約束しよう」


覚悟を決めた。
やっと、やっとだ。
リュウを迎えに行く。
誰にも譲る気はない。
避けられて話す機会も失い、目を合わす事さえ出来なくとも、この想いは百年前から変わらない。







蝶のように身軽に飛び回り、雪のように静かに降りてくる姿が今も目に焼き付いていた。刀を納め、振り返った顔が穏やかな笑みを浮かべる。


『杏さん、夜が明けますね』


空が赤らみ、水平線から朝日が昇り始める。眩しさに目を細める俺の耳に届いた無邪気な声。

この世で一番美しい光景だと思った。














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