瞑怒雨






前も後ろも分からない暗闇の中、蹲って泣いている幼い女の子が居る。震える小さな手で顔を覆い、ただひたすら声を押し殺しながら溢れる涙を流し続けて。ここは爪先から体の芯まで凍ってしまいそうなほど寒かった。


『どうして泣いてるの?』

「……弟がいなくなっちゃったの」

『迷子になっちゃったの?』

「ちがう」

『違う?』

「わたしがころしたの」

『殺した…?』

「まもれなかったの。わたし、お姉ちゃんなのに、手を離しちゃったの」


顔を上げた女の子はもう泣いていなかった。目は赤く、瞼は腫れていたが憎悪の色を灯している。深い悲しみと、温かな幸せを削ぎ落とし、唇を噛み締めて立ち上がった。腕も足も傷だらけで、乾いていない血がポタポタと涙の代わりに流れて地面を濡らす。


「アイツを殺す。その為なら私はどうなってもいい。例え鬼になったとしても構わない」

『鬼って何で…そんなもの、いるワケない…』

「いるよ。たくさん奪われてきたよ。私は、私達はずっと戦ってきたよ。朝日が昇るのを願って。そうでしょ?ずっとずっと走ってきたよ。忘れちゃったの?」


見下ろした自分の両手がボロボロの傷と泥だらけに変わる。この手は、この足はただ鬼を、斬る為に…ーー





ザーザーと地面を打ち付ける酷い雨が降っている。周りの音が何も聞こえないほど、一歩先が見えなくなるほどの雨。遠くの空が光って微かに轟く雷の音が空気を震わす。大荒れの天候のせいで交通機関に遅れが出ているとニュースで言っているのを朝ごはんを食べながら聞いていた。口を動かす度にズキズキと鈍い頭痛がする。


「忘れちゃったの?」


パチっと持っていた箸を置いて暗い窓の外へと視線を向けた。

目の前に居たあの少女を知っている。知っているはずなんだ。雪を具現化したような肌に真っ赤な目が二つ。光の見えない道を歩いていた。そこは置いてきたものが沢山溢れ返っている場所。ただただ憎いと刀を握った。あの子はきっとーー


「姉ちゃん、ボーっとしてると遅刻するよ!」


バタバタと制服に着替えた琥珀が隣の席に座り、いただきますと手を合わせてご飯を食べ始める。いつもの光景なのに、胸がぎゅうと締め付けられた。伸びた前髪が寝癖で跳ねてしまっている。中学に入ってから急に背が伸びてあっという間に身長は抜かされてしまった。あの頃は見れなかった姿だ。

あの頃…?


『…おはよう、今日は雨だけど部活あるの?』

「いつもは雨だとないけど、大会が近いから室内でやるみたいでさ。だからいつもと同じ時間に出るから!」

『雨凄いから気をつけてね。あと前髪が跳ねてるよ』

「うわ!本当だ!直してる時間ないからこのままでいいや!どうせ濡れるし!」


全部食べ終え、鞄を引っ掴むと慌ただしくリビングを出ていく後ろ姿を見送った。いつの間にか大きく頼もしくなった背中。守っているつもりが守られていた。…違う、守った事なんてなかった。琥珀は小さな体でも前へ飛び出し、私の盾になろうとしたんだ。


「姉ちゃんを離せ!!この化け物!!」


悲痛な叫び声と底から這い上がってくるような笑い声が何度も何度も反響してる。寒い、肺が凍りそうだ。頭が割れそうなくらい痛くて。手は冷たくなり、大きな泥濘にとらわれたかのように足が動かせない。想いがドロドロに溶けていく。

見て見ぬふりはもう出来ない。
目を逸らすな。
もう逃げるな。
ちゃんと向き合わなきゃ。





※※※


「今日の日直は風雪か。クラス分のノートを集めて俺の所へ持ってくるように」


一時間目の化学が終わり、伊黒先生に言われた通りにみんなのノートを集めて準備室のドアを軽くノックする。中から返ってきた声に惹かれるようにドアノブを回して開ければ、人体模型やホルマリン漬けが並ぶ空間に真っ白な白衣が眩しい先生が鏑丸にご飯をあげている所だった。


『先生、集めたノートを持ってきました』

「助かる。そこの机へ置いてくれ」

『分かりました。…鏑丸はどこか体調が悪いのですか?』


ノートを置きながら尋ねれば、撫でていた手を止めて先生がゆっくりと振り返る。左右で違う綺麗な色の目が僅かに丸くなった。


「どうして分かった」

『いつも先生の傍にいるのに今日はいなかったです。あと目が元気なくしゅんとしてるように見えて』

「…お前は良く見ているな。実は一昨日から食欲もなく、眠るばかりだった。今はだいぶ回復して動き回るようになってはきたが」

『風邪でしょうか…』

「温度差に弱いからな。昨日は真夏日だったのに今日は大雨で九月にしては気温が低いからだろう」


そう言って優しく撫でる先生の動作に合わせて鏑丸が嬉しそうに赤い舌をチラチラと覗かせていた。本当先生によく懐いていると思う。家族と言っていたから、大切に育ててきたんだろう。一緒だったんだ、ずっと。


「触ってみるか?」

『私が触れても大丈夫ですか…?』

「お前なら平気だ」


手招きされて先生のすぐ隣へ行き、不思議そうに頭を上げてこちらを見ている鏑丸へゆっくりと指を伸ばす。ちょんと触れた先がヒンヤリと冷たい。惚ける私に見かねたのか、鏑丸の方から真っ白な頭を指に乗っけてきた。ツルツルと弾力のある肌触り。顎の下を撫でると気持ち良さそうに真ん丸の目を細める。とても綺麗で、愛しい。


『表情豊かで可愛いですね』

「鏑丸も喜んでいる。やはりお前にも良く懐いているな」

『ずっと触れてみたかったので嬉しいです。前は驚かせちゃうと思って触れなかった、から…』


触ると冷たさに驚かせてしまうと言った私に、鏑丸は人を良く見ているから気にしなくて平気だと言ってくれた。

杏さんは体温が高いから、鏑丸が首元や懐に暖を求めて潜り込んでいる光景をよく見かけた。動物と戯れている時の杏さんは千寿郎のように無邪気で見ているだけで心が緩和されていく。みんな、暖かい場所を知っているんだ。心、焦がれる気持ちは良く分かるよ。



『…先生は見た事ない景色を懐かしいと思った事はありますか?』

「それは所謂、既視感の事か?」

『はい、自分でも変な事を言っているのは分かっているのですが…』

「……」

『先生と前にも同じ会話をした事があるような気がするんです』


突然生徒からこんな事を言われて戸惑わないワケない。困らせている事は分かってる。鏑丸も先生と私の顔を交互に見ている。少し埃っぽい空気も、電気がついてるのにどこか薄暗い灯りも、相変わらず降り続くこの天気も、ザワザワと肌を撫でて違和感を増幅させていくみたいだった。


「人は一度見たもの、感じたものは忘れない。どんな形であれ、必ず思い出す。強い想いであればあるほどな」

『伊黒先生…、』

「それが例え、今のものではなくてもだ」


凛とした真っ直ぐな声に濁っていた視界が少しずつ剥がれ落ちていく気がした。どうして先生はそう言い切れるのだろう。それは、きっと先生も同じだからなのかもしれない。同じ想いを感じた事がきっと…ーー



静寂を裂くように予鈴が鳴った。
次の授業は歴史だ。
大好きな人が教えてくれる大好きな授業だ。

だけど、化学室を出た足は自分の教室へと戻ろうとはしなかった。さっきよりも酷くなった雨音が誰も居ない廊下に容赦なく反響してる。風が出てきて木々の葉っぱが窓を叩いた。空が光り、朝よりも近くに落ちる雷の音。

前も後ろも見えない真っ暗だ。自分の足音だけが虚しく響き、爪先から冷たくなっていく体温。一歩踏み出せば薄い氷が割れる音がした。


帰ろう。
家で鈴菜が待ってる。



『鈴菜、ちゃんが…』


どうして私の帰りを待つのだろう。
大切な後輩である事に間違いない。
でも、それとは違って…


「師範、一緒に帰りましょう…?私を置いていかないで下さい…っ」


涙を拭いたかったのに、伸ばした手はボロボロと灰になって崩れていったんだ。昇っていく様をただただ見ていた。

もし生まれ変わる事が出来たら、もう一度あの大好きで大切な人達に逢いたいなぁ…









ピピピピ....と乾いた電子音が保健室に響く。私から体温計を受け取った珠世先生は温度を見ると優しく笑った。


「熱はないようですね。ですが顔色が優れないので少しここで休んでいって下さい」

『すみません、症状がないのに来てしまって』

「ないから来てはダメという事はありませんよ。それに風雪さんはゆっくり休む時間が必要です。ここは静かな所ですから好きなだけ居て下さって大丈夫ですよ」


この天気には釣り合わないくらい穏やかな優しい声音。カナエ先生と同じ柔らかさだなぁと思う。

既に本鈴は鳴っているから歴史の授業は始まってしまっている。本当は煉獄先生の授業は一度たりとも休みたくないのに、足がすくんで動けなかった。太陽のような先生に逢ったら元気になれるはずなのに。


「行くな、」

『……っ』


あの日掴まれた腕をぎゅうと掴む。燃えるほど熱く、強い力で呼び止めたかった人は誰だったんだろう。煉獄先生はどんな人を好きになるんだろう。

燻る想いを振り払うように綺麗に整頓されたベッドへ入り、頭まですっぽりと布団を被った。ガタガタと窓枠が風で揺れている。まるで台風のような雷雨。雷が近くに落ちる度、目の奥から後頭部にかけて酷く痛んだ。低気圧のせいかな…。

早く雨が上がってほしい。
晴れた青空を見たらきっとこの頭痛も息苦しい肺の痛みも落ち着くから。


「子が、居たか」

「お前の繋がりは私だけだ。それ以外は何の意味を持たない。全て殺してやる」

「弟に会わせてやろう」



雷が苦手だった。
物心ついた頃から。
ーー…違う、それより前だ。
ずっとずっと前からあの音が、暗い空が光るのが、震えてる空気が怖かった。


家の周りを守り神のように囲っていた藤の木が、ある大吹雪の夜に落ちた雷によって一部分が焼け落ちてしまった。途切れた木々の合間から鬼が…そして母が、父が、弟がーー


早く早く早く雨が上がればいい。
もう聞きたくない。
見たくない。
耳を押さえて縮こまっても容赦なく刺さる音。

目を開けてても閉じてても同じ景色が浮かぶの。大切に抱えてたものが血塗れになって足元に転がっている。拾い上げても二度と動かない。時計を巻き戻してもきっと同じだ。また死んでしまう。雪が降ってる。あの日から止まない雪が。


「リュウは俺が守る!だからどこにも行くな。そんな寂しい事はもう言わないでほしい」


ふいに布団越しに大きな手が置かれる感覚がした。それは頭の辺りをポンポンとまるで小さな子をあやすような手つきだった。なんて暖かさと優しさに満ちているんだろうと。

被っていた布団からゆっくりと顔を出す。ボンヤリと濁る視界の向こう、真っ白なカーテンを背に煉獄先生が座っていた。瞬きをする度、鮮明になっていく視界。


「雷が怖いのだろう」
「雷が怖いのか?」

「落ち着くまでこうしていよう」
「大丈夫だ!俺がここにいる!」


残像が被る。
先生に似た幼さ残る子が横でピタッと体をくっつけて、怖がる私を宥めようとしてくれていた。陽だまりのような匂いがしてる。

幸せな夢だ。

…いやだ、夢で終わりにしたくない。
この声もこの温度も現実だ。
そして何度も聞いてきた。
何度も触れてきた。
分からないなんて言いたくない。
無かった事になんてしたくない。


「人は一度見たもの、感じたものは忘れない。どんな形であれ、必ず思い出す。強い想いであればあるほどな」

強い想い……


「今は何も考えず、ゆっくり寝ていなさい」


頭を撫でながらふわりと笑う動作に合わせて桜の匂いがする。満開の花弁が先生の周りをヒラヒラと舞っているように見えた。音もなく、降り積もる様は目を奪われるほど綺麗で泣いてしまいたくなる。

花が散って枯れ落ちても想いまでは色褪せる事はない。落ちた花弁を拾って抱き締めたんだ。貴方の想いはこの胸の中にずっとある。傍に入れるだけで幸せだった。名前を呼んでもらえるだけで幸せだった。例え視線の先に居られなくても、抱いた想いが消える事はない。


『久しぶりにこうして逢えたのでまだ話していたいのですが…』

『そう言ってもらえるならいくらでも作りますよ』

『杏さん、おかえりなさい』



『夏は…苦手ですが、この手の熱は好きです』


金環の瞳が大きく見開かれる。何かを発しようとした口はギュッと引き結んで。生きている表情がこんなにも嬉しいなんて。頭を撫でてくれる手に甘えるよう擦り寄り、また静かに目を閉じた。

熱に浮かされたただの譫言だと思ってほしい。それでも伝えたい。嘘にしたくない。先生、好きです。ずっとずっと前から。あの雪が降りそうなくらい凍てついた朝、貴方が初めて手を引いてくれた時から。


ーー…杏さん、大好きです。


もう置いて逝かないで。




瞑怒


ここはとてもあたたかい
雷も雨も止んだ
波のない果てない水面が続いてる
名前を呼べばすぐ届く距離に貴方がいた

満開に咲いた桜の木をもう一度一緒に見たい

話したい事が沢山あるんです
本当に沢山あるんです
聞きたい事だって数えきれないくらい

だからここにいて、

夜が明けるまで、どうか隣で












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