泡沫の夢






見上げた空は広く高く何処までも青い。
積乱雲が優雅に浮遊している。
暑さや寒さに考慮された作りの隊服もこの猛暑の中では暑苦しかった。

額を流れる汗を拭っていると、さっきまでの快晴が嘘だったかのように頭上に暗雲が立ち込め、大粒の雨が降ってくる。任務先まではまだ距離があるので、収まるまで近くの廃寺で雨宿りをする事にした。遠くの空は晴れているところを見ると通り雨だ、すぐ止むだろう。

羽織に着いた雨粒を手で払っていると何者かが近付いてくる足音が聞こえ、動きを止めて耳を澄ます。気配を消して軽く弾むような足音。一般人のそれではないな。今は昼間だが念のため刀へ手を置きながら身構えていると、木々の影からリュウが飛び出してきた。思いもよらない人物に驚いて固まる俺を見たリュウもピタリと足を止めて目を瞬かせる。


『杏さんっ?』

「久しいな!そこに居たら濡れてしまう!こちらへ来るといいっ」


素直に俺の隣へ来て水分の含んだ羽織を脱ぐとその場で絞り始めた。随分この雨に晒されていたのだろう。隊服は無事そうだが、髪も羽織も濡れてしまっている。ポタポタと前髪から零れた雫が柔らかな頬を伝っていく様子に目が釘付けになった。

「風邪をひいてしまうぞ」と言いながら自分の羽織を掛け、その濡れた髪へ触れれば雪のような白い肌がジワジワと赤く染まり、目を僅かに伏せた。長い睫毛が揺れている。言葉を探しているのだと思った。

そういう反応をされるとつい構いたくなってしまうもので、その染まった肌へ触れようとした寸前で違和感に気付いて手を止めた。白肌が頬だけではなく、首元まで赤くなっている。どこか呼吸もいつもより速く、俺を見上げる瞳も微かに潤んでいる。

まさか、と思い額へ手を当てれば俺の体温と同じくらい熱く火照っていた。


「熱があるな、いつからだ」

『なんともないですよ、ピンピンしてます』

「リュウ、」

『……二日前からです』

「こら、無理をしたな。ここで少し休んでいくといい。俺が見張っている」

『でもっ』

「体を大切にしろとお前も言っていただろう」


う、と言葉に詰まるリュウの手首を掴んでお堂の中へと引っ張っていく。中は埃っぽくはあったが床も壁もしっかりしており外気と比べて涼しく、眠るには十分なものだった。


「濡れた羽織は干しておこう。リュウは横になってせめて雨が止むめではここで休息をとるんだ」

『…分かりました、ちゃんと休みます。でも杏さんはこれから任務だと思うので向かって下さい』

「いや、お前が起きるまでここに居よう」

『大丈夫ですよ、逃げないです』

「む、逃げる考えがあったのか」

『ち、違います、ちゃんと守りますからっ』

「冗談だ。俺がここに居たいんだ、駄目だろうか」

『…杏さんはズルいです』


甘く唇を噛み、熱で潤んだ紅い瞳が俺を映す。そんな顔で言われたらクるものがあるのだが…。いや、体調を崩している者に抱く感情ではないなと煩悩を払い除けるために両手で自分の頬を叩いた。その音にビクッと体を揺らす姿も愛しいと思ってしまう。駄目だ、集中しろ。違う、集中したら余計に見てしまう。別の事を考えるんだ。

ああでもない、こうでもないと唸る俺を見てリュウはくすりと笑うと静かに横になった。幼い頃から変わらない丸まって眠る癖。まるで猫のようだな。


先ほどより酷くなった雨に数歩先も見えない。まるで現実から切り離された二人だけの世界のようだった。容赦なく屋根や壁を叩く雨音、湿気を含んだ土の匂い、隙間から入り込む少し肌寒く感じる風。その中に香る落ち着くリュウの匂い。小さな熱はゆっくりと息を吸うたび上下し、微かに寝息が聞こえてくる。

この距離を許されている事にじんわりと胸が満たされていくのが分かった。些細な物音にも瞬時に起きてしまう警戒心の強いリュウが安心して眠ってくれている。こんなに嬉しい事はないな。


やがて遠くで雷の音が聞こえてくるとリュウは更に小さく体を縮こまらせて無意識に耳を塞ぐ仕草をした。


「…昔から雷が苦手だったな」


幼い頃、今日と同じ夏の暑い日。土砂降りの雨と共に雷が鳴り響くとリュウは部屋を飛び出して廊下を走って行ってしまった。慌てて後を追うと、普段は使われていない客間の隅っこで小さく縮こまりながら震えているのを見つけた。

締め切られた室内でも雷鳴は容赦なく鳴り響き、稲光が障子を照らすたび耳を塞いでいるリュウの両手にぎゅうっと力が入る。

そっと隣に座るとリュウはゆっくりと顔を上げた。今にも泣き出しそうな怯えた表情に驚いた。雷が怖いのか。いつからだろう。もっと幼い頃はどうしていたのだろう。母親や誰か寄り添ってくれる人はいたのだろうか。


「大丈夫だ!俺がいるぞ!」


ピタリと体をくっつけて言えば、揺れる大きな目が俺を見て静かに頷いてくれた。くっついている所から震えているのが伝わってくる。リュウにとっては困る事だが、俺は苦手な物が一つ知れて嬉しく思っていた。怒られるだろうか。そのまま雷が通り過ぎるまでずっと傍に居た。締め切られた空間に二人ぼっち。どんな事からもリュウを守れるくらい大きな存在になりたいと思った。
 

あれから幾年、今では逃げ惑う事はない。東西南北を駆け回って鬼を斬り、柱にまで上り詰めて数多の人々を守る立場となった。背負うものも傷を負う事も増えたが、昔と変わらないものがあるのは嬉しかった。

耳を押さえているリュウの手に自分の手を重ねる。前髪から覗く瞼がゆっくりと開き、安心したように目を細めた。


『杏さんは温かいです』

「落ち着くまでこうしていよう」

『夏は得意ではありませんが…、杏さんの熱は好きです』


ふにゃりと幼く笑う顔にドキリと心臓が体中を叩く。喉がひゅうと鳴いた。言葉の破壊力をきっと本人は理解していない。その表情も俺にどう映っているのか知らないだろう。

いつもより体温の高くなった肌へ吸い寄せられるようにそっと触れれば、気持ち良さそうに擦り寄ってくる。本当に猫のようだな。熱に浮かされていつもより大胆な行動をとっている自覚がリュウにない事は分かっている。だが、珍しく甘える素振りを見せる姿に愛しさが溢れて仕方なかった。あと少しでいい。このまま傍に居たい。



雨が上がらなければいいと初めて思った。








ザーザーと朝からまるでバケツをひっくり返したような土砂降りの雨が降っていた。秋の空は気まぐれに移りゆく。昨日までの残暑が嘘のように一気に下がった気温はYシャツ一枚では心許ない気がするほどだ。

交通機関に乱れが出ている為、職員室に生徒が遅延書を持って入ってくるのを何度か見かけた。徐々に強くなっていく雨風に窓枠がガタガタと壊れそうな錆びれた音をたてている。まるで台風のようだな。


二時間目の授業、いつもの席にリュウの姿はなかった。転校してきてから歴史の授業を欠席したのは初めてだ。胡蝶から保健室に行っていると聞いた瞬間、目の前が真っ白になるほどの閃光が走り、そして同時に一際大きな落雷が響き渡る。教室から悲鳴が上がり、バタバタと生徒達が騒めきたった。


「すげぇ近くに落ちたな!」

「何処だろう!?体育館とか!?」

「めっちゃビックリしたんだけど!!燃えたりとかしてないよね!?」

「こら、席に着きなさい。危ないから窓は開けてはダメだぞ」


キョロキョロと窓を開けて外の様子を見る男子生徒達に声を掛けて閉めさせる。今だにゴロゴロと地を這うような音が空気を振動させていて、絶え間ない荒々しい光を湛えていた。


…あの子は雷が苦手だ。

小さい頃は部屋の隅っこで縮こまり、耳を塞いで耐えていた。大きくなった後は逃げ惑う事はしなくなったが、それでも音が聞こえると体を強張らせていたのを知っている。

昔の事かもしれない。
だが、もし今世でも苦手だとしたら。
この落雷に一人、保健室で震えているとしたら。


「大丈夫だ!俺がいる!」


怖くないように全てが収まるまで傍にいる。どんなものからでも守る盾になる。そう幼い頃に決めたのだから。






授業が終わると足早に向かった先は保健室。ノックをし、中から返ってきた声にゆっくりとドアを開ける。奥に座って仕事をしていた珠世先生は俺を見るなり、立ち上がって近付いてきた。


「来てますよ。今は左端のベットで眠っています」

「そうですか…何か変わった事はありましたか?」

「本人から何か話す事はしませんでしたが…今、とても不安定な状態です。接し方には気をつけて下さいね」

「分かりました、善処します」

「私は少し席を外しますので風雪さんを宜しくお願いします」


お辞儀をして退出する珠世先生を見送ると、リュウが寝ているベットのカーテンを静かに開ける。頭まですっぽりと布団を被ってしまっている為、表情を見る事が出来なかったがその体が僅かに震えているのは分かった。声を掛けても返答がない所を見ると眠ってはいるようだ。

すぐ脇の椅子に腰を掛け、そっと頭の辺りに手を置く。ぽんぽんと規則正しく、起こさないよう静かに。昔もこうしてリュウの震えが止まるまで傍にいたな。強がりな子が見せるたった一つの弱さ。他の誰にも見つけられてほしくない。俺だけが知っていたい弱さ。


暫くしてふいに布団が動いたので撫でる手を止める。おずおずと顔を出したリュウのぼんやりとした目が俺に向けられた。焦点が合っていない微睡が湛えている。いま何を見て、誰の事を考えているのか。長い髪が真っ白な枕へ散って花弁のように綺麗だった。


「夏は、苦手ですが…この手の熱は好きです、」


穏やかに笑う顔が過去と被り、思わず息を呑んだ。同じ声で同じ表情で同じ状況下で同じ事を言ってくれるのか。俺の熱が好きだと、今世でもそう思ってくれるのか。

初めて逢った頃、引いて歩いたその幼く小さな手は沢山の者を導く手となった。守っていたつもりが本当はずっと守られていた。敵わないな、昔から。だから余計に愛しくて仕方なかった。

過去に囚われているのは俺だ。
後悔があるから振り返ろうとする。


「風雪、」


再び瞼を閉じた少女の名前を呼ぶが、返ってきたのは規則正しい寝息だけ。呼吸に合わせて体が上下に揺れる。もう震えは止まっていた。ふんわりと彼女によく似合う甘い香水の匂いがじわりじわりと理性を崩していく。


「……リュウ、」


柔らかい前髪をかき分け、露わになった額へ静かに口付けをする。そのまま頬まで指を滑らせ、優しく撫でた。至近距離でも警戒する事なく無防備に眠り続ける姿に込み上げる熱情。この距離を許してもらえている、その事実だけで十分だと思った。

目が覚めたらまた避けられてしまうだろうか。視線が合う事も、笑いかけてくれる事も、声を聞く事も出来なくなってしまうだろうか。たった数日だけでも十分こたえた。

だが、例えリュウの目に俺が映る事が無くなったとしても俺の気持ちが消える事はない。ちゃんと向き合えていなかった自分自身が情けなくなった。だから今度は、今度こそは揺るがない。この熱をもう二度と離したくない。誰を想っていてもいい。気持ちは変わる事はない。


「好きだ」


溢れた想いは本人に届かなくとも今はそれでいい。今は、まだ。


触れていた頬から手を離す。
名残惜しい熱を噛み締め、立ち上がった。
カーテンを開けるとちょうど保健室へ戻ってきた珠世先生が俺に小さく笑いかける。


「お話は出来ましたか?」

「本人は覚えていないと思いますが、声が聞けたので十分です」

「風雪さんも煉獄先生の顔を見れて安心したと思います」

「それは…俺も同じです」


微笑む珠世先生へ一礼し、保健室を出て小さく深呼吸をした。リュウに触れていた手が熱い。幾度となく教師という線を越えて歩み寄ってしまった事に罪悪感が無いと言ったら嘘になる。だが一人の男として向き合いたかった。

熱を求めて擦り寄ってきてくれた愛しい姿が目に焼き付いて離れない。一体この理性はいつまで保てるのかと短く溜息をついた時、向かいから胡蝶が歩いて来るのが見えた。そして俺に気付くと止まって会釈をする。


「こんにちは、煉獄先生。リュウの様子を見に来ていたのですか?」

「ああ、よく眠っていた。少しだが、顔色も良くなってきていると思うぞ」

「そうですか…先生が居て下さったら安心です。だんだんと過去の記憶が色濃く出てきて本人も混乱していると思うので…」


鬼になった竈門少年は思い出した時、高熱を出して寝込んだと聞いた。それほど体に負担がかかるものなのだ。リュウの過去を否定するつもりは一ミリもない。最期まで貫いた意思を誇りに思う。

だが、決して平坦な道ではなかった。失うものも多かっただろう。傷つき、身を引き裂かれるほどの思いも沢山してきただろう。それでも健気に前を向いて生き抜いていたのを知っている。全てを思い出した時、押し殺していた感情が溢れて心が壊れてしまうのではないかと思った。想いが強ければ強いほどその反動は大きい。彼女が悲しむ姿はもう見たくなかった。


「先生はリュウが記憶を取り戻すのは不幸だと思いますか?」

「不幸や憐れんだ事は一度もない。ただ、壊れてほしくないと思う。俺の勝手なエゴだ」

「リュウも逆の立場だったらきっと同じ事を言うと思いますよ。思い出してほしいと思うのは自分のエゴだと。本当に似た者同士ですね」

「彼女の人生は彼女自身が決める事だと分かっている。だか、欲が出てしまっていけないな」

「…煉獄さんの気持ちはあの頃と変わっていないですか?」

「ああ、何一つ変わっていない。ずっと大切に想っている」

「そんな所もリュウと同じですね」


ぱちりと大きな目を瞬かせ、ふわりと笑った。動作に合わせて髪が揺れる。冷たい廊下に色が灯り、懐かしさが込み上げた。リュウは胡蝶に良く胸の内を話した。その逆も然り。甘露寺も含め、女性三人で話に花を咲かせている光景が微笑ましかった。

身を削り、刀を振り続ける日々のひと時の安らぎ。今日は何を食べた、何処へ行ったといつもより高揚して話してくれる姿が年相応に可愛らしく、嬉しかった。


ゆっくりと目を向けた窓の先には、朝から大荒れだった雨が過ぎ去った後の眩しい空があった。雲の隙間から差す陽光によって大きな虹が掛かり、地面に出来た水溜りがキラキラと反射する。この青空の下にリュウを連れ出して思い切り抱き締めたくなった。






※※※※


文化祭当日、朝早くから登校してきた生徒達がバタバタと準備に取り掛かっていた。いつもは静かな時間帯が明るい声で満ちている。

その慌しい中にリュウもいた。
別棟の窓から見かけたから声は聞く事は出来なかったが、両手に材料を抱えながら右へ左へと楽しそうに走り回っている。いつもは下ろしている長い髪も今日は高い位置で一つに結んでおり、走るたびに揺れる姿が無邪気で愛らしかった。リュウのクラスは焼きそば屋をやると言っていたな。


「もちろんだ!君が担当の時間はもう決まっているのだろうか」

『十一時半から十三時半の二時間です』

「書き入れ時だな!頑張るように!」

『ありがとうございますっ』



リュウが当番の時間に逢いに行こう。
驚かせてしまうだろうか。
戸惑わせてしまうだろうか。
だが、もう引かないと決めた。
誰にも譲る気はないと。
もう一度その目に映っていたいと思った。


お昼時。
生徒で溢れ返る廊下を抜け、リュウの教室のドアを潜る。ソースの焼ける香ばしい匂い、はしゃぐ生徒の呼びかけの声。活気と熱気が充満する真ん中で一所懸命に焼きそばを作っている元へ行き、声をかけた。


「焼きそばを五個頂きたい!」


驚いて見開かれる大きな瞳が瞬きをする。ようやく目が合ったな。見慣れないエプロン姿が新鮮で、そして良く似合っている。たどたどしく話す声も、揺れる髪も愛しい。慌てて作り出す様子をずっと見ていた。


『先生は焼きそば、好きなんですね』

「それもあるが…一番は、」





一歩前へ出てグッと距離を詰めると、周りには聞こえないように低く声を紡ぐ。


「リュウが作ってくれるからだな」


一瞬の静寂の後、息を呑む音が鼓膜を揺らした。












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