走って走って







しのぶは自分の小さな背と手が嫌いだと言う。私は好きだと言ったら困ったように笑ってた。救う事が出来る手。みんなを守ってきた背中。柔らかな声で「大丈夫」と言わられたら、その瞬間から治ったような気持ちになって安心させてくれる。

そんなしのぶが一番救いを求めていた事を知ってる。藤の花を啄み、体内に閉じ込めて自分自身が猛毒となり、姉を奪った鬼に取り込まさせる為に生きていた。何度も反対した。やめさせようと花を取り上げた事もあった。

「友人として止めたい」と言ったら「友人として認めてほしい」と。

しのぶの強い目を見たら意思の硬さにそれ以上は何も言えなくなった。決意を踏み躙ることは出来ない。


「私、ちゃんと出来てる?」

『出来てるよ』

「ちゃんと笑えてる?」

『笑えてるよ』

「良かった、」

『でも私の前では泣いたり怒ったりしてほしい』

「してるよ、分かってる。リュウの前ではちゃんと私だから」


体内に毒を溜め込むという事はどれほど苦痛なのか本人しか分からない。胃が爛れ、食事も喉を通らない時もある。手に力が入らず、筆を持つ事が出来ない時もある。口が痺れて話しにくい時もある。

それでもやめない。
彼女自身がやめる事を許さない。

ここまで追い込んだ鬼が憎かった。人を嘲り、貪り、一生消えない深い爪痕を残していく。強くならなければ勝てない。強い、とは何か。弱さとは何か。


本当はみんな笑って生きていたいだけなのに。

叶わないこの世こそが地獄だった。











時計の針が十二時を指す前から教室内はまさに戦場だった。


「焼きそば三つ入りますー!」

『はーい!!』

「次は二つです!!」

「今やってるので少し時間下さいっ!」

『ストック無くなっちゃったから纏めて作るね!』


クラスTシャツの袖を捲り上げ、髪をポニーテールに高く結ぶ。大きな鉄板に具材と麺を入れて掻き混ぜながら焼き、パックに詰めて、渡して、お会計をする。二、三人で入れ替わり立ち替わり狭い焼き場の中、慌ただしく動き回っていた。息を吐く暇もない。お昼時の飲食店の繁盛さはやはり伊達じゃなかった。普段何気なく利用しているファミレスの店員さん達の有り難さを痛感する。当番を代わって三十分しか経ってないけど、もう既に目が回りそうだ。

だけどこれからが正念場。
弱気な事を考えている場合じゃない。


しのぶが切ってくれた野菜を受け取り、熱せられた鉄板で焼き始めれば、入り口の方で大きな歓声が上がった。何だろう、と思ったけど手を止めるワケにもいかなかったので黙々とヘラを両手に焼きそばを作っていると、頭上から聞き慣れた声が降ってくる。


「頑張っているようだな!感心感心!」


見上げた先には腕を組みながらニコニコと子供のような笑みを浮かべている煉獄先生が居た。歓声が上がったのは先生が来てくれたからだ。


「焼きそばを五個頂きたい!本当は十個と言いたいところだが、みんなの分が無くなってしまうと困るからな!だから五個だ!」


大きな手で「五!」とパーにしてこちらに向けながら目をキラキラと輝かせてて。途端に生徒達からも拍手と笑いがおこって一気にライブ会場みたいになった。


ーー…君が担当の時間はもう決まっているのだろうか


…もしかして覚えててくれたのかな。

期待するのは辛くなるだけだと分かってる。それでもこうして来てくれた事が何より嬉しかった。私が作ったものを先生が食べてくれるのか…緊張してしまう。味が濃くなりすぎちゃったり、焦がしちゃったらどうしよう。


「こんなに上手いものをいつも食べられる鈴菜が羨ましいな!俺にも毎日作ってほしいものだ!」

『何だか昔の頃を思い出して懐かしいですね。杏さんにそう言ってもらえるならいくらでも作りますよ』


いつも喜んでくれた。
作ったものは全部食べてくれていた。



瞬きの度、景色が今と入れ替わる。
穏やかな日々があった。
幸せがそこにはあった。


『五個ですね、今すぐ作りますっ』

「慌てなくて良いぞ。火傷をしてしまうと心配だからな!」

『先生は焼きそば、好きなんですね』

「それもあるが…一番はリュウが作ってくれるからだな」

『…え、』

「ん、どうした?」

『い、いま…』


名前で呼ばれた…?

目の前に居る私だけにしか聞こえないような低い静かな声。大きな目も細められ、まるで私の出方を伺っているように見えた。

聞き間違いだったのかな。
周りに音が溢れているから、都合の良いように聞こえてしまっただけだろうか。


この声に名前を呼んでもらえると体中に電流が走ったんだ。


「リュウ!焦げちゃうー!」

『わっ!ごめん!!』


ボーッと見惚れて止まってしまった手を再び動かし始める。ただ黙って向けられる視線にジワジワと顔に熱が集まっていく。鉄板のせいで熱いのか、先生のせいなのか分からない。だけど全身が燃えてしまいそうだと思った。

先生に他意はない。
変に勘繰ってはいけない。
距離を近付けてはいけない。

そう思うのに気が付いたら目で追ってるし、先生の匂いがすると立ち止まってしまうし、四六時中考えてしまう。どうやったら頭の中から先生を追い出せるのか考えたって無駄だと思い知った。そんな事が出来たら最初から好きになってない。


作り立ての五つのパックを渡すと、煉獄先生は「ありがとう!」と炭酸が弾けるような笑顔で受け取って窓側の席に座った。

『うまい!うまい!」と食べる先生の周りで生徒達が笑っていた。太陽みたいだ。いつも自然と先生の周りには人が集まる。人柄に惹き寄せられているんだ。分かるよ。その声に笑顔にどれほど助けられてきただろう。


「うまい!うまい!」

『杏さん、静かにっ。電車の中なので!』

「リュウは全然手をつけていないではないか!食べないと力が出ないぞ!」

『ちゃんと食べてますよ。杏さんが食べ過ぎなだけです』

「これでも抑えている!」

『声も抑えて下さい!』

「うまい!うまい!」

『ちょっと!』



…ああ、幸せだ。
ありふれた日常の一部だった。
見た事のない場所に連れ出してくれて、味わった事のないものを見つけてきてくれた。一つ一つが新鮮で、まるで違う世界に飛び込んでしまったような感覚に浮き足立つ。

この人の隣に居るのが大好きだった。

それは今も変わってない。
変わってないよ。




五個の焼きそばを綺麗に食べきってくれた煉獄先生を見送ると、入れ替わりで鈴菜ちゃんとカナヲちゃんが買いに来てくれた。私の姿を見るなりパタパタと嬉しそうに駆け寄ってきてくれる姿にきゅんと胸が鳴る。


「焼きそば一つ下さいっ!リュウ先輩が当番の時に来れて良かったです!」

『来てくれてありがとう!内緒に沢山入れておくね!』

「やったー!ありがとうございます!」


パックを受け取ってふにゃりと笑う姿にこちらまで同じ顔になってしまう。素直で無邪気で、とても可愛い。キラキラと星が降るようだ。弾む声に温かな瞳が揺れてる。


「師範が作って下さるご飯は全部美味しくて大好きです!」

『ありきたりな物しか作れないけど、そう言ってもらえると嬉しいな』

「ありきたりなんてとんでもない!師範のご飯は日本一です!私にも教えて下さいっ!」

『うん、一緒に作ろうね』

「やったー!ありがとうございます!」



いつか見た日の光景と被る。
変わらない笑顔がそこにはあった。
手を伸ばしたら触れる事の出来る体温。
耳障りの良い優しい音。
いつも傍にいてくれた。
最期の時まで。


『当番が終わったら鈴菜ちゃんのお店にも遊びに行くね!』

「待ってます!いっぱいサービスしますね!」

『やった!』


まるで子犬の尻尾のようにブンブンと手を振りながら教室を出て行く鈴菜ちゃん達の背を見送った。一つ、また一つと空いていた空間にカケラが降り注いでくる。それは音もなく、まるで雪のように。懐かしいと感じたのは何故か。それは見た事がある景色だからだ。…そう、見た事があるんだ。自分のこの目で。






****


「リュウー!お疲れっ!休憩にしよ!」

『お疲れ様ーっ!想像以上に売れて良かったね!大成功だ!』

「お陰で腕がパンパンだーっ!」

「少ししたら他のお店回ろっ!」

『うん!行きたい所が沢山あるんだっ!』


着ていたエプロンを脱ぎ、近くの椅子へ掛ける。水を飲みながら窓辺に寄りかかれば、外から入ってくる風が火照った体を徐々に冷やしてくれた。教室の中も、廊下も、校庭もいつもとは違う熱気と生徒達の笑い声で溢れていて比例するように心が躍る。

お祭りが大好きだ。
花火も大好きだ。
みんなが笑ってくれると嬉しいんだ。


「お祭りがやってますよ、師範!少し見て行きませんかっ?」

「金魚掬いか!連れて帰ったら千寿郎も喜ぶだろう!」

「任せろ!祭りの神の働きっぷりにひれ伏せ!そして崇め奉れよ!」

「あとはお好み焼きと林檎飴と焼きそばと綿菓子と!!」

「甘露寺さんは本当に美味しそうに食べますね。つられてお腹が空いて来ます」



ふわふわと降ってくる言の葉が白黒から色がついて鮮明に映し出されていく。立っているのは見慣れた雪の上。手で掬えば体温でジワリジワリと溶けて手の平から零れ落ちる。冷たいはずなのにそれはとても温かくて、いつも傍に居てくれた大切なものなのだと改めて実感した。掻き集めてもう一度抱き締めるの。今度はもう手離さないから。もう二度と…ーー



休憩した後、しのぶと一緒に他クラスのお店を見て回った。鈴菜ちゃんの所ではタピオカを多めに入れてくれて、カナヲちゃんの所ではパンケーキを一枚オマケで増やしてくれた。

炭治郎くん達三人組の所はお化け屋敷だった。お客さんの悲鳴より善逸くんの声の方が響いてたし、伊之助くんは隠れずにひたすら来る人を追いかけ回し、炭治郎くんはお客さんを迷わないよう出口まで案内してて。どこを見ても突っ込み所が満載で面白かった。

そして文化祭の最後はハイカラバンカラデモクラシーという宇髄先生率いるバンドにより体育館が阿鼻叫喚のとんでもない事になったけど、そんな光景も学園生活でしか味わえないものだから楽しくて仕方なかったんだ。しのぶは隣で頭を抱えていたけれど、表情は怒っているワケではなく、ほっとけないとでもいうかのように柔らかい。忘れたくない、ずっと覚えていたい。また未来でこの話をしたい。



そんな楽しい時間はあっという間に終わる。

すっかり日が落ちた校庭に生徒達が集まっていた。この学校では文化祭のあと、校庭で後夜祭としてキャンプファイヤーをやるのが恒例らしい。踊る事はしないけど、この雰囲気を利用して告白をする人が多いのだとか。

お祭りのように提灯が張り巡らされ、広い校庭の真ん中で大きな炎が先程から揺らめいている。その周りではしゃいでいる生徒の輪には混ざらず、しのぶと私は遠巻きから見ていた。普段この時間帯まで学校に居られないから自然と気持ちが高揚する。

声はここまで聞こえないけど、冨岡先生に告白している子もいた。どうやらバッサリと断ったみたいで、周りから非難轟々な姿に苦笑してしまう。


「相変わらず言葉が足りない人なんだから」

『…うん、変わってないね。本当は好物の前では笑うような素直な人なのに…勘違いされてて勿体ないね』

「リュウ…?」

『私ね…、前にもしのぶと同じ話をしたと思うの。変な事を言ってるのは自分でも分かってる。だけど、嘘じゃない』

「嘘だと思わないわ。おかしな事なんて一つもないもの。リュウはずっと向き合おうとしてくれてたから…それがどんなに不安な事だとしても」

『しのぶは知ってる…?私の事、ずっとずっと前から、』


パチパチと木々が弾けて燃える音。
炎の揺めきだけが顔を照らす。
遠くで歓声が上がる中、隣に座るしのぶは唇をきゅっと甘噛みし、やがて「うん」と小さく頷いた。


『優しい鬼はいると思う?』

「リュウがそんな事を言うのは珍しいわね」

『禰豆子を見て思ったの。人を守る鬼もいるのかと』

「…姉さんも信じてたけど、今までそんな鬼には一度も会った事はなかったわ。傲慢で平気で嘘をつくもの」

『うん…そうだね、そうだったね。善良な鬼と悪い鬼の違いを問われたら答えられない』

「リュウ、」

『もし、私が琥珀を斬らなければ…炭治郎と禰豆子のように共に生きる事が出来たのかな』



後戻り出来ない過去を願っていた事を思い出した。後悔したところで帰ってこない事もわかっているのに。もし、なんて考えたって仕方ないのに。幸せで明るい未来を描いて。

深呼吸をすれば秋の匂いと木材の焦げる匂いが肺を侵食していく。はしゃぐ生徒達の声が遠くで聞こえる。目を閉じるとすぐ雪の中へ吸い込まれた。私は知ってる。知ってるはずだ。

ただ、怖かったの。
認めたら全部崩れてしまいそうで。
認めたら逢いたくなってしまいそうで。

どうしてこの学校に来てから頻繁に夢を見るようになったのか分かった。

ここには、
みんながいるからだ…ーー



突如一陣の突風が吹き、煽られたキャンプファイヤーの火が近くの提灯へ引火すると音を立てて天高く燃え上がった。組んであった櫓を崩し、まるで生き物のようにうねり、バチバチと音を鳴らす光景に生徒から悲鳴が上がる。先生達が慌てて離れるよう指示し、消火をする姿がまるでスローモーションのように映った。

巻き上がる砂埃、焦げる匂い、甲高い悲鳴、そして刀の交わる音。走った先には柘榴のような瞳に長く伸びた爪と牙を剥き出しに吠える。斬る度に舞う血飛沫、叫び声、足音、草木の擦れる音、眩しい朝日、藤の香り、優しい声と強い目と言葉。大切なものを奪っていくのはいつもだった。

龍のように燃え盛る炎の中に人影を見た。背中に「滅」と書かれた黒い隊服に白と赤の炎に似た羽織が翻る。金色に紅の混じる絹糸のような髪が風で煽られて揺れた。腰には檜垣文様の鞘に納められた刀が一振。抜くと真っ赤に燃える炎刀が現れる事を知っている。幾度となく人を救ってきた刀だと知っている。だってそれは傍で見てきたから。

貴方の目に惹かれ、温度に救われ、声と言葉に心を燃やし、大きな背中に憧れた。

いつも聞こえていた声は夢じゃない。
見ていた景色は幻じゃない。
自分が体感したものだ。
この目と足で見て歩いてきたものだ。
細胞の一つ一つが呼び起こされていく。
肺が萎んだみたいに息が苦しい。
酷い耳鳴りがしてる。
寒くないのに手足が震える。
それでも視線は逸らせない。


燃え盛る篝火の向こうで愛しい人が立っていた。


『杏、さん…』


口をついて出た名前。
この喧騒の中、絶対聞こえるはずないのに呼ばれた本人は目を大きく見開いていた。見続けたら溶けてしまいそうなほど熱い瞳が真っ直ぐに私を射抜く。

触れたくて伸ばした手はいつも寸前で止めて下ろした。触ってしまったら戻れなくなってしまうと思ったからだ。好きなのだと自覚した日から葛藤してばかり。見返りはいらない。特別な言葉もいらない。ただ傍に居させてもらうだけでいい。だけどその願いが一番贅沢なもの。

欲張りな自分が恥ずかしかった。


次から次へと頭の中に流れてくる感情に処理が追いつかず、全てから逃げるように駆け出した。





騒ぐ生徒の波に逆らうように私の名前を呼ぶ声が聞こえた。

それでも振り返らずに走って、走って、走って…ーー













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