彼は誰時








一年の半分以上は雪に覆われている地域に生まれた。物心ついた頃から母に機織りを教えてもらい、山へ山菜を取りに行き、川へ魚を取りに行き、家の周りで野菜を作りながら暮らした。裕福ではなかったけど何一つ不自由はなく、季節の移ろいを感じられて幸福だった。


生まれた時から人より体温が低かったから寒いのは平気だった。冷たい水が流れる川も、辺りを覆いつくすほどの大雪も私はその温度を感じる事が出来ない。

みんなが小さく縮こまって暖をとろうとする意味が分からなく、それが気味が悪いと言われた事もあった。人ならざるもの、妖だとか大人や子供の隠されていない言葉に傷ついて自分の容姿と体質に塞ぎ込んだ事もあった。でも、母が父が弟が私自身を肯定してくれたから他に何もいらないと思った。親から貰った自分だから大切にしたいと思ったんだ。


ある吹雪の夜、家を揺らす風音に混じり、割くように雷が落ちて、守り神だった藤の木々が燃えた日、崩れた輪の隙間から侵入してきた鬼によって家族は殺され、バラバラになった。弟を連れて走った雪山は冷たく、初めて自由が効かなくなるくらい体が震えた。耳、足、頬、手、露出する肌に容赦なく冷気が刺さり、肺が凍ってしまいそうだった。

寒い、冷たい、痛い、苦しい、怖い。
誰か、誰か、たすけて。

みんなが身を寄せ合って暖かさを欲していた意味を知った。

泣き出しそうになるのを唇を噛み締めて堪える。誰にも頼れない。弟を守るのは私だ。私が守る。この手は絶対離さない。

…そう心に決めたのに、崖から二人で川へ落ちて流される中、大きな岩へぶつかった拍子にその幼い手を離してしまった。息が出来なく、体を押し潰す水圧に繋ぎ直そうと思った手はどれだけ伸ばしても届く事はなく、ただ滑稽に刺すほど冷たい水の中を彷徨うだけ。離れ離れになるくらいなら、二人で死んでしまいたかった。


「人間は愚かだ。奪い合い、踏み躙り、欲深く、己が満たされれば良い。鬼と何が違う?お前はこの場所に相応しくない。私と共に来い」


鬼の言う言葉の意味が分からなかった。ただ、私と同じ紅い目が体を貫いて抜けなかった。息が潰れそうなほどの威圧。沢山の大切な人が死んだ。

この日から全てが始まった。

明日がくる事が当たり前じゃないと知った。
握っていた手の尊さを知った。
助けは乞うものではなく、自分で背負っていくものだと決意した。


冷たかったよ、ずっと。
寒かったよ、ずっと。
あいたかったよ、ずっと。


夜明けが来るよ、もう起きないと。

怖くて凍えそうな夜はもう終わったよ。
名前を呼べばすぐ近くに家族がいる。
心折れそうな時、横を向けば仲間がいる。
沢山貰ったものがあった。
行かないと、伝えないと。

世界は温かく、優しい光で満ちているのだから。


『ただいまって言いに行こうよ』


黒い生地に紅い彼岸花の刺繍が入った羽織り、黒い隊服に金のボタン。鞘も柄も真っ白な刀。長い髪に赤い目と白い肌。

あの頃の私が手を伸ばして待っていた。











生徒達の悲鳴を背に足がもつれながらも前へ前へと走った。耳の横を通り過ぎる風がヒューヒューと鼓膜を刺激して、寒くないのに体が震える。目の奥が熱い。視界が滲んで深い水底に沈んでいるみたいだった。誰の目にも届かない、誰の手も届かない場所まで走って走って。


『お父さん!畑に足跡があった!もしかしたら猪かもしれないっ』

「せっかく作った物を食い荒らされたら敵わないからな。父さんに任せてくれ!」

『怪我しない?!足跡、凄く大きいよっ?!』

「大丈夫だ!みんなの事は父さんが守るからな!」



走って走って走って、


「リュウ、ここに居たのね。そんなに泣いたら目が溶けちゃうわ」

『…お母さんはこの目、嫌い?』

「どうして?お母さんはリュウの宝石みたいな瞳が大好きよ」

『怖くないの…?』

「怖くないよ、こんなにキラキラしてて綺麗なんだから。何か言われてしまったのね。言ってきた子も初めて見たから驚いてしまっただけよ」

『うん…、』

「もしまた言われてしまったらお母さんが赤い金平糖を沢山食べたからだよって教えてあげようね」



走って走って走って、


「姉ちゃん、早く早く!!」

『待って琥珀!そんなに急いでどこ行くの!』

「昨日お父さんと町に行った帰りに凄い場所を見つけたんだ!早く行かないと日が暮れちゃうよ!」

『それって急がないと無くなっちゃうものなのっ?』

「枯れちゃうかもしれないから急ぐの!持って帰りたかったけど、球根に毒があるから掘り起こしたらダメだってお父さんが言ってたんだ!!」



あの日、無邪気に引いてくれた自分よりも小さな手を大丈夫、大丈夫と言い聞かせながら雪山を駆け降りた。耳が千切れそうになっても、足が凍って折れてしまいそうになっても離さなかった。離したくなかった、本当はずっと。


「ごめ、んね…姉ちゃん…、」


鬼になった琥珀の目から零れた涙。
血が滴る刀が力なく地面に転がる。
崩れていく顔を抱き締めて叫んだ。
私が、私が殺してしまったの。


「今まで沢山の人を失って誰かに寄り添う事が怖くなっただろう。でもね、失くしてないんだよ。みんなリュウの傍にいる。大丈夫、置いていかないよ」


春の日差しのように優しく穏やかなお館様の声音が静かに降りてくる。数えきれないほど大切な命を失った。立ち止まって蹲りたい日もあった。それでも前を向き続けられたのは仲間が居たからだ。一人では生きてこれなかった。


「僕は…!リュウさんの事を、本当の姉上のように思っています…っ!」

「家族として、祝わせてくれないか」

「相手を想える心は強き者の証拠です。その熱を忘れないで下さいね」



これ以上、失う事になるならもう死んでしまいたいと思っていた私に居場所を作ってくれた。口では言えても態度で示せる人は多くない。名は体を表す。強い信念が目や言動から伝わってくる。長くは一緒に居られなかったけれど、とても温かく大切な人達。


「運命に抗え、お前が選んだ道を俺は信じる」

「帰ってくるさ、リュウが待っていてくれるなら」

「俺がここに居たいんだ。駄目だろうか」



そう言って笑う貴方が好きだった。
縁側に並んで座りながら話すのが好きだった。辛い稽古もキツい任務も貴方の教えがあったからやってこれた。裏表ない明快闊達な声が私の名前を呼んでくれる。本当は望んではいけないのに、その大きな瞳の中にずっと居られる人になりたかった。

お祭りも花火も列車も珍しい食べ物も全部貴方が教えてくれた。何一つ知らない私に一つずつ丁寧に怖いものではないと解いてくれる。何ものにも変えられない、掛け替えのない日々。



洪水のように記憶が押し寄せてきて溺れそうだ。自分が自分ではなくなるような感覚。どうして私は忘れていたんだろう。こんなに大切なものだったのに、どうして。


『義勇さん、美味しそうな匂いがしてきました。夕飯が楽しみですね』

「鮭大根だろう」

『好物だから匂いで分かるんですね』

「…誰から聞いた」

『しのぶからです』

「…お前の好物は」

『金平糖です』

「………」

『笑いましたね』

「笑ってない。栄養が足りないと思っただけだ」

『糖分は大事ですよ』



走って走って走って、


「最近、村外れの廃寺にいる孤児の所へ足を運んでいるそうだな」

『はい。半年前に鬼を追っている時に出逢いました。それから時々顔を出しています。悲鳴嶼さんもご存知だったんですね』

「ああ、実際に敷地内に足は踏み入れていないが…あまり深入りしすぎない事だ。お前が心優しいのは知っている。尚の事、傷付く事になるだろう」

『優しいのは悲鳴嶼さんです。普通なら流してしまうような事でも立ち止まって耳を傾けて下さいます。頂いた言葉を胸にちゃんと仕舞っておきます』

「…お前はその心のまま変わらないでいてほしい」



走って走って走って、肺が痛い。
吸えば吸うほど内側から凍っていきそうだ。両手で耳を押さえても頭の中に直接反響する無数の声たち。


『おはよう、無一郎。何を見てるの?』

「この黒いのは何て名前だっけ」

『これは黒アゲハっていうんだよ。春先になるとよく飛んでるの』

「黒アゲハ…、この木は?」

『これは漆。触るとかぶれちゃうから素手では触れないようにね』

「リュウは物知りだね。でも教えてもらってもすぐ忘れちゃうから…ごめんね」

『忘れたっていい。聞いてくれたら何度でも言うよ。それに忘れちゃう事は悪い事じゃない。常識に囚われず、新鮮な目で物事を見る事が出来るから』

「いっぱい聞いてもいいの?」

『大歓迎だよ。気になったらいつでも聞いてね』

「うん…ありがとう」



走って走って走って、


「どこ行くんだ、お前は。そっちじゃねーよ」

『でも近辺の見回りの任務だと』

「地味に周りを張ってても仕方ねぇだろ。潜入するぞ」

『潜入ですかっ?お館様からの任務では、』

「お館様には俺から連絡入れとくから安心しな!行くぞ!!」

『待って下さい!杏さ…、師範にも伝えないと!』

「煉獄にも俺から言っとく!!さぁ派手に暴れるぜっ!!」

『潜入なのに目立つのはどうかと思いますー!』



走って走って走って、


「リュウちゃん!!久しぶりーっ!」

『久しぶり!蜜璃も元気そうで良かった!だけどちょっと苦しいです…っ』

「きゃ!ごめんなさいぃ!!」

『良い事あったの?凄く嬉しそうな顔してる』

「うん!実はね…伊黒さんから髪留めを貰ったの!」

『わ!可愛いっ!伊黒さんは蜜璃の事を良く見てるね。凄く似合う!』

「本当っ?!リュウちゃんに褒めてもらえると嬉しいなぁ!」

『今度また伊黒さんと一緒にご飯行く時に付けて行ったら喜ぶよ!』



まるで昨日の事のように思い出せる言葉たち。どこで、どんな顔をしていたのかも、匂いや温度だって全部全部分かるんだ。だって一緒に隣で生きていたのだから。


「なんだァ?目が飛び出てんぞォ」

『頭を撫でられる側は慣れていなくて少し驚いただけです』

「お前も下に兄弟がいんのかァ。…もし、そいつが鬼殺隊に入ると言い出したらァ?」

『ぶん殴ってでも止めると思います』

「ハッ、つくづく気が合うなァ」

『でも、ほどほどにして下さいね。仲違いになってしまっては意味がありません』

「いいんだよ、俺は。疎まれて憎まれた方がなァ」

『またそんな事を言う…』



走って走って走って、


「リュウか、ちょうど良かった。お前に頼みがある」

『伊黒さんから頼み事なんて珍しいですね』

「煉獄の事だ」

『杏さんがどうかしたんですか?』

「先の任務で傷口から微量だが毒が体内に入った。胡蝶の薬を飲んだから大事ないと思うが、一日は安静にするよう言われていた」

『そうだったんですね…あの杏さんが毒を貰ってしまうなんて地の利があった鬼だったんでしょうか』

「厄介な相手だった事に違いはない。それで、だ。アイツは安静にしろと言われて大人しくするヤツではないだろう」

『それは…確かに』

「だからお前からも言ってやれ」



走って走って走って、


「俺にも教えろ!リュウと同じ奴がやりてぇ!」

「こら!"さん"を付けろよ!」

「リュウさんの目が紅いのはきっとお母さんが赤い実を沢山食べたからですね!俺もそうだと言われました!キラキラしてて凄く綺麗だと思います!」

「何勝手に口説いちゃってんのぉぉぉ!!とんでもねぇ炭治郎だっっ!!」



走って走って走って、


「はい、終わりね。体に特に異常なし。自分でおかしいと思うところはある?」

『ありがとう、何ともないよ。私よりしのぶの方が心配』

「私も平気よ?昨日はバタバタしてたけど今日は静かだから」

『顔色が悪い。少し休んだ方がいいよ。アオイ達には私から伝えるから』

「ありがとう。でも本当に何ともないの。これくらいで駄目になってたら最後までやれないもの」

『友人として、心配してる』

「……少し焦りすぎたかもしれない。いつもより摂取する量を多くしたから、その反動が出てきてるのね」

『しのぶにきた任務は私が変わるから今は少しでも休んでほしい』

「わかった。リュウからのお願いなら断れないわね」



唇を強く噛み締めたら僅かに血の味がした。止まる事のない光景が懐かしく、そして苦しくジワジワと心を締め上げていく。

朝日が昇る事が嬉しかった。
その時だけ刀の重みが一瞬軽くなったんだ。
みんながみんな、自分よりも他者の為に命を燃やし、疲労で傷付いた足を奮い立たせた。心が折れなければ、何度地に伏せたとしても起き上がれた。


「師範!稽古つけて下さい!」

「私は貴女の継子になれて幸せです。いつか師範のように強くて優しくて美しい人になりたい」

「ちゃんと眠れていますか…?ここの所ずっと任務で出立される事が多いので…」

「嫌だ嫌だ嫌だ!!お願いです…っ、私まだ師範と一緒にいたいです…!」

「一緒にお家へ帰りましょう…?置いていかないで…っ」



溢れた想いは涙となって次から次へと頬を伝えっていく。それでも走る足を止めなかった。何処へ向かっているのも曖昧なまま、ただひたすら走り続けた。止まってしまったら壊れてしまう気がしたから。愛おしすぎる記憶に潰されてしまうと思ったから。そうなったら起き上がれなくなると本能で感じていた。


『私は鬼になりません!!今までだって、これからだって!!』


奥歯を噛み締めていなければ嗚咽が零れてしまいそうだった。身を引き裂かれるような言葉が一つずつ硬い蓋をこじ開けていく。鍵は開いた。錆び付いた音がしてる。全てを詰め込んだ箱を抱き締めて眠っていた。誰にも開けられないように抱え込んで。もう頑なに守らなくてもいいんだ。だってここは逢いたかった人達がいるから。


『お、鬼……?』


鏡に映った自分の姿に言葉を無くす。
尖った歯、元から赤い瞳が時間が経った血の色のような暗い朱色に変わり、瞳孔が縦長に開く。体中を千切られているかのような痛みが走り、咳をする度に口から溢れる血。炎で焼かれているかのように熱い、熱い、熱い。内臓が内側から溶けて爛れて吐き気がする。

喉が渇く、血が欲しい、肉が噛みたいと体が、歯が疼く。頭が割れそうだ。


「俺はお前の選んだ道を信じる」


グッと拳を握りしめる。
杏さんなら絶対折れない。
杏さんなら絶対諦めない。
こんな姿を見られなくて良かった。
どんな事があっても鬼にならない人だから。
それでも私は私のやり方で戦う。
信じてもらえたから。
その言葉があれば充分だ。


『もう二度と家族を仲間を奪わせない。鈴菜には指一本触れさせない…ーー』




私はみんなと大正時代を生きていた。
鬼殺隊として鬼を借り続けていた。
家族を亡くし、仲間を亡くし、それでも前を向いていればいつの日か安心して眠れる夜が来る事を望みながら。

夢じゃなかった。
全て私の過去だ。

思い出した、全部。
帰ってきたよ、この世に。





昇降口に着き、呼吸を整える間もなく靴を乱暴に脱ぎ捨てて階段を上がろうとしたら前から来た人とぶつかってしまった。体勢を崩しそうになったところを逞しい腕にガシッと支えられる。惹かれるように顔を上げた先には懐かしい顔が驚いた表情を浮かべていた。


「おっと、大丈夫か?何でお前がここに、」

『う、宇髄さん…』

「まさかお前…思い出したのか?」


スッと伸びてきた長い指が涙を拭ってくれる。その手つきが見た目とは裏腹に酷く優しかった。そこも変わらないな、なんて頭の片隅で思って。


「急に全部思い出して派手にパニックになってんのか」

『…宇髄さんは覚えてるんですね』

「俺は物心ついた頃からだな」

『何で、忘れてたんだろう…こんなに大事なものなのに…』

「個人差はあるだろ。ずっと思い出さない奴もいると思うしな。どっちが幸せかは本人しか分かんねぇけどよ」

『……私は、』


言いかけた時、聞き覚えのある足音が聞こえてきて思わず宇髄さんの後ろへと咄嗟に隠れた。追ってきた足音はやっぱり杏さんのもので、息を切らしながら宇髄さんの前まで来ると私の名前を呼ぶ。顔を見なくてもそれは焦りと少しばかり怒りを含んでいるものだと分かった。


「どうして隠れる」

『……っ』

「逃げる理由は何だ」

「煉獄よ、コイツは今さっき思い出したばっかなんだろ?そんなに責めてやるなよ。リュウも隠れてないでちゃんと顔見せな」


宇髄さんに引っ張られ、杏さんの前にズイッと差し出されて余計に言葉を失う。ずっとずっと逢いたかった人のはずなのに合わす顔がないのは私が、鬼になったからだ。後ろめたいその事実が向き合う事を拒絶させる。

伺うように顔を上げれば、そこには静かに怒っている杏さんの姿があった。薄暗い校舎ではその圧が更に増して見え、カラカラに渇いた喉に力が入る。


「思い出したくなかったか?」

『…違います、』

「俺には逢いたくなかったか?」

『違います!』

「ならば何故、そのような顔をする」


伸びてきた大きくて優しい手が頬に触れる前に頭を左右に振った。私に優しくしてはいけない。情けをかけてはならない。貴方のような人に触れてもらう資格なんかない。強くて、優しくて、尊い存在の貴方が汚れてしまう。


『杏さんにまた逢う事が出来て嬉しいです。過去の記憶も思い出せて嬉しいです。それは嘘ではありません』

「では何故、」

『…私は、鬼になったんです。お館様、慎寿郎さんに誓ったにも関わらず…』

「………」

『鬼に、なったんです』


あの時の判断に後悔はない。

鬼になった事であの鬼を殺す事が出来た。人間の私の力じゃ、鈴菜を守る事さえ出来なかった。自ら望んだものではないとしても鬼の力を借りた事は紛れもない事実。だけど、杏さんには胸を張って言えなかった。だって、どんな理由があっても鬼にならない人だから、私が鬼になったのを知ったら軽蔑される。情けない事に私は耐えられそうになかった。なんて身勝手で浅はかな想いなんだろう。


「知っていたよ、リュウが鬼になった事は」

『え…、』

「宇髄達から聞いている。どんな最期だったのかもな」

『だとしたら尚更っ!』

「どれだけ苦しくて痛くても必死に抗い、運命に立ち向かい続けたお前を遠ざける事など絶対にしない」

『…っ、どうして…』

「良く頑張ったな」


頭に置かれた手が優しく頭を撫でる。目の前にある杏さんの柔らかい笑顔があの頃と何一つ変わらず温かくて、ポロポロと涙が溢れた。頬を伝い、床へ一粒一粒吸い込まれていく。ああ、この笑顔が見たかったんだ。ずっとずっと。


「煉獄先生が生徒を泣かした〜」

「む!泣くな、リュウ!お前に泣かれるとどうして良いのか分からなくなる!」

『す、すみません…でも、止まらなくて…っ』

「…宇髄、」

「へいへい」


軽い足取りで宇髄さんがこの場を離れていくと、杏さんにギュっと抱き締められた。思い掛け無い行動に脳内パニックになる。無礼になると思い、慌てて離れようとするも更に強く引き寄せられて抜け出せそうにない。

一体何が起きているのか取り敢えず落ち着かなきゃいけないのに、厚い胸板と強い腕と杏さんの匂いに思考がクラクラする。体の震えも、頬を流れる涙も止まらなくて、だけど全てを包み込んでくれるお日様のような体温が徐々に乱れた心を浄化していった。


「リュウは昔から我慢をする癖があるから、今世ではこうして感情を表に出してくれるのは嬉しい。…が、泣かれてしまうのは不安になってしまうな」

『すみません…っ、迷惑ばかりかけてしまい…』

「いや、違う。リュウには笑顔が似合うという意味だ」


耳を当てている杏さんの胸元からトクントクンと少し速くなった鼓動が聞こえてくる。温かく、心地よい生きている音だ。絶え間なく動き、全身に命を送るもの。落ちてくる声も、抱き締めてくれる腕も、見つめ返してくれる瞳も、追い掛けてきてくれた足も全部全部ここに存在しているからだ。

やっと逢えた。
本当に逢えたんだ。
あの日、鎹鴉に告げられた時からいつもポッカリと胸に穴が空いていた。どの景色にも貴方が居ないという現実が寂しかった。寒くて寂しくて暖かさをずっと探していた。


『本当に…生きてる、』

「ああ、そうだ」

『ちゃんと息を吸って、生きてる』

「どこも怪我をしていない、失っていない」

『よかった…ぁ…』

「もう置いていくような事はしない」


頷き、胸元に顔を埋めたまま杏さんの背中へ回した腕にぎゅうっと力を込める。同時に頭を撫でられ、逞しい腕により一層強く抱き締められた。杏さんの熱と匂いで頭がいっぱいで爆破してしまいそうだ。

ずっとずっと待っていた。
もう離したくない。
離れたくない。
笑っていてほしい。
願わくば、隣で、一緒に。

止まっていた時間がゆっくりと動き出した。






もう遅いからと杏さんが家まで車で送ってくれた。記憶を取り戻した今でも二人きりの空間は緊張する。だけど安心感が勝ってウトウトと眠ってしまった。落ちる際に大きな手に頬を撫でられる感覚がした。

目が覚めた時、全部夢でしたなんて事にならないでほしい。

そのくらい幸せで満ちた気持ちだった。


長かった夜が明けたね、とあの頃の自分が笑った気がした。












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