再会
記憶を全て取り戻した次の日、朝から高熱が出て学校を休む事になってしまった。小学生ぶりに四十度近い熱が出て息苦しさに寒気、頭が割れそうなほどの頭痛、節々の痛みに泣き言を言いたくなってしまう。
食べる事どころか立つ事さえ出来ず、ただただ朝から晩まで眠っていた。もしかしたら記憶を取り戻した後遺症なのかもしれない。それもそうだ。百年前の記憶が一気に思い起こされれば脳もキャパオーバーになる。
その大きすぎる容量に次に目が覚めた時、また忘れてしまっていた頃へ逆戻りになってしまっていたらどうしよう、という不安だけがあった。せっかく思い出せたのに振り出しになんか戻りたくない。忘れないようノートに書いておきたいのに、指一本動かせなかった。
重い瞼の裏に浮かぶのはみんなと過ごした大正の日々。今と比べたら不便だったかもしれない。かまどに薪を焚べてお米を炊き、お風呂を沸かし、夜道は街灯もなく和蝋燭の提灯が無ければ真っ暗で。欲しいものがすぐに手に入るような時代じゃない。
だけど幸せだった。
月明かりに照らされた庭先で季節の移ろいを肌で感じられた。失ったものは多かった。それでもみんな前を向いて生きていた。どんなに傷つき、苦しい時も自分より相手を思いやり、小さな事も大きな事も喜びを分かち合った。
宇髄さん、今世でもはちゃめちゃだったなぁ。義勇さんは相変わらず天然で、悲鳴嶼さんはお父さんみたいに優しい。実弥さんは傷ばかり作って心配で、伊黒さんは鏑丸とまた出逢えてて安心した。鈴菜はあの頃の笑顔のまま傍にいてくれた。炭治郎も善逸も伊之助もカナヲも一緒に居てくれて良かった。
千寿郎や無一郎はどこにいるだろう。
蜜璃にも逢いたいなぁ。
しのぶには今も昔も頼りっぱなしで迷惑かけてるなぁ。
そして、杏さんやカナエさんが生きている。
その真実を噛み締めた。
逢いたい。
みんなにもう一度。
忘れたくない。
お願い、覚えていて。
目が覚めても大切な人達の事を覚えていて。
水平線から目が焼けてしまうほど眩しい朝日が昇り始める。灰のようにパラパラと肉体が崩れていき、周りの音も遠のいていく中、抱き締めてくれる温かい熱と桜の匂いを傍に感じた。
歩いてきた道は平坦ではなかったけど、それでも自分を不幸だと思った事は一度もない。贅沢なほど恵まれていたよ。私は幸せ者だった。何度でもそう伝えたい。
翌日、目が覚めると熱は平熱まで下がっていた。記憶も思い出したままでホッと胸を撫で下ろす。お母さんには念の為もう一日休んだら?と言われたけど、居ても立っても居られなくて通常より早く家を出た。今まで重かった体が嘘みたいに軽く、心もこの青空のように澄んで晴れやかだった。
車や自転車のブレーキ音、電車が踏切を渡り、鳥が柿を突き、猫が道端で背伸びをする。当たり前の光景だったものがこんなにも色鮮やかに見えるのかと、遠足前の子供のように胸が弾む。
見慣れた正門を潜り、下駄箱で上履きに履き替えて階段を駆け上がった。乱れた呼吸を整え職員室のドアをノックする。そして緊張で震える手でドアを開けた瞬間、ガバッとしのぶに抱き締められて肩から鞄が滑り落ちた。温かな人肌と清らかな花の匂いが全身を包み込む。
「もう体調は平気?どこも痛くない?」
『うん、大丈夫。痛くないよ。…思い出すの、遅くなってごめんね』
「覚えてても覚えていなくても私はゆいと一緒に居られるだけで幸せなの。また謝ったら怒るからっ」
『…ありがとう、しのぶ』
ぎゅうっと背中に回っていた腕がゆっくりと解かれる。目と目が合うと嬉しさと気恥ずかしさに二人して笑ってしまった。しのぶの肩越しにカナエさんが優しく微笑みかけてくれる。揺れる長い髪と温かな匂いと笑顔に目の奥が熱くなって思わず泣いてしまいそうになるのをグッと堪えた。
カナエさんが亡くなったあと、しのぶがどれだけ頑張ってきたのかを間近で見てきたから、二人がこうして再び一緒に居る姿を見れて嬉しさが込み上げる。夢じゃない現実がきらきらと尊い。
職員室には宇髄さん、義勇さん、実弥さんも居て、遅いだの心配しただの時には頭を小突かれたりもしたけど、昔みたいに話しかけてきてくれた事が嬉しかった。みんな覚えている。その事実が胸に灯を灯す。
話したい事、聞きたい事が沢山あるよ。あり過ぎて一日じゃ話しきれないよ。お礼だって伝えきれてない。謝りたい事もいっぱいなんだ。
またちゃんと顔を見せにくると約束し、後ろ髪をひかれつつも、職員室を出ると社会科準備室へ向かった。
幾度となく足を運んだ場所だけど、いざドアの前までくると緊張で胸が痛くなる。平常心、平常心と心の中で何度も唱えてノックをすれば、中から「どうぞ!」と大きな声が返ってきて心拍数がまた一段と上がった。
『失礼します、』
「風雪か!おはよう!今日は早いな!」
椅子に座っていた杏さんがクルリと体ごとこちらへ向く。窓から差し込む陽光に照らされた髪が綺麗で、思わず見惚れてしまっていた思考を払い除けた。
『おはようございます。こんな時間から来てしまってすみませんっ』
「それは構わん!体調は大丈夫だろうか」
『もうすっかり熱も下がったので大丈夫です。心配して下さってありがとうございますっ』
「そうか!それならもう安心だな!この時間から訪れるという事は何か心配事か?何でも相談にのるぞ!」
『先生…、杏さんとお話がしたくて』
昔と同じ呼び名を口にすれば、杏さんは一瞬目を丸くしたあと、柔らかく目元を緩ませた。
「…俺も話がしたかった。ゆい、こっちへおいで」
ああ、やっぱりいいなぁ。
この声に呼ばれるの、好きだなぁ。
春先の日差しのように優しい声色が体の隅々にまで浸透していく。まるで夢のような幻想的な光景に身も心も一瞬にして奪われた。
忘れなくて良かった。
覚えていられて良かった。
百年前に望んだ想いが今こうして形になった奇跡をぎゅうと抱き締めた。
手招きする杏さんの元へ行き、隣に用意された椅子へ腰を下ろす。さっきよりもずっと近くなった距離。シトラスのような爽やかな匂いがする。触れていないのに杏さんの体温が伝導してくるみたいで日向ぼっこしている時のようにポカポカと幸せな温度を感じた。
『一昨日は取り乱してしまってすみませんでした…。それに家まで送って頂いて、』
「気にする事ではない。俺も早急に聞き過ぎてすまなかった。混乱させてしまっただろう」
『戸惑いはありましたが、私は思い出せて良かったです。またこうして同じ時を生きれる事を嬉しく思います』
「俺もだ。…実は少し懸念はあった」
『懸念ですか?』
「眠りから覚めた時、高熱の影響で思い出した事も忘れてしまう可能性があったからな」
『そうだったんですね…。やはりそれほど負荷があるという事なんですね』
だから開口一番、今までと変わらない接し方をしていたんだ。私が忘れている場合も考えて。本当にどこまでも優しい人だ。何手先まで読んで、裏表のない真っ直ぐな心で向き合ってくれる。杏さんを包み込んでいる色は何一つ変わっていない。
「一つ、勘違いはしないでほしい。思い出しても出さなくても風雪ゆいという一人の人間とちゃんと向き合いたい気持ちは変わらないんだ」
『充分すぎる言葉です。それにもし逆の立場でも同じ事を思いました。どんな形でも杏さんとちゃんと向き合いたいと』
「…お前には敵わないな」
そう言って困ったように眉を下げるとコーヒーの入ったコップを口に運ぶ。動作に合わせてふわふわの髪が揺れた。窓から入ってくる風が金木犀の香りを運んでくる。大好きなもので溢れた空間。幸せすぎて眩しすぎて、まるで宙に浮いているような気持ちになる。だけど夢じゃないからしっかり地に足を着いて歩かなきゃ。
鬼は居なくなり、夜は必ず明けるのだから。
「教師たち…いや、元柱たちはこの事を知っているが、鈴菜や竈門少年たちはまだ知らずにいる。伝えてやってくれないだろうか」
『はい。ちゃんと話します。改まると何だか緊張してしまいますね』
「鈴菜も飛んで喜びそうだな」
『長かったような、短かかったような不思議な気持ちです』
「共に過ごした仲間がこうして相まみえる事が出来る奇跡は何万分、何億分の一なのだろうな」
刀を握っていた頃はこんな未来がくるなんて考えてなかった。また逢いたいと願った事はあっても叶う日が訪れるなんて。きっと一生分の運を使い果たしてしまったんじゃないか。それぐらい大きな事なのだと改めて思い知った。この幸せを手放してはいけない。もう二度と。
『…そうだ、学校では先生と呼ぶように気をつけますね』
「そうだな、二人きりの時でも誰が聞いているかわからないからな。俺もうっかり名前で呼んでしまわないように注意しよう!」
『でも杏さ…、先生は凄いですよね。私なら間違えて人前で名前を呼んでしまっていたと思います』
「いや、名前で呼んでしまった事はあるぞ」
『もしかして、文化祭の時ですか?良かった、私が聞き間違えたかと思っていたので』
「その時以外もある」
『え、いつですかっ?』
「いつだろうな、」
頬杖をつき、口角を上げ、悪戯っ子のように目を細めて首を傾げる。不意打ちの色香を含んだ仕草の破壊力が凄まじい。私が杏さんの発言で忘れている事があるのはあり得ないです、と反論したくても目の前で妖しく燃えている緋色の瞳に胸がザワついて仕方なかった。昔の時より歳の差は開き、杏さんも二十歳の頃より纏う雰囲気が違う。
直視出来ずに俯けば、上から乾いた笑いが降ってきた。顔が熱い。心臓が煩い。これが大人の色気なのかと急にこの部屋には二人だけしかいないと意識してしまってたまらない気持ちになる。
息を整えているとタイミング良く予鈴が鳴って体がビクッと反応してしまった。助け舟ではあったけどもう少し一緒に居たかったな、という寂しさが入り混じって複雑だった。
名残惜しくはあったけど、今は時間がある。
もう、命を脅かすものはいないのだから。
椅子から立ち上がる時も一礼して部屋から出て行く時も、梟のように大きな瞳が動向を伺うようにジッと静かに見ていた。
****
鈴菜と話をしようと思い、お昼ご飯を食べたあと一年生の教室へ顔を出すとすぐに気付いて走ってきてくれた。その姿にズキンと胸が痛む。
鈴菜はずっと私が記憶を忘れてても変わらず傍に居てくれた。問いただして非難する事なくあの頃と同じ笑顔を浮かべて。一方通行の思いはどれだけ辛く、苦しく、虚しい事かは計り知れない。ただ真っ直ぐに向き合ってくれる姿にどれだけ救われてきただろう。
中庭へ出ると秋晴れの空が広がり、金木犀の香りが風と共に運ばれてくる。隣で今日あった事や昨日のテレビの話を無邪気に話す鈴菜の声を聞きながら秋の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「ゆい先輩が教室に来てくれた時、凄く嬉しかったです!」
『いつも鈴菜ちゃんには来てもらってごめんね』
「私が逢いたくて勝手に行ってるだけなので!」
『そんな事ないよ、私も嬉しいから』
「本当ですか!?やったー!!」
『…ありがとう、』
「先輩?」
『覚えてくれてて、ありがとう』
キョトンとした顔が私を見つめる。
風が頬と髪を撫で、スカートを揺らす。
一瞬の静寂の後、言葉の意味を噛み締めるように鈴菜は唇をきゅっと引き結んだ。
過去と今が交差する。
同じ屋根の下、過ごした日々は決して長くはなかったけれど一つ一つ覚えてる。
頑張り屋で竹刀が血だらけになるまで振り続けていたこと。鬼に大切な人を奪われた人達に親身に寄り添える心を持っていること。朝に強く、低血圧の私をよく起こしに来てくれたこと。素直すぎていつか誰かに騙されないかとハラハラしていたことを思い出した。
『教える立場でありながら、私の方が教わる事が多かったよ』
「ゆい、せんぱ、い…?」
『ずっと傍に居てくれてありがとう』
「……っ」
『鈴菜が継子で居てくれて本当に幸せだった。今まで思い出せなくてごめんね』
「し…師範…っ」
状況を理解して大きく見開かれた目からポロポロと静かに涙が溢れた。思い返せば初めて遭った時も最期の時もこうして再会した今も泣かせてばかりだ。鈴菜はいつも私を笑わせてくれるのに。
底抜けに明るく、悲しい時に泣いて、人の為に怒る事が出来て、楽しい時に笑ってくれていた事にどれだけ助けられたのか一言では言い表せられない。
師範と呼んでもらうには頼りない存在だった私の傍に居てくれて本当に救われたんだ。
「師範が居なくなったあと…っ、ずっと…寂しくてっ」
『うん、』
「本当はもっと話したい事も行きたい所もたくさん…あって、」
『うん、』
「ずっと泣いてばかりだったけど…っ』
『うん、』
「でも、師範は最期笑ってたから…私も笑おうと思ったんです…っ!」
言葉を何度も詰まらせながら必死に目を見て話そうとしてくれる姿勢に胸が締め付けられる。こんなにも綺麗な涙を流してくれるのかと、唇を噛み締めた。指を伸ばし、次から次へと溢れ出す涙を拭えば真ん丸の目が更に大きく見開かれる。
『鈴菜が居てくれたから私は生きようと思えたよ』
「……っ」
『おかえりなさいって出迎えてくれたり、作ったものを美味しいって言ってくれたり、一緒に任務に行った先でも健気で明るい姿にいつも助けられた』
「本当ですか…?」
『うん、本当だよ。鈴菜の事は信頼も尊敬もしてる』
寂しげな顔から照れたようにハニカミながらまた涙を流すから、その美しさに思わず笑みが溢れた。失っていた時間がゆっくりと戻っていく。あの状況下でも汚れず、純粋無垢でいられるこの子は本当に凄い。今もこうして変わらないでいてくれた事が嬉しかった。
『たくさん怒られるから、たくさん話をしよう』
「はいっ!いっぱいいっぱい言いたい事がありますっ!」
この青空のように澄んだ笑顔が私を射抜く掛け替えのない、自分の命よりも大事だった子。再び同じ空の下で出逢わせてくれた神様に手を合わせて祈りたかった。
泣けば視界が濁るから顔を上げろ、手を合わせる暇があるなら刀を握れと言い聞かせてきたけど、誰かを想う時はいつも立ち止まって想いを乗せてきた。
神頼みなんてしたところで何も起きないと自棄になっていても、本当は諦めて居なくて空を見上げる事を祈りというのだろう。
「「ゆいさーん!!!」」
遠くから炭治郎、善逸、伊之助が走ってきた。三人とも昔の記憶があるみたいで、私が思い出したのを宇髄さんから聞き、ここへ来てくれたのだと。みんな泣いていて、思わず緩んでしまいそうになる感情を堪えれば、目と喉の奥が痛くなった。
瞬きをする度に懐かしい日々が甦る。
命を削り、血と泥に塗れ、決して楽な道ではなかったけど、それでもほんの些細な出来事でも楽しい、嬉しい、幸せだと噛み締めた。
大切なものがあった。
守りたいものがあった。
今だったら見落としがちな事も一つ一つ拾って離さないよう抱き締めて。全てが愛しく、眩しい日々だった。あの頃叶えられなかった事をこれから叶えていこう。
再会
たくさん未来の話がしたいよ。
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