さくら









私以外の家族は前世の記憶がなかった。
隠している様子もないから本当に覚えていないのだと思う。

それで良いと思った。
思い出さないままでいてほしいと思った。

鬼に殺され、痛い思いも苦しい思いも沢山させてしまったから、その時の記憶はずっと眠ったままでいい。守れなかったから、今世では守る。

今までより構うようになった私に対して琥珀は混乱しながら変な目で見てたけど、そんな成長した反応も嬉しかった。父も母も琥珀もいる。目に入ってくるもの全てが尊い。

本当に今を生きているのだと、実感するには眩しすぎる未来だった。









今日も今日とて、正門で制服を着崩している生徒を締め上げている義勇さんの横を挨拶しながら通り過ぎて昇降口までの道を歩いていると、凄いスピードで走ってきた炭治郎に呼び止められた。


「お…っ、おはよう、ございますっ!」

『おはよう、炭治郎。そんなに急いでどうしたの?』

「リュウ先輩にっ、お願いがありまして!これ、煉獄先生に渡して欲しいですっ!」


息も絶え絶えの炭治郎が差し出してきたのは「かまどベーカリー」と書かれた自分のお店の紙袋だった。受け取るとまだほんのりと温かく、小麦の焼ける香ばしい匂いが鼻を掠める。朝ご飯を食べたばかりだけど食欲を誘う香りだ。


『わかった、先生に渡しておくね』

「ありがとうございます!本当は俺から渡そうと思ったのですが、今追われてて…っ」

『追われてるって誰にーー』

「竈門ぉぉぉぉ!!!!」

『なるほど…頑張れ、炭治郎!』

「はい!頑張ります!!」


ばびゅーん!っと軽快なフォームで走っていく後ろ姿を風の如く追い掛ける義勇さん。よく見る朝の攻防で平和だなぁと嬉しく思う。炭治郎にとっては災難かもしれないけれど。フワフワとした気持ちで袋を抱えながら社会科準備室へと向かった。


部屋の前に着き、トントンとノックをすると中から元気な声で返事が聞こえてきたのでゆっくりとドアを開けた。


『失礼します。煉獄先生、おはようござますっ』

「風雪か!おはよう!」


こちらを見るなり朝日より眩しい笑顔を向けられ、チカチカと目が眩んだ。朝から杏さんは元気だ。昔から寝起きも良くて、いつも一番に庭先で竹刀を振っていた。そこも変わらないな、と微笑ましく思う。


『炭治郎から先生に渡してほしいと言われたものを預かってきました』

「竈門少年から俺に?何だろうか」


不思議そうな顔をしながら私から袋を受け取り、中を見た杏さんの表情がみるみる綻んだ。杏さんもかまどベーカリーの常連さんだから余程嬉しかったのだろう。


「以前話していた、さつまいもパンの試作だな!忙しい中、作ってくれていたのか…よもや、よもやだ!」

『炭治郎らしいですね。健気で一生懸命で、とても優しい』

「そうだな!後でお礼を言おう!沢山頂いたので風雪も一緒に食べないか?」

『私まで頂いてしまって良いのですか?せっかく炭治郎が先生に作ってくれたので…』

「俺が一緒に食べたくてな。ダメだろうか」


困ったように眉を下げ、様子を伺うような表情で言われて思わず『んぐぅ』と言葉に詰まる。ダメなワケがない。この学校中で杏さんの誘いを断る生徒なんていない。

この顔に昔から弱いのだ。何より少しでも一緒に居られるのは嬉しい。あの頃と変わらず今も杏さんに対して恋心を抱いてしまっている身としては夢のような提案だった。


『お言葉に甘えて…一緒に食べたいです』

「良かった!では十二時にここへ来るように!」

『チャイムが鳴ったらすぐ来ます!』

「慌てなくてもパンは逃げないぞ!」


わはは、と楽しげな声が弾ける。つい前のめりで発言してしまった事が恥ずかしく、体温が急上昇していく。

予鈴が鳴った為、別れを告げて部屋を出るとガバッと手で顔を覆った。思っていた以上に熱く、きっと色も真っ赤になっているであろう自分の顔を想像して穴に埋まりたくなる。油断したらニヤけてしまいそうになるのを必死に堪えた。落ち着け、落ち着け、しっかりしろ。元氷柱、長女なんだから堪えなさい。ここは学校で、今は令和!


「ド派手に百面相してやがるな」

『…っ!う、宇髄先生っ』


暗示をかけながら唸っていると後ろから声をかけられて体が飛び跳ねた。振り向いた先にいたのは悪戯っ子のように悪い笑みを浮かべた宇髄さんで。このタイミングの良さに目眩がしそうだ。


『お、おはよーございます』

「顔が真っ赤だぞ。朝からお盛んなこって」

『違います…!いたって健全ですよっ』

「そんな顔で言われても説得力ないけどな」

『ぐ…、もう冷静になります!柱の顔になります!』

「ははは!なんだ柱の顔って!お前でもそんな事言うんだな!」

『余裕がないもんで!』


じゃ!と言って廊下を走り出せば後ろから「転ぶなよー!」と楽しげな宇髄さんの声が聞こえた。


朝から嬉しい事があったから、その後の授業は浮き足立ってしまって仕方ない。眠気は吹っ飛び、苦手な数学の授業もハキハキと発言していたら実弥さんに「もういいから座れェ」とドン引きされて悲しかった。

伊黒さんにも「分かったから落ち着いてくれ」と諭され、体育では義勇さんに「具合が悪いのか」と保健室へ連行されかけて散々だった。そんな光景を見て、しのぶだけが楽しそうにずっと笑ってくれていた。



四時間目終わりのチャイムが鳴り、教科書やノートを片付けると一目散に教室を飛び出した。乱れた息を整え、社会科準備室のドアをノックしようとしたところで手を止める。こんなに早くきても杏さんは授業を終えた後、みんなからの質問を受けたりしてまだこの中には居ないだろう。むしろどれだけ必死なんだと引かれる可能性もある…。

どこかに隠れて出直そうかなと思った時、聞き覚えのある足音が廊下を歩いてくるのが聞こえた。


「む!本当に早いな!そんなにお腹が減ったのか!」

『いや!あの…はいっ!』

「俺もだ!さぁ中に入って食べよう!」


本当は貴方に一秒でも早く逢いたくて来ました、なんて口が裂けても言えないので、ここは腹ぺこキャラで通す事にした。


中に入り、用意してくれた杏さんの隣の席へと座る。紅茶を机に置きながら「コーヒーの方が良かったか?」と聞いてくれたので、コーヒーは苦くて少し苦手な話をしたら「可愛らしいな!」と明快闊達な声が飛んできて椅子ごと後ろへひっくり返りそうになった。他意が無いのは分かってるのに、とても心臓に悪い。

昔の私はこの人の隣によく平気でいられたな、と自分自身に感心してしまった。


いくつか話していくうちに杏さんは近いうちに一人暮らしをすると言った。コーヒーを飲みながら話す姿はやはり私と違って随分と大人に見えて遠く感じる。寂しさもあったけど、何より一コマ一コマが絵になるので、本当はずっと目に焼き付けていたいのに視線が合うと反射的に逸らしてしまっていた。


『一人暮らしは全て自分でやらなければいけなくなるので大変ですね…』

「掃除洗濯は何とかなるかもしれんが料理だけはどうもな…。そこで一つ、頼みがあるのだが」

『私で良ければ何なりと!』

「ありがとう!俺に料理を教えてくれないだろうか。君の作るものは全て美味い。出来る事なら毎日食べたいくらいだ!」


ひゅうっと喉が鳴った。
聞き間違いでなければ毎日食べたいと、言った…?

…いや、言葉の綾だ。
大きな意味はないはずだ。

そういえば、昔も同じ事を言ってもらった。杏さんは深い意味で言ったワケではないけれど、私にとってその言葉がどれほどの威力を持つのか本人は知らない。飛び跳ねて喜びたいくらい嬉しい事なのだと杏さんは知らない。

もちろんです!と即答しようとした時、頭の片隅で初めて車で送ってもらった時の事が蘇り、寸前で思い留まる。


「想い人がいる」


ズキン、と胸に硝子の破片が刺さったような痛みが走った。そうだ、杏さんは好きな人がいると言っていた。「行くな」と呼び止めるほど大切な人が。そうだよね、いるよね。今は前世の時より歳が離れてしまっている。その分だけ人生経験が豊富だ。今世は先生と生徒。ただそれだけの関係。

記憶を思い出した事に舞い上がってしまって大事な事を置き去りにしてしまった。変わらず隣に居ようとしてしまった。あの頃だって杏さんの傍に居る事が多く、そういう出逢いを妨げてしまっていたのではないか。優しさに甘えて、自由を奪ってしまっていたのではないか。

過去を後悔したところで何も変わらない。ならば今世は自分の好きなように自由に生きてほしい。力になれる事をしたい。好きな人には幸せになってほしいと。自分の事は二の次、三の次だ。考えれば考えるほどズキズキとした虚しい感情が胸を打つ。


「すまない、突然変な事を言ったな。今のは忘れて」

『いえ!違います!凝ったものは作れませんが…私で良ければ一緒に頑張りましょう!』

「そうか!そう言ってもらえると頼もしいな!宜しく頼む!」

『はい!こちらこそ宜しくお願いします!』


人懐っこい笑顔が嬉しいのに、寂しい。近くに居られるけど、それ以上は踏み入れられない線の外にいる。自分で自分の首を絞めているのは分かっていた。あの頃、焦がれた想いは変わらず心に熱を灯す。それは心地よく、そして小さな寂しさをもってこの先もずっと燃え続けていくのだと思う。

行き場のない感情を誤魔化すように一口、また一口とパンを口に運ぶ。さつま芋の甘さで頬がぎゅうっと縮んだ。口の中ですぐ溶けるフワフワの生地。優しい匂いと食感がするのは牛乳が入っているからかな。そして何より作り手である炭治郎の真心がこもっているからだ。

禰豆子や他の兄弟達も家庭を支える為に朝早くからお店を手伝っているのを知っている。決して楽ではない事だけど、みんなそんな素振りは一切見せずにただただ純粋で真っ直ぐ健気な姿が好ましかった。


ふと、今までこっちを見ていた杏さんの大きな目が静かに窓の外を向く。秋特有の風が校庭で遊ぶ生徒のはしゃぐ声と甘く爽やかな香水の匂いを運んできてくれる。杏さんは今、何を考えてるんだろう。誰の事を想っているんだろう。本当はずっと隣に居たいな。今だけじゃなくて、この先もずっと。このまま時間が止まって独り占め出来たならどれほど幸せだろう。

次から次へと湧き上がる自分の欲が嫌になった。


私の視線に気付いた杏さんがこちらへ顔を向ける。陽光に照らされた姿があまりにも綺麗だったから吸い寄せられるように目を奪われてしまった。なんて贅沢な光景だろう。


『考え事ですか?』

「ああ、少し昔の事を思い出してボーッとしてしまった。…風雪、今度うちの道場に顔を見せに来てくれないだろうか」

『お邪魔して大丈夫でしたらぜひ!』

「もちろん大歓迎だ!それに家族はみんな前世を覚えているぞ!」

『それはお会いしたら泣いてしまうかもしれませんっ』

「そうか!だが泣くのは俺の前だけにしてほしい!」


そう言ってコテン、と首を傾げて眉を下げる表情の意味を知らない。杏さんの優しさは嬉しいのに素直に喜べないのは私が子供だからだ。

記憶がなくても、もう一度好きになった。

私の生きる道にはいつも杏さんがいる。誇らしくて、そして小さな氷の破片となって降ってくるんだ。いっぱい貰ったものは大事に大事に胸に溜め込んで、一つ一つに名前をつけてたんだよ。いつか全部を届ける事は出来るのかな。




****


放課後の美術室

呼び出した本人は先程から機嫌が良さそうに鼻歌を唄いながら絵を描いている。後ろから覗いてみたけど、随分と前衛的なものを描いていらっしゃる。真ん中で大きな赤い玉が爆発してて物凄く派手ではあるけど、意図はよく分からない。芸術とはそういうものなのだろう。


「煉獄と付き合えて良かったな。おめっとさん」

『付き合ってないですよ?』

「は?」

『ん?』


まるで時が急停止したように宇髄さんは口をポカンと開けて固まってしまった。ポトリと指から滑り落ちた筆が床へ転がる。いや、どうして。ビックリしたのはこっちなのですが…。


「嘘だろ?!記憶戻ったのにか?!」

『戻りましたけど、あの時だって恋仲ではなかったですし…杏さんは杏さんの人生を歩んでいるので今更横槍は出来ません』

「お前らは揃いも揃って…」

『それに好きな人がいると言っていました。その恋を私は応援すると決めたんです』

「煉獄のヤツ、締めてくるわ」

『なぜっ!?』


ガタッと乱暴に立ち上がってドアへ歩き出した宇髄さんのパーカーを引っ張って引き留めた。ジロリと上から見下ろされる切長の目が細められる。背丈があるからとても威圧感があるが、怯んでいる場合じゃない。止めなきゃいけない時はちゃんと止めないとこの人は危ない。本当に突っ走ってしまうから。この美術室を爆発したように。


「お前はそれでいいのか?良くねぇよな。百年だぞ?百年想い続けて記憶だって思い出してやっとまた同じ時代にいれるのに何を遠慮する必要があんだよ」

『それは…でもっ』

「いつまで自分を後回しにしてんだよ!いい加減、腹を決めろ!!」


宇髄さんの大きな両手で頬を挟まれて無理矢理に上を向かされ、菖蒲色の瞳と視線が合う。背の差があるから少し首が痛かったけど、真剣に考えてくれているのがその表情から伝わってきたからグッと口をつぐんだ。

宇髄さんは普段飄々としてるけど飾らないで的確な事を言ってくれるし、よく人を見ていて些細な変化にすぐ気付いてくれる。それは昔も今も変わらない。誰にでも出来る事ではないんだ。


「お前まで居なくなるな!」

「それが聞けただけで充分だ」



他人に本気で怒れる人は少ない。宇髄さんが居なかったら私は自暴自棄になったまま野垂れ死んでいたかもしれない。感謝してもしきれなくて、恩を返したいのにこの人は「そんな事は気にすんな」と言うんだ。本当に敵わない。変わらず迷惑をかけてばかりだなぁ。


「…煉獄の好きなヤツ、知ってるぜ」

『本当ですか?!どんな人ですか…?綺麗系だったり、可愛い系だったり…』

「黙ってれば美人。話し出すとバカ。でもそこが可愛い」

『まるでドラマのヒロインみたいな人ですね…宇髄さんもその人の事が好きですか?』

「そうだな、俺も好きだわ」


凄いな。好き嫌いがハッキリしてるあの宇髄さんも好きって言ったぞ。

美人で抜けているところがある…思い当たる人物が一人いる。カナエさんだ。通り過ぎる人みんなが振り返るほど綺麗で、話すと天然でとても可愛い。溢れるほどの優しさも強さも持っている事を知っている。私も大好きな人だ。しのぶに初めて逢った時も妖精みたいな子だと思った。身軽で背に羽根が生えてるみたいだなぁって。

越えるのは無理だ。でも好きという気持ちに嘘はつきたくない。今まで背けてきた現実とちゃんと向き合わなきゃ。例えそれが叶わない想いだと分かっていても。


『…杏さんのことを好きな気持ちに嘘はありません』

「おう」

『昔も今もこの先も変わることはないです』

「それが聞けただけで充分だ。何でも協力してやっから、どんどん相談しに来い!」

『宇髄さんはずっと優しいですね』

「お前は相変わらず変なヤツだな。俺を優しいっつーヤツは物好きだわ」

『雛鶴さんや炭治郎たちも同じ事を言いますよ』


頬を挟んでいた宇髄さんの大きな手が離れ、あーとかうーとか歯切れの悪い言葉を発しながら銀髪をかき上げる仕草が何だか可愛いと思う。普段あんなに豪快な人なのに頭の上がらない人達が居る事が微笑ましい。


チラリと目が一瞬こちらを見たかと思ったら、見せたいものがあると隅っこに置かれていた大きなキャンバスを私の前まで運んできた。真っ白な布で覆われたキャンバスは直近で見ると私の背とほとんど変わらないほど本当に大きい。


『この絵、完成したんですかっ?』

「おう。だいぶ時間は掛かっちまったが、お前に一番に見せる約束してたからな」

『覚えてて下さってありがとうございます。何だかドキドキしますね』


おもむろに宇髄さんが覆っていた布を取る。目が眩むほど真っ白なキャンバスの真ん中に大きな桜の木が描かれていた。淡く繊細な色合い。空高く伸びる張り巡らされた枝。大きく根を張った幹。キャンバスいっぱいに広がる桃色の花弁。まるであの日の景色をそのまま切り取ったような絵。見れば見るほど吸い込まれそうな感覚に足が竦む。見覚えのあるこの景色は、、


「お前の屋敷の庭にあった桜だ」

『きれい…』

「お館様のとこにも俺のとこにも植ってたけどよ、俺はここの桜が一番好きだったんだよなぁ」


落ちたインクが染み込んでいくように隣で宇髄さんが静かに感嘆を溢す。あの頃にタイムスリップして目の前で見ているような温度を感じる。匂いもみんなの声もすぐ耳元で響いていた。鞠が弾むように右から左へ行き交う心地よい音。

すぐ近くで大好きな人達が笑ってる。

これほど嬉しくて幸せな事はないと思った。


『みんなで縁側に座ってお酒を飲んだり、持ち寄ったものを食べながらお花見しましたね』

「朝から晩までどんちゃん騒ぎしてたよな」

『宇髄さんは飲んでばかりで、杏さんは食べてばかり。雛鶴さん達が作って下さった料理がどれも美味しくて鈴菜もニコニコしながら食べてたなぁ』

「本当、お前あの饅頭好きだったよな。普段は食が細いのに饅頭だけは誰よりも食ってたし」

『作り方を教えてもらって作ってみましたが、同じ味にはならなかったんです。あんなに美味しい料理を毎日食べれる宇髄さんが羨ましかったです』

「それ聞いたらアイツらも飛んで跳ねての大喜びだわ」


窓から少し肌寒い風が入ってきてカーテンを揺らす。絵の花弁もヒラヒラ舞っているように見えた。この中でそれぞれの想いが生きている。傷付いた心も桜を見上げている時は溶けて無くなり、このまま時が止まればいいのに、と何度思っただろう。風が吹けばまるで雪みたいに舞う。散ってしまうのは勿体無いから、全て掻き集めて寂しい時に見返したいとどれほど思っただろう。


「…お前が居なくなったあとさ、」

『はい、』

「鈴菜はこの木の下でよく泣いてたよ」


ゆっくりと見上げた先にある宇髄さんの視線は真っ直ぐに絵を見たままで。遠くの記憶に想いを馳せるように瞬きせず、ポツリポツリと言葉を溢す。静かに、そして少しの寂しさを孕んだ声色。

私が最期に見たのは鈴菜の泣き顔だった。笑ってほしいと言いたかったけど、無責任な我儘だと思って言わなかった。だから想像出来る。瞳が溶けそうなほど涙を浮かべて俯くあの子の姿を。


「でもよ、女ってのは強いモンで、その後ちゃんと前向いて歩いてたわ」

『そう、だったんですね…」


出逢った時から健気で真っ直ぐで優しい子。鈴菜に師範と呼んでもらえる事が嬉しくて、いつしか生きる理由になっていた。おかえりを言ってほしくて、どんな状況下でも絶対に守るんだと己を奮い立たせていた事が蘇る。

私が奪った未来をどうか幸せに生きれるように常に考えていた。だけど後悔と罪の意識だけで傍に置いていたワケじゃない。同情だけで継子にしたワケじゃない。ただただ、自分の命より大切だった。それだけ。それが全て。


「その反面、俺はダメだわ。揶揄うヤツが居ないとつまんなくなっちまってな」


宇髄さんの髪が揺れ、目元が隠れて表情が見えない。少し強い香水が静かな室内に燻っている。最終決戦のあの場に居たほとんどの者には痣が出ていた。痣者は二十五歳までしか生きられない。みんなを見送った宇髄さんの目には何が映っていたのだろう。

遺される辛さも、遺して逝く辛さも知った。

言葉では言い切れない想いが溢れるほどある。


『宇髄さん、』

「不死川もお前の事を危なっかしいヤツだってよく言ってたぞ」

『実弥さんには怒られてばかりでした』

「可愛がられてたんだよ」

『有り難い事です、本当に』


呼吸は違えど、風と氷には似通った部分が多く、手合わせをしてもらっていた事を思い出す。杏さんより実弥さんの方が容赦なくて、気絶しては蝶屋敷でカナエさんに諭され、しのぶには良く怒られていた。体中のあちこちが痛くても、昨日出来なかった事が次の日には出来るようになっている事が嬉しくて仕方なかったんだ。

口を閉してしまった宇髄さんの顔を覗き込めば、切長の目が真ん丸に開かれた。面倒見の良い兄貴肌の貴方が居てくれたから救われた人が沢山居る事。その中に私も居る事を忘れないでほしい。


『宇髄さん、春になったらみんなでお花見をしませんか?』

「花見か…いいねぇ。他の奴らも誘って派手にやろうじゃねぇか!酒は任せろっ」

『飲み過ぎは気をつけて下さいね。宇髄さんの酒豪っぷりは覚えていますよ』

「…なぁ、前から思ってたんだけどよ。何で俺は苗字呼び?」

『え?』

「煉獄は分かる。不死川と冨岡が名前呼びなのがわかんねぇ」

『実弥さんは育手が同じで兄弟子にあたるので』

「ほうほう」

『義勇さんはよく任務が一緒になる事が多かったからです』

「それは俺もだろ!むしろ俺の方が冨岡より任務被ってるわ!」

『そんな事を言われましても…宇髄さんの場合、名前呼びは奥さん達の特権だと思うので』


しどろもどろに言葉を選びながら答えれば、宇髄さんはポカンとした表情を浮かべた。そして口角を上げて妖しげな顔をする。この顔をする時は大抵よからぬ事を考えている時だと知っているから思わず身構えた。


「お前も可愛いとこあるんだな。そんな風に考えてたとは知らなかったわ」

『深い意味はないので忘れて下さい』

「俺はリュウさえ良ければいつでも大歓迎だけど」

『何を言ってるんですか、らしくないですよ』

「まぁ、煉獄がいるからな」


意味が分からず頭を傾げると、罰が悪そうに髪をかきあげてジトっとした目を向けられる。拗ねた大きな子供みたいで笑みが溢れれば、更に深くなる眉間の皺。何か言われる前に美術室のドアを開けて、振り返った。


『また明日です、天元さんっ!』

「おまっ!そういうとこだぞ!!」


騒ぐ宇髄さんを尻目に、そのままドアを閉めて廊下を走り出した。

楽しみが増えた。
気持ちがフワフワと高揚する。
みんなでお花見がしたい。
満開の大きな桜の木の下で。
飲み物や料理を持ち寄って、温かな空を仰ぎながら尽きる事ない話がしたい。

春がくる。

杏さんやみんながいる春がくる。

今から待ち遠しくて仕方なかった。





貴方と出逢って季節がこんなにも早く過ぎるものだと知った。












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