愛及屋鳥
言いたいことは百も千もあるが、言えたのは十にも満たない。
伝わったのはどれくらいあるのだろうな。
『本当に…生きてる、』
『ちゃんと息を吸って、生きてる』
『よかった…ぁ…』
助けを乞う事が出来ない子だった。溜め込んで悲しくない、寂しくないと笑う子だったゆいが初めて見せた涙だった。本当はこんなに繊細で氷のように割れやすい面を持ち合わせていたのに、そんな部分は幼い頃に捨ててしまったのだろう。だから尚更放っておけなかった。
車で家まで送っている時、意識を手放したゆいの頬へ手を伸ばした。やっと触れられた。やっと届いた。記憶が戻った頃からずっと探していた愛しい熱。もう見つからないかもしれないと思った日もあった。
梅雨の始まりの日、職員室のドアに立つ姿を見た時は夢かと思った。だが、夢でなかった。そして今、こうして隣にいる。昔と変わらず名前を呼んでくれる。
大切にしたい。
そう思うのに傷つけてしまいそうであと一歩が踏み出せずにいる。この一線を越えた時、お前はまた笑ってくれるだろうか。それとも泣かせてしまうのだろうか。
良く晴れた朝、聞き慣れた足音が社会科準備室のドアをノックする。顔を見ていなくても分かるが、いつも通り返事をすると思っていた人物がドアを開けて中へ入ってきた。一瞬で室内に陽光が差したように明るくなり、石鹸のような優しい香水と小麦粉が焼ける香ばしい匂いが鼻を掠める。
柔らかい表情を浮かべたゆいが抱えている紙袋が目に入り、尋ねれば竈門少年から俺宛に預かったものだと言った。一緒に袋の中を覗くと一口サイズにカットされたさつまいもが練り込まれたパンがいくつか入っている。表面にバターが塗られているのか、飴細工のような色合いが食欲を誘う。
美味しそうですねとニコニコとした笑顔を至近距離で見てしまい、その眩しさに目がチカチカした。途端に鼓動が早鐘を打ち始めたのを隠すように一緒に食べようと待ちかければ、今度は気恥ずかしそうに小さく返事をするものだから朝から心臓に悪い。
教師と生徒のギリギリの境界線。冨岡辺りはアウトだと言い兼ねない危うい橋を渡っているのは重々承知だ。卒業するまで待つのが大人の対応というものだろう。頭では理解しているが、いざゆいを前にすると自分の欲が出てしまって仕方ない。本人はまさかそんな風に想われている事など露程も知らずだと思うが。
四時間目の授業が終わり、教室を出て渡り廊下を足早に歩いている時にふと我に返った。こんなに早く戻ったところで来ているはずはない。逢いたいという気持ちが先行してしまっている。窓ガラスに映る自分の顔も緩んでしまっていた。浮かれているな、ゆいが記憶を取り戻してから特に。
落ち着かなければと気を引き締め直した矢先、既に準備室の前でああでもない、こうでもないと百面相をしているゆいを見つけて隠しきれない想いが溢れて笑みが溢れてしまう。本当に授業が終わった後にすぐ来てくれたのかと。
「本当に早いな!そんなにお腹が減ったのか!」
『いや、あの…はい!』
「俺もだ!さぁ中へ入って食べよう!」
室内へ通し、自席の横にある椅子へ座るよう促す。ゆいはスカートを正して静かに座ると、ワクワクした表情でパンの入った袋を見つめていた。幼子のような反応が新鮮でずっと見ていたかったが、そんなワケにもいかないのでゆい用の紅茶を用意して机へと置く。
『ありがとうございます!何から何まですみませんっ』
「俺が好きでやっているから気にしないでほしい。コーヒーの方が良かっただろうか」
『紅茶好きなので嬉しいです。コーヒーはその…苦いのは飲めなくて。お子様で恥ずかしいのですが』
「いや?可愛らしくていいな!」
『か、かわっ!?』
大きい目を更に大きくして口を開けたり閉じたりしながら俺を見ていたが、やがて言葉が見つからなかったのか誤魔化すように紅茶を飲んでいた。ふーふーと息をかけて冷まし、コクリと細い喉が鳴る。いつもなら気にならない光景もゆいが相手だとそれはとても甘美なものに見えた。
「普段は弁当を持ってきているのか?」
『毎日ではないですが、高校に入ってから自分で作れる時はお弁当作って持ってくるようにしてます』
「自分でか!それは凄いな!いや、昔から良く料理を作ってくれていたから不思議ではないか」
『あの頃より作る頻度は随分少なくなりましたよ』
「それでも偉いぞ!俺も見習わなければならん!実は来年の春から一人暮らしをする事になってな」
『そうなんですかっ?それは一人でやらなければいけなくなるので大変ですね…』
「掃除や洗濯は何とかなるかもしれんが料理だけはどうもな…。そこで一つ、頼みがあるのだが」
『私でよければ何なりと!』
「ありがとう!俺に料理を教えてくれないだろうか。君の作るものは全て美味い。出来る事なら毎日食べたいくらいだ!」
予想外の言葉だったのか、ゆいはパンを持ったままピタリと動きを止めて目をパチクリさせる。そして時間差で顔を赤く染めた。驚いたり、笑ったり、照れたり、目まぐるしく変わる表情は見ていて飽きない。むしろ時間の許す限り眺めていたいと思う。
昔も同じ言葉を投げ掛けたがここまでの反応はしなかった。以前よりは意識してもらえていると自惚れても良いだろうか。どんな返答をしてくれるのかジッと出方を伺っていると、ゆいは照れた表情から物思いに耽るようにしゅんと沈んでしまった。
早急に詰め寄りすぎたか?
気に触るような発言をしてしまっただろうか。
「すまない、突然変な事を言ったな。今のは忘れ」
『いえ!違います!凝ったものは作れませんが…私で良ければ一緒に頑張りましょう!』
「そうか!そう言ってもらえると頼もしいな!宜しく頼む!」
『はい!こちらこそ宜しくお願いします!』
引っ掛かる部分はあったが、ゆいが笑って答えてくれたのでホッと胸を撫で下ろす。だが、何故あのように寂しそうな顔をしたのだろうか。家庭で何かあったような感じではなさそうだが…少し様子見をするか。
一口また一口とパンを頬張るゆいを見ながら、コーヒーの入ったコップへ口を付ける。換気の為に開けた窓から校庭でサッカーをしている生徒達の声と金木犀の匂いが入ってきた。パンの香ばしい香り、石鹸の香りが舞う長い髪、大切なもので溢れた空間だ。このまま独占出来ればいいのに、と教師らしからぬ事を考えながらコップを机に置く。
ゆいは芯が強く健気で何色にも染まらない真っ直ぐな子だ。
その事を改めて痛感したのは俺が大学三年の春。
あの日の事を今でも昨日の事のように鮮明に思い出せる。
****
俺の家族は千寿郎以外、前世の記憶はなかった。少し寂しさはあったが、今を幸せに生きている両親を見れるだけで充分だったからそれ以上は求めなかった。
来年は本格的な就職活動が始まる為、早々の準備を始めなければならない。俺は教師の道へ進もうと心に決めていた。本当は卒業したら煉獄家を継がなければならない。しかし、どうしても歴史教師になる夢を捨てきれず、父上に直談判をしようと決意した。
母上はちゃんと話せば大丈夫だと言ってくれたが、やはり緊張はする。規律、伝統に厳しい人だ。最悪の場合、勘当される可能性もあるだろう。現に前世ではそれに近い状態だった。だが、拒絶されたところで俺の信念は曲げられない。すぐ諦めるような軽いものではないのだ。殴られる事は覚悟の上。一度着いた火は簡単に消えない。例え仲違いになったとしても俺は俺の信念を突き通す。
『自分に嘘はつかないで下さい』
母上を亡くしたあの日、俺に言ってくれたゆいの言葉を今もずっと噛み締めて大事に思っている。どんな形でも彼女にまた出逢える事が出来るのなら、その時は伝えきれなかった想いを全て伝えたい。
父上の部屋の前までいき、中へ声を掛ければ障子の向こうで短い返事が聞こえた。大きく深呼吸をし、障子に手をかけ横へ引く。
部屋の真ん中には正座をして座る父上の姿があった。その前にある座布団へ腰を下ろして真正面から鋭い眼光を見据える。ピリピリとした空気が肌を刺し、昔から変わらない重い圧に冷や汗が滲んだ。
「父上、お話があってきました」
「何だ、話してみろ」
「俺は将来、教師になります」
ピクリと父上の眉が動き、猛禽類のような目が細まった。その表情に押し負けないよう、膝の上の拳をぎゅうと握る。
「本気で言っているのか」
「はい、本気です」
「この道場はどうする気だ」
「道場を継げず、申し訳ありません。ですが、俺は自分の夢を諦めたくない」
ピシリと空間に亀裂が入った気がした。いっそ怒鳴られた方がマシだと思うほど息苦しい静寂。呼吸一つ、瞬き一つさえするのが重い。それでも目は逸らさず、ジッと父上を見つめた。
褒めてもらいたいワケじゃない。ただ覚悟を分かってもらいたかった。くだらない、と言われ続けたあの頃も自分の信念を曲げる事をしなかった。信じてくれる者がいてくれたからだ。再び逢えた時、胸を張って報告する為に俺は決して折れるワケにはいかない。
どのくらい無音の時間が続いただろう。このままではダメだと思い、話を切り出そうとした時、父上が深い溜息を吐いた。
「…子供の夢を諦めるな、」
「…それは、」
「昔、ゆいから言われた言葉だ」
「なっ、」
耳を疑った。頭が真っ白になり、鼓動がドクドクと全身を走り出す。まるで殴られたかのような衝撃に開いた口が塞がらなかった。
「情けない事にゆいに怒鳴られた時、瑠火と面影が重なった」
何故、父上の口から「ゆい」の名前が?
俺は聞き間違えたのか?
都合の良い幻を見ているのか?
まさか、そんなありえない。
俺と千寿郎以外の家族は前世の記憶がないはずだ。今まで一度もゆいの名前を出した事はない。ならば、どうして。
予想外の発言に言いたかった言葉は全て吹き飛んでしまった。
「俺はな、お前が生まれた時に昔の記憶が戻った。だが、言わずに黙っていようと思った。お前達が記憶を取り戻した事に気付いていてもな」
「何故、ですか…?」
「己への戒めだ。瑠火を亡くしてから情けない姿をお前達に見せたからだ」
「そんな事は、」
「特に杏寿郎、お前には何もしてやれず遠ざけるばかりですまなかった」
いつもの厳格ある表情がふわりと柔らかくなり、僅かに眉を下げて謝る姿に胸が締め付けられる。父上が、覚えていた。自分が生まれた時からずっと今日まで、その事を言わずに接してきてくれていた。
「謝らないで下さい。認めてもらえなかった事に寂しさはありました。ですが自分を不幸だと思った事はありません」
「…お前は昔から変わらないな」
「ゆいに怒られた事は本当ですか?」
「…ああ。あれほど感情を表に出したのは初めて見たな。それほどお前と千寿郎の事を大切に思ってくれていたのだろう。本当に良い子だった。…本当に、」
父上は懐かしむように遠くを見つめながら言葉を零す。
ゆいは俺がいなくなかった後も変わらず俺達兄弟の味方で居続けてくれていたのか。あの頃の父上に身を挺して怒ってくれたのか。それがどれほど大きな事なのか。どれほど尊い行動なのか本人は気付いていないかもしれない。自分の事より相手の事を優先してしまう子だから。誰にでも出来る事ではないというのに。
「自分で決めた道だ。中途半端な事は許さん。決して折れるな、壁にぶつかっても腐るな」
「はい!己の責務を全う致します」
「父親としてお前が選んだ道を信じる」
ぐっと喉に力が入る。
目の奥底が燃えように熱く、灯る。
あの時、欲しかった言葉をいざもらえると胸がじわりじわりと音を立てて満たされていくのを感じた。
「ありがとうございます」と畳に手をつき、頭を下げると頭上から父上の小さく笑う声と、ゆいが好きだった香の匂いがした。
後日、父上だけではなく母上も記憶が戻っていると聞き、再び生んで育ててくれた両親への感謝と己の決めた道へ精進しようとより一層心に決めた。
『煉獄先生…?』
ふとゆいが不安気に顔を覗き込んできて我に返った。父上とのやり取りを思い出し、目の前にいる子への想いが益々増えて思わず抱き寄せそうになったのをなけなしの理性で堪える。
そういう関係ではなかったからな。宇髄の言う通り、もっと早く行動に移していれば良かったと後悔したって仕方ない。今をどう大切にしていくかだ。
「すまない、懐かしさにボーッとしてしまった!」
『分かります、私もそうです。先生とは特に長く時間を過ごせたので思う事が沢山あります』
「そうだな、よく泥だらけや傷だらけになりながら鍛錬をしたものだ。…懐かしいな」
『はい、本当に。どれも大切な思い出です』
そう言うと紅茶を一口飲み、目元を緩ませて嬉しそうに笑う姿が愛しい。あの頃はこんな未来がくるとは思ってもみなかった。同じ場所てま同じ時代に再び出逢えた奇跡を噛み締める。
「風雪、今度うちの道場に顔を見せに来てくれないだろうか」
『お邪魔しても大丈夫でしたら是非!』
「もちろん大歓迎だ!それに家族はみんな前世を覚えているぞ!」
『それはお会いしたら泣いてしまうかもしれませんっ』
「そうか!だが泣くのは俺の前だけにしてほしい!」
俺の言葉にゆいは不思議そうにコテンと首を傾けた。意味をちゃんとは理解していないだろう。
記憶を取り戻し、泣いていた顔を見てこの子はやっと泣く事が出来たのだと思ったら堪らず抱き締めていた。大きな瞳が飴のように溶けてしまいそうだと。そしてこの表情は誰の目にも映したくないと欲が湧いてしまった。甘く、残酷な情を孕んでいるもの。隠してしまえたらどれだけいいだろう。
****
「今日は見学希望者を連れて来ました!」
「見学者だと?どこにいる?」
『風雪ゆいといいます!』
俺の後ろからピョコッとゆいが顔を出して挨拶すれば、父上はこれでもかってくらいに目を刮目し、後ろへ一歩のけ反った。父上のこんな反応は初めて見る。何とも新鮮だ。
「き、君はっ」
『お久しぶりです、槇寿郎さん!』
「覚えているのか?!」
『はい!っと言っても先日思い出したばかりですが…』
「そうだったのか。…杏寿郎、何故黙っていた」
「驚かせようと思いまして」
「ぐぬぅ」
いつもの威厳溢れる表情は吹き飛び、バツが悪そうに頭をかく仕草をゆいが嬉しそうに笑って見ていた。母が亡くなる前の穏やかなあの頃のやり取りを見ているようで懐かしく思う。
竹刀でボコボコにされ、体術では何度も投げ飛ばされて地面に転がり、見上げた空の綺麗さを昨日の事のように思い出せる。横で一緒に寝っ転がりながら父上から一本も取れなくて悔しそうに眉を顰めていたのを見て、負けず嫌いな子なのだと知った。
父上の元で切磋琢磨しながら育ち、ゆいが煉獄家を出て行った後も時間を作って逢いに行った。最期の時までずっと考えていた。そして今だって手元に置いておきたいと、自分の領域へ引きずり込もうとしてる。身勝手だとお前は怒るだろうか。
「ただいま帰りました!」
「千寿郎が帰ってきたか」
『おかえり、千寿郎ーっ!』
「えっ?!あ、貴女はっ!!」
小走りで駆け寄ったゆいが抱きつけば千寿郎の肩からカバンが落ちる。状況が分からず、驚いてワタワタと身振り手振りで俺と父上を見ている弟の姿が微笑ましい。そして同時に愛しい光景だと思った。
そこへ買い物から帰ってきた母上も加わり、ゆいを見つけると髪を優しく撫でて柔らかな言葉をかける。ゆいの目が僅かに揺れているのが離れた場所に居る俺にも分かった。静かに、優しく、温かい。そして俺を見ると満開の桜のように笑った。
ああ、いいなと思った。
俺はやはり、お前がいい。
ゆいに傍に居てほしい。
ずっとこれから先も。
愛及屋鳥
自由でいてほしいのに、鍵を掛けて閉じ込めておきたくなった。
俺が開けるまで籠の中で眠っていてほしいと思った。
手放し方を俺は知らない。
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