変わらないもの








『もう頭がパンクしそう』

「宇髄先生が喜びそうね」

『あの人はずっと頭おかしいよね…』


もうすぐ地獄の中間テストが始まる。放課後の誰も居ない教室で一番の悩みである数学をしのぶに教えてもらっていた。中にはこんなところやったっけ?というような問題もあったけど怒られそうなので黙って教科書と睨めっこをする。

数学を見ていると眠くなってしまうし、点Pは動かないでほしいな、と痛む目頭を押さえていると、廊下を通りかかった実弥さんがドアをくぐって入ってきた。


「あら、不死川先生」

「二人して居残りかァ?」

『しのぶに勉強を教えてもらってるんです。次のテストでは前回より良い点数をとります!』

「良い心掛けだなァ。胡蝶に教えてもらってんなら60点以上とれるだろォ」

『ろ、60点…とんでもない高得点ですね』

「確か、お前の前回の点数は」

『わー!頑張ります!やります!』

「言ったなァ?60点とれなかったら補習だァ」

『赤点の基準が上がってしまった…』

「リュウなら余裕よね!」

『う、うん!』


口元はニコやかだけど目が笑っていないしのぶに押されてガッツポーズをしてしまう。ここまでしてもらって取れなかったら申し訳ないし、怒られるだろう。しのぶは実弥さんより怒ると怖いのだ。昔から頭が上がらないのは変わらない。怪我が治らないうちに抜け出して庭先で素振りをしていたら引きずり戻され、動けないようベッドの柵に縛られたのは今となっては良い思い出だ。

しどろもどろになる私をよそに実弥さんは喉の奥で笑うと、肩越しに手をヒラヒラと振って教室を出て行った。ただでさえテスト範囲が広いから泣き言を言っている場合じゃないな…これは本当に気合いを入れないとダメだ。



まもなくして、最終下校時間を告げる放送が鳴って机上のものを片付け始める。しのぶがカナエさんの所へノートを出してくると言ったので、戻ってくるまで教室で待っている事にした。

お腹すいてきたなぁとスマホを見ていると、聞き慣れた足音が近付いてくるのが聞こえて目を廊下へと向ける。ドアの所へ姿を現したのは思っていた通りの人物で、こちらに気付くと教室へ入ってきて声をかけてくれた。大好きな匂いが濃くなる。


「こんな時間までどうした?」

『テストが近いので、しのぶに教えてもらっていたんです』

「テスト勉強をしていたのか!遅くまでしっかりやっていて偉いな!」

『不死川先生と数学で良い点数を取らないと補習にするって約束をしてしまったので必死ですっ』

「そう、なのか…」


珍しく言葉を濁す杏さんが何かを考えるように目を伏せた。すぐに大きな瞳を上げて「それは大変だな!」といつも通りの豪快な声が返ってきたけど今の間は何だったんだろう。

頭を傾げる私の視界に杏さんの腕がゆっくりと伸びてくるのが見えた。そして髪に静かに触れ、まるで壊物を扱うような手つきで1束の髪を掬う。絵になるような綺麗な所作に言葉は溶けてしまった。


「葉っぱがついていたぞ!」

『は、葉っぱ…?いつ付いたんだろう?!ありがとうございますっ』


一瞬、頭を撫でられたのかと勘違いしてしまった。舞い上がってしまって恥ずかしい…。それに葉っぱって何だ!?体育もなかったのに、本当にいつから…まさか朝登校した時?いや、そしたらしのぶに言われると思うし…。


「あまり隙を見せないでくれ」

『隙、ですか?』

「でないと悪い大人に捕まってしまうぞ」


悪戯っ子みたいな表情を浮かべながらトンっと額を小突かれたら感情が壊れてしまう。熱い熱い熱い。血が上りすぎて耳の奥が痛い。触れてくれた手を捕まえて思わず『好きです』と言い出してしまいそうになった。喉まで出かかった言葉をギリギリのところで飲み込み、全てを見通しそうな瞳から目を逸らす。

教室中に響き渡っているんじゃないかというくらい心臓が煩い。どうして普通に接する事が出来ないんだろう。昔はもっと上手くやれていたはずなのに。

…実はそう思っていたのは自分だけだったのかもしれない。宇髄さんや天然な義勇さんにだってバレてしまっていた。今も昔も変わらず翻弄されっぱなしなんだ。

このまま杏さんの熱に当てられ続けたらいろいろとダメになってしまう。


『しのぶが待っているので帰りますっ!煉獄先生も気をつけて帰って下さいね!』

「ありがとう!風雪も気をつけて帰るように!」


二人分の鞄を引っ掴み、杏さんへ一礼すると慌てて教室を飛び出した。本当はもっと話していたいのに、二人きりの空間に想いが耐えられそうになかった。まるで100mを全力疾走した後みたいだ。あからさますぎて、さすがに杏さんにも気付かれてしまっただろうか…。

渡り廊下を駆け抜け、華道部の教室へ行く間も上がった体温は下がらないままだった。もし、あの時。杏さんの手に触れていたらどんな顔をしたのかな。知りたいのに、確かめたいのに臆病な私はいつまでも引いた線の外側で見てるだけ。


華道部に着き、ドアを開けたけど中にしのぶの姿はなかった。行き違いになってしまったと、元来た道を引き返していると階段を上がってきたしのぶに「こっちに来て」と手を引かれるまま歩き出す。

着いたのは職員室で、どうしたのだろうと首を傾げればガラッとドアが開いて中から桃色の綺麗な髪をした女の子が飛び出してきた。


「リュウちゃん聞いて!伊黒さんがね!」

「私、リュウちゃんが笑ってくれると気持ちがこう、グワァーっとしてドドドッて幸せになるの!」



過去と今が重なる。


『蜜璃っ!』

「リュウちゃんんんん!!ずっっっと逢いたかったよぉぉぉ!!」


こちらを一目見るなり弾けるような笑みを浮かべ、駆け寄ってきたと思ったらその勢いのまま抱き締められた。甘いお菓子のような匂いとフワフワの髪、そして涙目になりながらギュウッとくっついてくる姿が可愛いくて、懐かしくて胸がいっぱいになった。


「私ね!街中でリュウちゃんを何度か見かけた事があるの!」

『そうだったのっ?気が付かなかった…蜜璃を見かけたらすぐに分かるのにっ』

「でも電柱や看板に隠れたりしてたから分からなかったと思う!!」

『どうしてそんなところにっ?』

「伊黒さんからリュウちゃんが前世の記憶がない事を聞いてたから、私が不用意に近付いたらダメかなって思って…」

『蜜璃…、』


迷子になった小さな子供のように眉を下げてしゅんと俯き、瞳を不安気に揺らしているのを見て申し訳なさと愛おしさが込み上げてくる。優しくて、素直で、可愛くて、今も昔も変わらない。あの頃も蜜璃の明るさに救われていた。一人では何も思わなかった事も、蜜璃が話してくれると色鮮やかに見えた。

言葉を探す蜜璃の頭をポンポンと撫でる。おずおずとこちらを見る桃色の瞳が弱々しく揺れていた。


『ありがとう、蜜璃。思い出すのが遅くなってごめんね』

「ううんっ!!覚えていても、いなくても!今も昔もずっと好きだよぉぉ!!」

『私も好きだよ。蜜璃も、しのぶも!』


横で驚くしのぶも一緒に抱き締めたら耳元で笑い声が聞こえた。懐かしいなぁ、本当に。こうやって話したり、お買い物したり、ご飯を食べに行って、たくさん相談にのってもらって。過酷で心が折れそうになる悲惨な日々も二人の顔を見て、声を聞いて、癒しと元気をもらっていた。

一緒にいてくれてありがとう。

一緒に前を向いて生きてくれてありがとう。


「ねぇねぇ!今から三人でご飯食べに行こうっ?!」

「行きたいですね。でも伊黒さんは大丈夫ですか?」

「うん!今日はしのぶちゃんとリュウちゃんに逢うって話してるから!」

『今も変わらず伊黒さんと仲良くて嬉しいよ』

「あのね、実は…付き合ってるの!伊黒さんと…っ!」

『本当っ??お祝い!お祝いしなきゃ!!』

「ありがとうーっ!ねぇ!リュウちゃんは煉獄さんとどうなの!?」

『私っ?私はいいよ、何もないからっ』

「何もないってどういうこと!?ちょっと煉獄さんを問い詰めてくるんだからっ!!」

『待って待って!ご飯!ご飯行こうっ!?』

「分かった!その時たっっくさん聞かせてもらうからね!」

『話すようなことは何も…し、しのぶー!』

「ぜひ私も聞きたいわ」

『えっっ、』


その後はありとあらゆる質問攻めに降参して、今の想いを打ち明ければ二人は優しく笑ってくれていた。何だか気恥ずかしくて、自分の事を話すのはやっぱり得意じゃないなと思った。友達の事は言えるのに、いざ自分の番になると耳を塞いで走り出したくなる。恋ってこんなに人を動かす原動力になるなんて初めて知った。








****


今週は掃除当番で、放課後になると中庭の掃き掃除をしていた。昼間は賑やかな校舎も、今は遠くで聞こえてる部活の掛け声だけが響いていて少し寂しい場所に姿を変えていた。

十月下旬に差し掛かるとブレザーを着ていても肌寒く感じる。校庭に植っているイチョウが扇型の葉を優雅に風に泳がせていた。風は確かに冷たいけど、この高く澄んだ空を見上げるのが好きだった。中間テストも無事に終われたから余計にそう思えるのかもしれない。数学はギリギリの62点で赤点を神回避でき、実弥さんにも褒めてもらえた事が嬉しかった。同時に期末でも60点以上とるように言われたので、まだまだ気は抜けないのだけど。


一通り片付け終わり、教室に戻っていく友達を見送りながら大きく伸びをしていると、別棟の三階の窓から杏さんが手招きをしているのが見えた。周りを見渡しても私以外に誰も居なく、『私ですか?』と自分を指差すジェスチャーをすると杏さんはうんうんと頷いてくれた。

嬉しくて、すぐに箒をしまってゴミも捨てて別棟へと走り出す。

何だろう、手伝える事があるのかな。
どんな事でも一緒に居られるなら、それ以上の幸せはないと思った。


乱れる息を整えて準備室のドアをノックし、中に入れば窓辺に立っていた杏さんがくるりと振り返る。金に朱色の混じった髪が綿飴のように揺れた。


「掃除中だったのにすまない!急がせてしまったな」

『私が来たかったので気にしないで下さい。先生、何か手伝える事はありますか?』

「いや、今日は手伝ってほしい事があって呼んだのではない。実は君に渡したい物があってな」

『渡したい物ですか?』


杏さんは「そうだ」と頷くと、机に置いてあった紅色の袋に包まれた手の平サイズの物を差し出してきたので両手で受け取った。

まるでお手玉ほどの重さのこれは何だろうと見上げれば「開けてみてほしい」と言われ、ゆっくりと袋のリボンを解く。中から出てきたのは小瓶に入った金平糖だった。嬉しさのあまり思わず陽光に翳せば、角度を変えてキラキラと反射する光景が万華鏡のように綺麗で釘付けになってしまう。


「以前頂いた缶コーヒーのお礼だ」

『お礼だなんてそんなっ!高いお返しになってしまいますっ』

「俺が渡したかったんだ。受け取ってもらえると嬉しい」

『先生には頂いてばかりになってしまって…。でも本当に嬉しいです、ありがとうございます!大事にします!』

「良かった。今も金平糖が好きなのは変わらないんだな」

『変わってないですよ。あの頃に好きだったものは今も変わってないです』


金平糖も、花火も、お祭りも、林檎飴も、風鈴も、通り雨も、雪も、紅葉も、彼岸花も、灯籠も、三味線も、蝶も、お香も、着物も、雨上がりの虹も、簪も、とんぼ玉も、そして貴方も。


『ずっと好きなままです』


視線の先にある杏さんの瞳が僅かに揺れた。この想いに気付いてほしくて、気付いてほしくない。矛盾な気持ちがブランコのように行ったり来たりを繰り返す。たくさんの好きの真ん中に杏さんがいて、全てが貴方に繋がっているのだと。想いを伝えてしまったらこの関係は崩れてしまうのだろうか。気軽にこの場所へ来る事は出来なくなってしまうのだろうか。


「俺も好きなものはずっと変わっていないよ」

『今もさつまいも好きですもんね』

「あとは能や歌舞伎もだ。一緒に観劇しに行こうと言ったが結局行けなかったな」

『毎日が目まぐるしく過ぎて行きましたからね…』

「それに花火を見に行く事もだ。あの頃守れなかった約束を今世では果たしたいと思っている。君さえ良ければの話だが」

『私もあの頃は出来なかったこと、見れなかったものを先生と一緒に見たいです』

「ありがとう、楽しみが沢山だな」

『ありすぎて時間が足りなくなってしまうかもしれません』

「足りなくならないさ。君が俺の傍に居てくれるかぎり」

『先生…?』

「今はまだ分からなくていい。だが、いつか自覚してくれたら嬉しいと思う」


柔らかった表情がスッと真剣な眼差しに変わる。その静かな圧にコクリと喉が鳴った。自覚とは、どういう意味だろう。そんな優しい言葉をかけられたら自惚れてしまう。私が想っている事と同じだったらいいなって考えてしまう。


杏さんにとって私はどんな存在ですか?

今と昔とでは違いますか?

この先も傍に居たいという、そんな贅沢は許されますか?


杏さんに逢った時からどんどん溢れていく感情。止まる事ない想いは今世で更に強まってしまった。



百年前の約束を今も覚えててくれたこと。

雷が怖いと言ったら、通り過ぎるまで傍に居てくれたこと。

冷たい手を温かいと言い、忌み子と避けられていた赤目を林檎飴のように綺麗だと笑ってくれたこと。


裏表ない真っ直ぐな言葉にどれだけ救われてきたのか言いたいのに、きっと十も伝えられていない。縁側で最後に二人で話した日を思い返すたび、情愛と後悔が胸の中で渦巻いた。月が綺麗だと言ったのは貴方が好きだから。もっと真っ直ぐに伝えていれば良かったと思った。所詮それは自己満足にすぎないけれど。


もし、杏さんがカナエさんの事を百年前から好きだとしたら。

その想いの強さをひっくり返せる力が私にあるのだろうか。こんなに近くに居ても心を見透かす事は出来ない。それでも今世では逃げずにぶつかろうと思った。未練があるから今もこうして振り返ろうとするのだから。


もらった金平糖を大事に大事に抱えてもう一度お礼を言うと、いつもと変わらない太陽のような笑顔が降ってきた。






何度生まれ変わっても、
何度記憶を失っても、
また貴方を好きになる。

そんな自信しかないよ。











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