幾久しく幸多かれ









四時間目の授業が終わり、お弁当を片手に一階まで降りる。一緒にお昼を食べようと鈴菜と約束をしていた為、人が溢れる購買の傍の壁に背を預けてスマホを取り出すと『着いたよ!』と連絡を入れた。

LINEを送ってホーム画面に戻る度にドキリと鼓動が叩くのは、宇髄さんから貰った杏さんの学生時代の写真を待ち受けにしているせい。開く度に心臓に悪いけれど見るといつも元気が出る。

こんな事をしているなんて私も相当危ない人だな、と思う。本人に知られたら引かれてもう口を聞いてもらえないかもしれない。危険な綱渡りだ。見られないよう死守しなければ。

欲を言えばこの時代の杏さんを生で見てみたかったなぁ。放課後になったら一緒に帰ったり、お昼を一緒に食べたり、ジャージを着てサッカーやバスケをしてる姿も見たい。きっと授業も毎回手を挙げて答えていたに違いない。見た事なくても想像出来る。

思いを馳せすぎて、いつもならすぐ気付ける足音がすぐ傍に来ていても分からなかった。


「何だか嬉しそうな顔をしているな!」

『せ、先生っ!?』


今、頭の中の九割を占めているご本人の登場に慌ててスマホを後ろに隠す。もしかして画面を見られてしまった…?不思議そうに頭を傾げる杏さんに冷や汗が止まらない。

様子を伺うに、どうやら画面は見られていないみたいだ。ホッと胸を撫で下ろすのも束の間、気にはなっているようで視線は私の手元を見ている。


「没収しないから安心しなさい。楽しげな様子だったので気になってな」

『ありがとうございます…、でも決してやましいものではなくて!あの、ちょっと画像を貰って…』

「…それは、宇髄に貰ったのか?」

『どうして分かったんですか!?』


まさか当てられるとは思ってなかったから驚いて素っ頓狂な声を出してしまったが、そんな声も昼時の喧騒に吸収されていった。ただ、目の前にいる杏さんにはしっかりと聴こえたらしく、一度開きかけた口を静かに閉ざす。一瞬、ほんの一瞬。緋色の瞳が鋭く光ったように見えた。温かさが消え失せ、冷たく深い水底から湧き上がるような音が軋んでいる。

でもすぐに柔らかく瞬きをするといつもの杏さんの表情に切り替わった。見間違いかと思ったけど、どこかザワザワと違和感が肌を逆撫でしていく。何だったんだろう。手に刺さった棘のように気になってしまう。


「放課後、手伝ってほしい事があるのだが少し時間をもらえないだろうか」

『はい!帰りのHRが終わったらすぐ行きますね』

「すまない、助かる」


杏さんからの誘いを断る生徒はこの学校に一人も居ないだろう。ニコッと笑って歩いていく杏さんの後ろ姿を眺めながら今だに煩い心臓をギュッと掴んだ。早く放課後にならないかな。単純だけれど浮き足立って仕方なかった。





****


放課後、ダッシュで別棟の校舎に向かう途中で義勇さんに怒られたけど、あれやこれやと理由をつけて何とか切り抜けた。

そして社会科準備室の前へ着くと、大きな深呼吸を二、三度してドアをノックする。


『煉獄先生、風雪です』

「うむ!入ってくれ!」


失礼します、と断りを入れて部屋の中に入ればそこは杏さんの匂いで包まれていて、やっぱり何度来ても緊張してしまう。声はうわずっていないだろうか。頬は緩んでいないだろうか。いつも通りを装うとして酷い顔になっていないだろうか。


「時間を作らせてしまってすまなかった」

『そんな事ないです。私に出来る事なら何でも言って下さいっ』

「頼もしいな!早速だが、ここにある資料を棚に閉まってくれないか」

『分かりました、ここの棚ですね』

「入りきらない分は奥の棚へ頼む」


横にある大きな本棚へ机に積み重なっていた本を次々と並べていく。そこには見た事もない歴史の本がたくさん並んでいて、勉強熱心なところは昔から変わっていないなぁと思った。最後までとことん追い詰め自分の糧にする努力家。弱音を吐いた事はなかった。いつも炎のように強く、気高く、優しく燃えていた人だった。

どんな雨風でも消える事なく燃え続けて、黎明と共に眠る。最後の最後までみんなの心の中で灯っていた炎。それがどれだけ凄い事なのか本人は気にしていないだろう。ひけらかす事をしないんだ。ただ、当たり前に太陽のようにずっとそこにある。この光が、熱が、恋しくて。


「リュウ、」


ふいに呼ばれた名前。
学校では苗字呼びと決めていたから、新鮮で耳を疑った。振り返った先に杏さんの真っ直ぐな目が静かにこちらを見据える。窓から入ってくる夕日が金色の髪に映って言葉を失うほど綺麗だった。


「冨岡から最近、お前の様子がおかしいと聞いた。竈門少年の鼻を摘んでいたとな」

『それはっ…』


ちょっと義勇さん、何言ってるの!?
急な名前呼びに感動していたのに、とんでもない豪速球を投げられて現実へ引き戻された感覚だ。どうしてよりにもよって杏さんに話したの、義勇さん…そういうところだと思います。


『た、戯れです』

「宇髄ともか?」

『え…、』


またまた予想斜め上の言葉が返ってきて思わず気の抜けた声が出てしまった。だけど聞いてきた本人は腕を組み、口を引き結んでいる。まるで獲物を狙う猛禽類のように鋭い眼孔が体を射抜き、足が床と同化してしまったかのように動けなくなった。呼吸一つ、瞬き一つするのも憚れるほど重苦しい空気が静かな空間に燻っている。

どうしてここに宇髄さんの名前が出てくるのだろう。確かによく話す相手ではある。主に杏さんの事についてだけれど。…まさか私が好きだという事が本人にバレてしまった?


「身に覚えがないという顔だな」

『そう、です…』

「頻繁に美術室に行っているようだが」

『それは宇髄先生に呼ばれるので…、』

「呼ばれたら誰の元へでも行くのか?」

『煉獄せんせ、い…?』


ジリジリとにじり寄ってくる杏さんに思わず後退るとドアに背中がぶつかった。そして私の顔の横へ伸びてきた両腕に通せんぼをされ、逃げられなくなる。至近距離で合う目と目に呼吸も止まりそうになった。吸い込まれそうに綺麗な瞳の中に驚いて固まる自分が映っていて変な感じがする。


『先生…、どうしたんですか…?』

「二人の時は名前でいい」

『でも…っ』

「でも、じゃない」


目前に迫る杏さんの表情が今まで見た事ない妖艶さに満ちていた。その熱を見ていられず思わず顔を伏せたら顎を指で持ち上げられ、バチっと音をたてて視線が混じり合う。

今までどうやって瞬きをしてた?
どうやって息をしてた?


「どうした、呼べないのか」

『…きょ、杏さん、』

「ああ、良い子だ」


低く、色香を孕んだ声にゾクリと体に電流が走る。徐々に近付いてくる瞳から逃げるように目を閉じた瞬間、ザーザーとノイズ音が室内に鳴り響いた。


《《煉獄先生、煉獄先生。お電話が入っております。至急、職員室までお越しください》》


校内放送が切れると目の前にいる杏さんは深い溜息をつき、私の顎から指を離した。そして「すぐに戻る」と言って足早に部屋を出て行く。その足音を聞きながら、背を壁に預けたまま力なくズルズルと座り込んでしまう。時間差で自覚した途端、沸騰するくらい体が一気に熱くなり、火照った顔を両手で覆った。


『心臓、止まっちゃうかと思った…』


長距離を走ったあとのようにドクドクと脈打つ鼓動。壊れそうだと思った。どうして杏さんはあんな事をしたんだろう…。何か意味があったのだろうか。雰囲気も怒っているような気がした。考えても分からない事だらけで余計に頭がパンクしてしまいそう。

…まずは落ち着かなきゃ。
こんな顔で杏さんに逢えない。
戻ってくるまでに切り替えよう。

鏡で顔を確認しようと準備室を出てトイレに向かおうとする途中で、校内でとても目立つ派手髪が数m先を歩いているのを発見した。咄嗟に走り出し、名前を呼ぶ前に宇髄さんは振り返ると私を見るなり楽しそうに笑う。


「どーした、真っ赤な顔して」

『先生が…っ、杏さんが変で…っ』

「ほう、ついに動いたか。ド派手な事になってイイじゃねーか」

『違うんです。杏さん、怒ってる気がして…理由は分からないのですが…宇髄さん、何か聞いてますか?』

「聞いてないけど分かるわ。そんでお前がここに居るのもアイツに火をつけちまってるぞ」

『それはどういう…ーー』

「すぐ戻ると言ったが?」


後ろから伸びてきた手にグイッと手首を掴まれ引き寄せられる。よろけた体が杏さんにぶつかってしまい、慌てて離れようとしたけど、余計に引っ張られて動けなかった。ギリギリと締まる手首が痛い。いつもより低い声と、先程よりも強くなった眼孔が宇髄さんを見ていた。


「宇髄、もうリュウに用はないな?」

「ないぜ。煮るなり焼くなりお好きにどーぞ。ただ、あんま虐めてやんなよ」

「…善処する」


ヒラヒラと手を振る宇髄さんに見送られながら半ば引きずられるようにして来た道を戻っていく。顔を見なくても分かる。さっきより凄く怒ってる。髪に葉っぱがついていると触れてくれた優しい手が今は力が篭って痛い。怒ってる。静かに目の奥が燃えている。どうして…?


準備室に戻ってからは一切会話がなかった。杏さんの目が冷たい。一度チラリとこちらを見た後、すぐ背を向けて視線を窓の外へと流してしまう。ただただ肌を刺すような空気が痛い。二人きりがこんなに苦しいのは初めてだった。声をかけたいのに息一つ、指一本動かす事さえ躊躇われるほどの静寂が怖くて言い出せない。

どうしよう。待っていろと言われたのに勝手に飛び出して余計な時間をかけさせてしまった。何か大事な話をしようとしていたのかもしれないのに、遮ってしまった。


『せ、先生…?』


呼びかけてもいつものような明るい返事はない。それどころか聞こえていないとでもいうかのように腕を組んだままピクリとも動かなかった。大きな背中が遠く、触れたくても振り払われたらと思うと怖気付いて手を伸ばせなかった。怒られてもいい。何を言われてもいい。ただ居ない事だけにはしないで。私は此処に居るのに、まるで切り離された別空間にいるみたいで寂しくて苦しいよ。


『先生を怒らせてしまう事をしてしまってごめんなさい』

「………」

『迷惑ばかりかけてしまっている事は自覚しています。本当にごめんなさい…、』


声が震える。こうして再び出逢う事が出来たのに、顔も合わせられないなんて嫌だ。話す事も出来なくなってしまうなんて嫌だ。もう贅沢な事は言わない。もう欲しがる事はしない。だからいつもみたいに接して欲しい。明快な声で名前を呼んでほしい。


『怒って下さい。どんな言葉でも言ってほしいです。…だからお願いします。目が合わないのは辛いです…』

「………」

『…杏さん…っ』


抑えきれない想いが涙となって頬を伝う。泣いたって何も変わらないのに。余計に面倒だと思われてしまうかもしれないのに。

ボヤける視界の向こうで杏さんがゆっくり振り返る。そして私の方を見るとコクリと息を飲み込んで困ったように眉を下げた。泣いている顔を見られたくなくて俯けば、近付いてきた杏さんの靴がすぐ目の前で止まる。伸びてきた手に顎をクイッと持ち上げられて緋色の瞳と目が合った。


「すまない、俺が悪いんだ。お前が謝る事など一つもない」

『違います。私が自分勝手でちゃんと周りの事を考えてないから…、』

「…リュウには笑っていてほしいのに泣かせてばかりだな」


杏さんの指が優しく頬を撫で、涙を拭ってくれる。いつもの温かい表情にまた涙が溢れ出しそうになるのを奥歯を噛み締めてグッと堪えた。これ以上困らせるワケにはいかない。情けない姿を見せるワケにはいかない。いつからこんなに泣き虫になったんだろう。杏さんの前だといろんな感情が緩んで不安定になってしまう。

離れていく手を名残惜しく見ていると杏さんは小さく息を吐いて真っ直ぐ私を見た。先程の冷たい目じゃない、だけど張り詰めた色に喉が鳴る。


「お前に怒っていたのではなく、不甲斐ない自分自身に怒っていた」

『どうして自分の事を怒るんですか…?』

「嫉妬していたからだ、宇髄や他の者に」

『嫉妬?それは何で…、』

「…今から教師らしからぬ事を言うが聞いてほしい」

『…はい、』







「…ーー好きだ、」


透き通る音が鼓膜を揺らした。窓の隙間から入ってきた少し肌寒い風が髪を弄び、静かに頬をなぞっていく。まるでメトロノームのようなリズムを刻む時計の秒針と同じ心音が耳のすぐ傍で鳴っていた。


『いま、なんて…』

「一人の女性としてリュウ、お前の事が好きだと言った」


夢、なのかと思った。

自分に都合の良い夢を見てるんじゃないかって。
だってあり得ない事だと思っていたから。
望んではいけない事だと思っていたから。

でもこの全てを見通すような金環の瞳も、風と一緒に舞う匂いも、涙を拭ってくれた大きな手も全部全部現実だ。嘘でも夢でもない。


『本当に…?』

「本当だ。ずっと昔から、お前が煉獄家に来てくれたあの日から」

『でもそんな素振りは一度も…っ』

「なかったと思うのか?」

『杏さんはみんなに優しいから私の自惚れだと思ったんです』

「もっと分かりやすく言えば良かったな。あの頃は伝えられなくて後悔したから、今世では詰め寄っていたつもりだったが…なかなか上手くいかないものだ」

『車で言っていた想い人は…?』

「お前の事だ。ここで行くなと呼び止めたのも全部リュウの事だ」

『ずっとカナエさんの事だとばかり…、』

「何故ここにカナエさんが出てくるのか分からないが、お前はもっと自分の魅力に気付くべきだな」


杏さんの甘い声に頭がふわふわする。地に足が着いていないように力が入らない。現実だと分かっていても思考が追い付かなくて上手く言葉が出てこなかった。本当は沢山言いたい事が、伝えたい想いがあるのに。


「すまない、困らせてしまったな」

『そんな事ありませんっ』

「だが、俺の気持ちに嘘はない。それだけは伝えておきたかった。逃げずに聞いてくれてありがとう」

『…逃げません、』

「リュウ?」

『好きです、』

「……っ」

『杏さんが、好きです』


溢れる想いを口にしたらやっぱり声は震えていた。夕日のせいだと誤魔化せないほど顔が赤くなっているのが鏡を見なくても分かる。それでもちゃんと伝えたいから目を逸らさず真っ直ぐ見つめた。その先にいる杏さんが目を見開き、言葉を探して瞬きをする。

外の音が聞こえるくらい静まり返った空間。自分の言った発言の大きさを時間差で実感し、思わず顔を覆って蹲りたくなった。

でも、もう逃げないと決めたから。

伝えられなかった胸の痛みはもう嫌ってほど知ってるから。


「…嬉しいが、お前の好きと俺の好きとでは意味が違う。欲深く、全てを欲しいとドロドロに考えている俺とでは天と地ほどの差がある」

『同じです。あの日、ここが君の家だと引いてくれた手をこれからも離したくないです』

「それは想い人に向ける感情というよりも家族に向ける情だ」

『…前に中庭で私が我儘で独占欲が強くて、欲張りだと言った事を覚えていますか?』

「ああ、覚えている。お前はその気持ちの矛先は秘密だと言っていたな」

『言えなかったんです。だって杏さんの事だったから。杏さんの目に映っていたい、誰の目にも映ってほしくない。他のものを見ようとする視界を覆ってしまいたいくらい独占欲が強いんです』

「…っ、それは、」

『私は貴方の傍にいたい。隣で同じ景色を見ていたい』

「…後悔はしないか」

『杏さんの傍にいられないと後悔します』

「お前は本当に…」

『記憶が戻っていなかった時も貴方をもう一度好きになりました。変わってないんです。好きなものはあの頃から何一つ』

「リュウ、」

『好きです、杏さん。ずっとずっと前から』


今まで隠していた事を伝えれば、降参だと言わんばかりに肩をすくめ、温かく愛おしむように口元が弧を描く。花火の時に見た表情だ。その顔が今、自分に向けられているのかと思うと胸がぎゅうと鷲掴みされたかのように締め付けられた。

焦がれて焦がれて仕方ない想いをどうやったら全て伝える事が出来るのだろう。もしかしたら一生かかっても言い切れる事は出来ないのかもしれない。もどかしくて、だけどとても愛おしく大切なもの。


ふいに杏さんが私の手を掴み、ゆっくりと自分の口元へ運んでいく。そして指先に小さな音を立てて口付けた。思いがけない行動に体が大きく跳ねた。すっかり涙は止まったのはいいものの、全身が燃えるように熱い。手も震えてるし、気を抜いたら膝から崩れ落ちそう。


「あの頃の鍛錬で傷ついた手も、今の傷一つない手も美しく、魅力的だ」

『……っ、』

「俺を呼ぶ声も、追い掛けてきてくれる足も、抱き締めてくれる腕も」

『杏、さん…』

「後を惹かれる甘い匂いも、俺の言葉一つで慌ただしくなる心臓も全て愛しい」


欲を孕んだ緋色の目が赤々に燃えている。直視し続けたら溶けてしまいそうなのに、逸らす事は出来なくて、それどころか余計に吸い寄せられてしまって仕方ない。耳障りの良い色香を纏った低い声も、私の手を握る分厚く筋張っている指も目眩がするほど魅力に満ち溢れている。溺れそうだ。


「俺は僧侶や仙人ではない。なので我慢が効かなくなる事があるのを分かってほしい」

『大丈夫です。私も同じなので…っ』

「いや、お前と俺とでは欲の度合いが違うだろう」

『お、同じです!私だって…杏さんにもっと触れたいし、もっと触れてほしいと思っています』


意を決して見上げれば、杏さんは目を見開いたまま固まっていた。…しまった、引かれてしまったかもしれない。両想いと分かっても突然こんな事を言われたら流石に身構えてしまうだろう。初日から嫌われるのは嫌だ。舞い上がって早急になりすぎた。訂正しなきゃ。


『変な事を言ってしまってすみませんっ。今の事は忘れて下さい!』

「…いやだ」

『いやだ!?』

「俺もまだまだ若いな!リュウには沢山体力をつけてほしい!」

『た、体力ですか?』


私の言葉と何の関係があるのか分からなかったけど、凄い引かれたワケではなさそうなのでホッと胸を撫で下ろした。それどころか子供のように楽しそうな表情を浮かべる杏さんに胸がポカポカと満たされていく。


「もう遅いから送っていく。車の前で待ち合わせしよう」

『ありがとうございます。教室に鞄を取りに行ってきますね』


触れていてくれた熱が離れてしまうのは名残惜しかったけど、また一緒に帰れるのが嬉しくて思わず緩んでしまいそうになる顔を引き締めて平常心を装う。そしてドアを開けようと手を伸ばした時、再び名前を呼ばれて振り返った。


「忘れ物をしているぞ」

『忘れ物?』


荷物は教室にあるし、ここには何も持ってきていないはずだけど…スマホも制服のポケットの中にちゃんとある。もしかして今日じゃなくて以前来た時に置いてしまった物があるのかもしれない。

机周りを見渡しても発見出来なかった為、どこにあるのか聞こうとして杏さんを見上げた瞬間、唇に触れた柔らかい熱。そしてちゅっと小さな音を立ててゆっくりとその熱は離れていく。突然すぎて目を閉じるのも忘れた。震える手で唇に触れる。


『い、いま…』

「すまない、あまりにも愛らしかったので我慢ならなかった」

『えっ!』

「さて!帰ろうか!」


杏さんの顔が赤いのはきっと差し込む夕日のせいじゃない。こんな風に照れてくれるんだ…。ドキドキしてるのは私だけじゃないんだ。状況を理解した途端ぐわっと体が痺れてしまう。全身の血が沸騰してしまいそうだ。

こんなに人を好きになる事が出来るのかと、自分自身に驚く。次から次へと愛しいという感情が揺れ動くなんて知らなかった。

ジャケットを羽織り、机上の物をバタバタと落ち着きなく閉まっていく杏さんの服を引っ張った。


『…かい、』

「ん、どうした?」

『もう一回…っ』


杏さんの手からボールペンが落ちて床へ転がる。だけど拾う素振りをせず、大きな手が伸びてきて両頬を包み込まれたかと思ったらゆっくりと上を向かされた。そして額、瞼、鼻先へとキスが落ちてきて、くすぐったさと緊張で潤む視界を静かに閉じる。

杏さんの両手に自分の手を重ねれば唇へと押し当てられる熱。ほんの数秒だったかもしれないけれど何分にも感じられるほどのキスに、重ねていた手を離して杏さんの服を掴んだ。支えがないと立っていられないと思った。

ゆっくりと離れていく熱を追うように瞼を開ければ、コツンと額と額がくっつけられる。端正な顔が凄まじい色気を放つ。ゼロ距離で入ってくる色彩があまりにも眩しいから思わず目を細めそうになったけど、この色を一分一秒でも長く見ていたかったから今だにボヤける視界を閉ざさずにいた。


「またこうして出会ってくれてありがとう」

『またこうして見つけて下さってありがとうございます』

「何度生まれ変わっても見つけるさ」

『私もです。そして何度も貴方を好きになります』


言葉の代わりにぎゅうっと抱き締められ、杏さんの胸元に顔を埋めながらそっと大きな背中に手を回す。

ずっと、ずっと、欲しかった人。
ずっと、ずっと、大好きな人。


それはこれからも変わらない。
この温度を離したくない。
傍にいたい。
傍にいてほしい。

これから先の未来をこの人の隣で見ていたい。




好きになった人は太陽のような人でした。

そんな貴方が雲に隠れてしまっても、落ち込んで笑えない日も傍にいたい。もう一度笑ってもらえるなら何でもしたいと思う。貴方が私にそうしてくれるように。私も貴方の生きる理由になりたい。





「ところで、昼間に見ていたスマホの画面の事だが…、」

『じ、実は…これを見てました!』

「懐かしいな。俺の学生の頃の写真か!」

『杏さん、格好いいなぁと思って見てました…ごめんなさいっ』

「…あまり可愛い事を言ってくれるな。いろいろとギリギリなんだ」

『引かないですか?』

「引くものか!俺を見てあのように嬉しそうな顔をしていたのかと思うと辛抱たまらんな!リュウの中学時代も見てみたいものだ!」

『え!いやです!』

「何故だ!?」

『恥ずかしいからです!』

「…ちなみに制服は?」

『セーラー服ですっ』

「よもや…」


顔を手で覆って天を仰ぐ杏さんの顔がまた赤くなった。何で赤くなったのか分からないけど、つられて同じ色になってしまう。

こうやって一つずつ近付いて、時にはぶつかる事があるかもしれないけれど、それは人間だから当然なこと。大事なのはちゃんと話し合う場を作ること。

思ったことは隠さず伝える。
どれだけ小さなことでも必ず。

あの時こうしていれば良かった、なんて後悔はもうしたくないから。


鬼のいない温かく幸せな世界でもう一度、貴方の隣で生きていたい。














2021.07.17 完  リュウ


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