大人と子供
杏さんと付き合うに至って決まりを設ける事になった。それは卒業までの間、手を繋いだり、抱き着いたり、キスしたり等の接触はしないという約束。月に数回、誰にも見られないようにという条件付きで一緒にお昼を食べたり、帰るのは許容範囲となったけど、先生と生徒の関係でいるうちはこの距離感を守っていかなければならない。
私が非難されるのはいい。だけど杏さんが責められる事になってしまうのは絶対嫌だ。沢山勉強して先生になったのを知っているから、その夢を壊したくない。
好きだから触れたい、傍に居たい。
でも卒業まで我慢だ。
三年は受験もあるし、バタバタしてるうちに嫌でもあっという間に卒業になる。大丈夫だ!少しの辛抱だ!長女でしょう。頑張る!
「次は教科書の112ページだ!ここは名前の長い条約が沢山出てくるが、一つ一つの意味を分解して考えればすぐに覚えられるぞ!」
後ろの席までよく通る夏の日差しのように明るく澄んだ声が心地よい。教科書を片手に黒板へ流麗な文字を書いていく後ろ姿に見惚れてしまう。こんなに格好いい人が私の彼氏で良いのかと、バチが当たらないのかと逢う度にいつも思った。
動作に合わせてハーフアップに結ばれている髪がピョコピョコと跳ねてて思わず笑みが溢れてしまうのを教科書で隠す。気を抜いたら一挙一動に翻弄されて緩む頬を抑えられそうにない。落ち着こう。今は授業中だ。他の人にはバレてはダメな事。切り替えないと。
…そう、頭では思うのに。目で追っちゃうし、耳は声を拾おうとしてしまうし、名前を呼ばれると動けなくなってしまって本当どうしようもない。
小さくため息をついてノートへ視線を落とした時、視界に影がさして暗くなった。大好きな匂いが強くなる。
「風雪、気が散っているな」
『す、すみませんっ』
「集中、」
額にトンっと杏さんの人差し指が触れる。それはすぐに離れていってしまったけれど効果は抜群で、恥ずかしさに目の前で火花が散った。
もう一度謝りながらジワジワと熱を持ち始めた顔を教科書で隠せば、頭上で小さく喉の奥で笑う声が降ってくる。女子からは黄色い悲鳴がチラホラ上がっていたけど、反応している余裕はない。歴史の授業がある度にこんな調子じゃ何も手がつかなくてダメだ。集中だ、集中。昔を思い出すんだ。
目を見たら呑まれてしまうので、これからは喉元を見る事にした。それはそれで太くて逞しいなぁという思考回路になって、大人の男性の魅力に同じくパニックになると気付くのにそんなに時間はかからなかった。
****
ある日、他クラスの女の子達が調理実習で作ったクッキーを杏さんに渡している場面に出会して咄嗟に隠れてしまった。どうしてそんな行動をとったのか分からない。だけど何だか見てはいけないものを目撃してしまった気分だった。
「これサツマイモ味なの!先生好きでしょ?!」
「こっちはアーモンド入りだから!」
「ありがとう!どちらも美味しそうだな!」
生徒達に囲まれて笑っている杏さんを見て胸に何かつっかえたかのように蟠りを覚えた。今まで何度も見た事ある光景なのに、何故だろう。鈍く軋む音がする。
あれから数日経った今日、自分のクラスでもクッキーを焼く調理実習があったけど、杏さんには渡しに行かなかった。
放課後になり、しのぶから貰った蝶柄の可愛い袋に入れたクッキーを二つ持って別棟の屋上の踊り場へと向かう。階段に座って先程作ったばかりのクッキーを一枚口へと運べば、ミルクとバターの甘い香りが埃っぽい空間に混じって虚しく落ちてきた。何をこんなに気落ちする事があるのか分からない。分からないのに、寂しい。
もう一枚齧り付いた時、誰かが階段を上がってくる足音が聞こえてきた。この静かで軽い足取りは義勇さんだ。角を曲がって姿を現したのは予想通りの人物で、私を見ると深い蒼色の瞳を僅かに丸くする。
手にはいつも食べている菓子パンを持っているところを見て、もしかしてこれからお昼ご飯なのかと尋ねれば力なく頷いていた。隣に座った義勇さんの顔は一見普段と変わらないように見えるけど、視線の落とし方や話し方が珍しく疲れているみたいだった。
「昼間にガラスを割った生徒がいただろう。怪我もしていたから手当と対応でバタバタしてな」
『確かに凄い音がしてましたもんね。怪我の具合は大丈夫だったのでしょうか…?』
「ああ、縫うほどではない。だが念の為に病院へ連れて行った」
『そうだったんですね…本当にお疲れ様です』
チラリとこちらへ目を向けた義勇さんの視線が私が手に持っている袋へと注がれる。そしてコテンと首を傾げたから自分が手をつけていない方の袋を差し出した。
『今日の調理実習で作ったんです。甘い物は疲れている時に食べると良いと聞きますし、冨岡先生食べませんか?』
規律に厳しい人だから断られてしまうかと思ったけど、義勇さんは「うん」と返事をして素直に袋を受け取ってくれた。いつもなら没収だって言うのに、余程疲れとお腹が空いているのかもしれない。
静かにクッキーを頬張る姿が小動物みたいで可愛いなぁと思ってしまう。そんな視線を向けられた本人は眉間に皺を寄せて顰めっ面をしていたけど。
『先生は煉獄先生や宇髄先生と中学高校と同じだったんですよね』
「ああ、そうだ。煉獄はともかく、宇髄には面倒ごとに巻き込まれてばかりだったな」
『冨岡先生もヤンチャでしたか?』
「俺は違う。引っ張っていかれる事はあったが」
『三人とも身体能力がエゲつないですもんね。地元で有名になってそうです』
「有名なのはあの二人だけだ」
『冨岡先生の写真も見てしまったので証拠はバッチリです』
「…宇髄だな。いいものじゃない、忘れろ」
『格好良いのになぁ』
ジッと視線を向けられたかと思ったら、パチンッとデコピンをされる。おでこを抑えながら小さく笑ってしまうと、義勇さんも僅かだけど口角を上げて「大人をからかうな」と言った。そんな姿を見てやっぱり丸くなったなぁと思う。変わらないのは義勇さんの傍は静かな空気が流れているという事。波のない広く蒼い水面。同じ色の瞳が穏やかに揺れていた。
「煉獄とは上手くやっているのか」
『うまく…そうですね。喧嘩する事なく平和な毎日です』
「お前達が喧嘩するようには見えないが」
『煉獄先生が大人だからですね。昔より年が離れているので余計にそう感じます』
「煉獄と居る時が一番お前らしい」
『そう…でしょうか』
「感情をちゃんと表に出している」
『本当はもっと余裕あるようにしたいんですけどね』
「今のまま変わる必要はない」
『ありがとうございます、先生』
「礼を言われる覚えはない。俺は仕事に戻るが、お前はもう帰れ」
『わかりましたっ』
「クッキーありがとう。美味かった」
持参したパンもペロリと食べ終え、あと三分の一ほど残っているクッキーは残業しながら食べると言って義勇さんは階段を降りて行った。
先生という職業は本当に大変だ。部活の顧問になったら土日も練習や試合でなくなってしまうから体力勝負だと思う。本当に尊敬する。
うーんと大きく伸びをして天井を見上げた。この埃っぽい空気も薄暗い照明も今は落ち着く。悩んでいたって何も進まない。分からないなら行動するしかないんだ。ヨシっと膝を叩いて立ち上がった。
鞄を取りに行こうと教室へと向かっている途中、どこからともなくドドドドという地響きが聞こえてきて足を止める。そしてその音が一直線にこちらへ向かって来ている気がして振り向けば、宇髄さんが鬼の形相で私の名前を呼んだ。
「見つけたぁ!!」
『え、え、なにっ!』
オリンピック選手かと突っ込みたくなるほどの俊足で目の前に来たかと思ったら首根っこを掴まれ、そのまま壁に押しつけられた。勢いで喉が詰まる。一体何が起きたのか分からず、空いた口が塞がらなかった。
『カツアゲですか!?』
「ちげーわ!バカ!お前何してんだ!」
『それはこっちのセリフです!どういう状況ですかっ』
「何で冨岡にクッキーあげてんだよ!」
『何でそれを…!冨岡先生、ご飯まだ食べてないって言ってたので渡したんですっ』
「煉獄にはぁ!?」
『…渡してません』
宇髄さんは大きな溜息をつくと私を掴んでいた手を離して片手で顔を覆った。こんな所まで走って探しに来るほど大事になっているのかな…。
「…落ち込んでるぞ、煉獄のヤツ」
『えっ!?きょ、煉獄先生まで知っちゃったんですか!?』
「冨岡がポロリしたからな。何で渡さなかったんだよ」
『…分からないです』
「は?」
『煉獄先生は他の子達から沢山クッキー貰ってたから何だか渡しにくくて』
「ふーん、嫌だったのか」
『嫌じゃないです。そういうのではなくて何と言いますか…こう、モヤモヤ?』
「派手に行き違ってんなぁ。大事になる前に逢ってこいよ」
『今からですかっ?』
「恋人同士ならいつ逢ってもいいだろ」
何を言ってるんだと言わんばかりに笑う宇髄さんに髪をかき混ぜられる。その手つきが元気づけているものだと伝わってきたからマイナスな気持ちがパラパラと剥がれていく気がした。
四六時中逢いたい。
でも今逢ったところでどうしよう。
一緒に帰る約束をした日でもない。
…どうするもこうするも逢いたいから逢いにいく。ただそれだけ。それが全て。顔を見て挨拶をして帰ろう。なるべく自然な感じを装って。
宇髄さんにお礼を言って廊下を走り出す。階段を上がって、義勇さんにも見つからないよう周りに気をつけながらまた廊下を走って。辿り着いた職員室のドアをノックして開けた目に飛び込んできたのは、杏さんの席に二人の女子生徒が勉強を聞きに来ている姿だった。
予想していなかった光景に出かかった言葉をゆっくり飲み込む。欲を言えば、本当は少しでも顔を見て話したかった。でも姿を見れただけで充分だ。話を遮ってまで言う事じゃない。…帰ろう。
「あら、ゆいちゃん。どうしたの?誰かに用事かしら?」
『いえ!日を改めるので大丈夫です。カナエ先生、また明日ですっ』
心配そうな顔をして声をかけてくれたカナエさんに別れを告げ、そのまま昇降口へ向かった。クッキーのこと、さっきの光景も何でずっと落ち着かないんだろう。胸の中に冷たい風が吹き抜けていく。その違和感がただただ気持ち悪くて。正門をくぐり、いつもの通学路を歩いている間も考えていたけど答えは出ないままだった。
学校の最寄り駅に着いた時、制服のポケットでスマホが振動し始めた。画面に映し出されていたのは杏さんからの着信で、ゆっくりと息を吸うと通話ボタンを押す。
『もしもし、ゆいです』
「良かった、繋がった。今どこにいる?」
『今は学校の最寄り駅に着いて、これから電車に乗ろうと思っていたところです』
「そうか…もう少し早くかけていれば送っていけたのだが」
『その気持ちだけで充分嬉しいです。先生の方こそどうしたんですか?』
「カナエ先生から君が職員室に来ていたと聞いた。何か用事があったのではないかと思ってな」
『…用事はなくて。ただ、』
「ただ?」
『逢いたいなぁと、思っただけで…』
受話器の向こう側で息を呑む音が聞こえた。電話越しだと素直に言えるのに面と向かってだと言えない。可愛げがないのは自分でも分かってる。どうしたら想っている事を全部伝えられるんだろう。きっといつまで経っても出来ないのかもしれない。
「…改札口には入っていないな?」
『入ってないですけど…え、大丈夫ですよ!このままちゃんと真っ直ぐ帰ります!』
「逢いたいから逢いにいく」
すぐ耳元で聞こえた愛しい声にドクンと心臓が一回転する。突然の事で返す言葉を探して口籠る私に杏さんは「駅の裏手にあるコンビニで待つように」と言って電話を切った。
どんな顔をして逢ったらいいんだろう。嬉しいけれど、迷惑ではないだろうか。仕事で毎日忙しいのに、我儘を言って余計に疲れさせてしまうのではないか。すぐマイナス思考になってしまうのは冬が近付いてきた風が冷たいからなのか。それとも……。
杏さんに言われた通り、裏手にあるコンビニの中へ入る。駐車場の見える窓側、雑誌を読みながら待っていると15分もかからないうちに見覚えのある車が入ってきた。
手に持っていた雑誌を戻し、外に出ると杏さんの乗っている車の傍まで走っていく。私に気付いた杏さんが中からドアを開けてくれて、促されるまま足を踏み入れれば、あっという間に杏さんの匂いに包み込まれた。
ついさっき学校で見かけた時と違う雰囲気を纏う姿に気持ちが一気に上昇したのを隠すようにシートベルトを締める。その手が緊張で震えていたのを寒いからだと思ったのか、杏さんが自分の上着を脱いで膝へ掛けてくれた。汚してしまうからと一番断ったけれど、掛けていなさいと念を押されて頷く。
車内はもちろんの事、上着からも杏さんの匂いが溢れててまるで抱き締められているみたいだと思った。
エンジンがかかり、ゆっくりと動き出す車。何て話を切り出したらいいのか分からず、暫く無言の時間が流れる。電話越しに言えた言葉が今は一つも出てこない。授業の事を聞く?それは学校でも聞けるよね…。ぐるぐると考えていると静かな声が私の名前を呼んだ。
「言うか迷ったのだが、俺は隠し事が出来ないから聞く。冨岡にクッキーをあげたのは事実なのか?」
『…本当です』
「そうか。…出来る事なら俺も食べたかった」
まさか、そんな事を言ってくれるとは思ってもみなくて驚いて隣を見れば、僅かに口を尖らせながら拗ねたような表情をした横顔があった。
こんな顔もしてくれるんだ…。
隠さず、どんな事も直球で言ってくれる。私はもっともらしい言葉を被せて誤魔化してばかりだというのに。
「ゆいの作るものは全て食べたいと思う。子供だと笑ってくれていい」
『笑いません…っ。嬉しいです。貰って頂けるなら沢山渡します』
「本当か!全部貰うぞ!…あと一つ、お願いがあるのだが」
『なんでしょう?』
「お前が作る弁当が食べたい」
キュッと赤信号で車が静かに停車する。カチカチとウインカーの音だけがこだまする中、杏さんの目がこちらを向く。薄暗い車内、対向車のライトが緋色の瞳に差し込み、角度によって万華鏡のようにキラキラと光って綺麗だった。
『作ったら食べてくれますか…?』
「もちろんだ!これ以上ない幸せだな」
『明日から作ってきます!』
「ありがとう、楽しみに待っている!」
伸びてきた指が頬に触れる寸前で信号が青に変わった為、またハンドルに戻ってしまう。顔が熱い。今すぐ車を降りて走り出したいくらい心臓が音を立ててしなる。
彼氏にお弁当を作るのは初めてだ。杏さんは沢山食べるからご飯も大盛りにしよう。卵焼きは甘い派かしょっぱい派か聞いたら任せると言われた。お前が作ってくれるものなら何でも嬉しいのだと、照れたように眉を下げて笑う。愛しいというツボをことごとく押していくから言葉も吹き飛び、目も合わせられなくなる。
いまだかつて好きすぎて動けなくなるなんて経験はなかった。杏さんは慣れているというか大人の余裕がある。大人と子供の差って何だろう。何が許されて、何が許されなくなるんだろう。
「ゆいは一つ勘違いをしているな」
『勘違いですか?』
「歳の差はあるが、お前が思ってくれているほど俺は大人になりきれていないぞ」
『そうでしょうか?私から見る杏さんはいつも余裕があって、何事も何手先まで読んでいて見習わないと、と思っています』
「そう見えているのは嬉しい事だが、余裕なんて一つもないんだ」
『え…、』
「今だってこのままゆいを連れ去ってしまいたいと思っている。他の者の目が届かない遠くの場所までな。俺以外、誰にも触れさせたくない」
『……っ』
「幻滅したか?」
ぶんぶんと首を横に振れば、困ったような表情をした杏さんと目が合った。どうしよう、体が熱くて言葉も震える。上手い返しも、女の子らしい反応も出来ない。いつもどうやって瞬きをしてたっけ。いつもどうやって息をしてたっけ。
膝に掛けてくれた杏さんの上着をギュッと抱き締めたら、余計に匂いが近くなって爆破してしまいそうになった。
「卒業したら覚悟しておいてくれ。お前が離れたいと思っても離せる自信がないのでな」
『はい…っ』
今からこんなんじゃ卒業したらどうなってしまうのだろう。杏さんと一緒にいたら心臓がいくつあっても足りない。
早く、その日が来てほしい。でも卒業してしまったら杏さんに逢える時間が減ってしまうから寂しくもあって。なんて贅沢な悩みなのだと改めて思った。
家の傍に着くとゆっくり車が停車する。お礼を言ってドアを降りる前に頭を撫でられ、「おやすみ」と至近距離で言われて平常心を装いながら『おやすみなさい』と告げて車を降りた。
幸せを噛み締めるのは自分の部屋に入ってからにしよう。私が玄関に入るまで見送ってくれた杏さんに手を振ると、ハザードランプが一回点滅する。顔が緩みそうになるのを堪えながら家のドアを開けた。
大人と子供
本当の恋を教えてくれたのは貴方
愛される喜びを教えてくれたのも貴方
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