咫尺天涯







夜が明ける。

手足の感覚がない。
爪先から凍っていくようだ。
目の前で涙を流す少年を見送る事に悔いはない。思いは全て託したのだから、どうか胸を張って生きてほしい。生き続ける事は残酷だ。だから歯を食いしばり、血を流しながら藻掻くのだ。こんな所で止まっている場合ではないと、己を奮い立たせ、積み上げられた仲間の命を糧にしろ。


腹部から溢れ出る血がみるみる広がり、地面の上を滑るように流れていく。体が鉛のように重いな。肺が焼けるようだ。

太陽が眩しい。

少年の泣き声が徐々に遠くなっていき、視界がボヤけて白く濁る。



『杏さん、』


ああ、出来る事なら最期に一度だけあの声を、あの笑みを見たかった。
約束を破ってしまった。
心残りを作ってしまった。
だが、想いは持っていこう。
残される者に押し付けるものではない。
縛る事はさせない。
運命に抗え。
どんな立場に立たされても、お前は自由に生きろ。
俺はそれだけを切に願うーーー





















職員室の窓を容赦なく雨が叩く。
梅雨入りしてから一週間、毎日同じ光景が繰り返されていた。授業で行った小テストの採点が終わり、目頭を押さえながらふぅと息を吐いて伸びをする。まだ18時前なのに外は夜のように暗い。

書類の捲る音とボールペンの走る音しかしない静かな空間には、俺以外に冨岡だけが残っている。伊黒と不死川も居たが、先程冨岡と言い合いをすると帰ってしまった。最早、日常茶飯の光景だな。昔から変わっていなくて苦笑してしまう。


宇髄は帰ってはいないが、午後からずっと姿が見えない。美術室に籠っているのだろうか。彼は一度集中すると何も飲まず食わずで没頭する癖があるから、もし戻ってこないようなら帰りがけに声でもかけに行こう。

机にあるプリントをかき集めて、トントンと角を揃えながら窓へ目を向けた。



雨を見ていると思い出す。
別々の任務だったにも関わらず、偶然同じ軒下に雨宿りをしに来たリュウの事を。風邪をひいてしまうからと羽織を掛けてやれば、濡れた髪の隙間から覗く白い肌が僅かに赤く熱を孕む。小さな声が、様子を伺う大きな目が、長い髪から滴る雫の一粒一粒が綺麗だった。

いつの間にか移り変わる仕草を目で追うようになっていた。


…懐かしいな。





「冨岡、俺はそろそろ上がるが君の方はまだ終わりそうにないのか?」

「いや、俺も終わる。上がらないと閉店時間になってしまうからな」

「む!もしかして竈門少年のところか?!確かに腹が減ったな、俺も寄って帰るか!」

「ああ、そうしろ」


少年の事になると僅かに冨岡の表情が柔らかくなる。宇髄と冨岡とは中学の頃から一緒だ。俺が前世の記憶を取り戻したのもこの頃。二人はもっと前からだったらしいが。それから何だかんだ一緒に居る事が多くなり、現在同じ職場に勤めている。

こうして再び相まみえる確率はとんでもなく低いだろう。恵まれている。俺は昔から。



人間というものは、手が届かないものほど執着し、思考を単純にさせる。一度抱いてしまうと、全て捨てでも追い続けようとする。分かっているはずだったが、浅はかな希望を抱いてしまった。

ここになら、リュウに逢えるかもしれないと。

邪な思いを抱いて教壇に立つのは良くないな。


だが、もしもう一度逢えたとして、俺は一体どうしたいのだろうか。





椅子から立ち上がり、帰り支度をしようと鞄へ手を掛けた時、大きな音と共に職員室のドアが開き、派手な男が入ってきた。


「お前ら朗報だ!聞いて喜べ!俺を敬え奉れ!!」

「うるさい。俺はもう帰る」

「急にどうした、宇髄!!」


前に座っている冨岡が顰めっ面をする。宇髄との温度差が凄いが、それはいつもの事だ。そんな氷点下な反応に屈する事なく宇髄は得意げに指をパチンっと鳴らす。


「来週、三年に転校生がくる!!」

「この時期にか?珍しいな!」

「それがどうした。来ようが来まいが関係ない」

「名前、聞いても同じ事が言えんのか!?」

「宇髄の知り合いか?!」

「尚更興味ない」

「風雪リュウ、」

「なに…?」

「リュウが転校して来るんだとよ!」

「その話は本当か!?」


思わず立ち上がった拍子に椅子がガタンと倒れる大きな音が三人だけの空間に響き渡った。そんな俺の反応に宇髄は満足げに口角を上げる。聞き間違いでなければ、この男はリュウが転校してくると言った。この学校に。まさかそんな事があるのか。夢物語のような事が現実に。


「校長の所にも話がいってる確かな情報だぜ?この学校は何か引き寄せる引力でもあんのかねぇ。こんなに見知った奴らが集まるなんてよ」

「煉獄、大丈夫か?」

「…ああ、平気だ。ただ実感が湧かなくてな。誤解しないでくれ。宇髄を疑っているワケではないのだ」

「分かってるよ。だが一つだけ、覚悟してくれ」

「覚悟とは?」

「アイツに前世の記憶がないっつーことだ」


ドクン、と心臓が鷲掴みされた。
分かっていたはずだった。
誰もが皆、覚えている可能性はない。現に竈門少女や不死川弟は今も記憶はない。竈門少年さえ半年前に思い出したばかりなのだ。

幼少期から分かっていた者、今だに思い出さない者、個々で違う。その線引きは分からない。だが、再び同じ時代に生まれ落ちた奇跡を失いたくない。どんな形であれ、もう一度逢う事が出来るのなら。


「それでも構わない。リュウはリュウだからな」

「そーだな。これでやっと揃うぜ!派手な毎日になるな、きっと!」

「この時期になったのは何か意味があるのか?」

「それは俺にもさっぱりなんだよなぁ。親の転勤でこっちに来るらしいけど」

「家族が、いるのだな」

「弟も、いるってよ」

「…そうか、」


前世でリュウは家族を亡くしていた。そしてずっと自分のせいだと責め続けていた。きっと俺が死んだ後もそう思い続けていたのだろう。失った穴は塞がらず、それどころか凍えさせていった。

幸せになる資格がないと。
言っていたな。

抱き締めたらその氷を溶かす事は出来たのだろうか。そうしなかったのは壊してしまうと思ったからだ。一瞬の隙が命取りになる時代。その時代に俺達は確かに命を灯して生きていた。






「安達せんせー、転校生きたぞー!」


ガラッと豪快にドアが開き、宇髄のよく通る声に惹かれるよう目を向ければ、そこにはあの頃と変わらないリュウが立っていて一瞬にして視界を奪われた。

…少し華奢になったか。
それもそうだ。現代に鬼はいない。血の滲むような鍛錬はもう必要ないのだ。リュウがこちらを向く事はなかった。宇髄の事を見ても何も感じていないところを見ると、やはり記憶はない。一人の高校生として今を生きている。充分だ。充分すぎる。生きていてくれるなら、この世を楽しいと謳歌していてくれるのなら、それが何より一番嬉しい。辛い思いはもうしなくていい。



放課後、窓からリュウが胡蝶と正門を潜って行くのを教室から見ていた。

生きて、話して、笑って、歩いて。そんな当たり前が突然降ってきて、あまりの奇跡に恐ろしくもなる。願っていた現実が大きく、深く、まるで身が燃えるようにジワジワと心へ浸透していった。









「ここまでで質問ある者はいるか?いなければノートを取る時間にしよう!」


真剣に黒板の文字を書き写している姿をただ見ていた。長い髪を耳に掛け、時折唇を甘く噛み、何かを考える仕草に懐かしさで胸がいっぱいになる。今度こそ目の届く場所に居て欲しい、と。

ふと、顔を上げたリュウと目が合った。大きな瞳が瞬きせずに俺だけを見ている。










『柱就任、おめでとうございます』

「ありがとう!だが、そう改まらなくても良いのだぞ!」

『いえ!ちゃんとしないと駄目です、とても大切な事なので。私は師範の継子でいれる事を誇りに思います』

「何よりも嬉しい言葉だな。俺もリュウが傍にいてくれて良かったと思っている」

『お祝いに、こちらを貰って頂けると嬉しいです』

「懐中時計ではないか。こんな高価な物を…」

『気持ちです。なるべく重くない物を選んだのですが…』

「ありがとう。お前だと思って一等大事にしよう」

『そ、それは勿体無い言葉すぎます』


照れたように柔らかく緩む目元
白い肌に薄く紅が刺す

その頬に触れたかった。


耳の側で蘇るあの日の記憶。
父上からはくだらないと吐き捨てられ、認めてもらいたかった俺の心はひび割れ崩れかけた。そんな時に、お前の存在にどれだけ救われたかきっと知るまい。





ノートを走るシャーペンの音に椅子が軋む錆びた音だけが響く教室で、言葉を探すように瞳が揺れてる。一つ一つの仕草、表情がたまらなく懐かしい。


ああ、本当にリュウ、なのだな。






「改めて、杏寿郎さん。柱就任おめでとうございます



常世の闇に咲く花のように。
虜になるような笑みを浮かべて、
ただ名前を呼んでくれ。
あの頃と変わらずに。

その度に俺は本当の自分に戻れる気がしていた。





授業を終え、準備室に戻る途中で後ろから宇髄に呼び止められた。そして肩を組むようにズシリと回された腕に驚きながら尋ねると、彼は悪戯な笑みを浮かべる。


「アイツの初授業はどうだった?」

「その事か!実感が湧かないな!」

「ははは!まぁそうだろうよ。突然降って沸いた奇跡だもんなぁ」

「俺はいま、教師らしからぬ顔をしているかもしれん!宇髄、殴ってくれ!」

「お前が想像以上にテンパってるのは分かったから落ち着けって!」

「煉獄先生!宇髄せんせー!」


廊下に溢れる生徒の合間を縫うようにしてパタパタと二人の男子生徒が駆け寄ってくる。いま名前を呼んだ子は元気に笑っているが、隣にいる彼は沈んだ顔をしていた。ため息をついて、まるで雨に打たれる葉のように俯く。いつもはもっとハキハキとした印象だった気がするが、何かあったのだろうか。


「聞いて下さいよ!コイツ、風雪さんに振られて落ち込んでるんスよ!」

「風雪って…昨日転校して来たばっかじゃねぇか!」


ガツンと頭を殴られたかのような衝撃に思わず固まる俺の隣で宇髄も苦笑いを浮かべた。

昔から好かれるのは知っている。同じ隊士だったり、任務先で会った村人だったり。

いやはや、現代でもなのか…
複雑な心境に眩暈がする。


「一目惚れだったんです!俺だけじゃなくて4組の後藤も告ったけど振られたって!」

「そりゃあ、また派手な事になってんなぁ」

「しかも好きな人がいる、って言われてさ…そんな事言われたら勝ち目ないというか」

「俺はそれは常套文句だって言ったんスよ!貴方のこと知りません、なんて言えないからさ!お友達から始めればいーじゃん!」

「本当に転校前の学校にいるかもしれないだろ…」

「だったらそいつを忘れさせてやるくらいの勢いで行けよ!先生達もそう思いますよね!?」


そう言ってこちらへ問いかけてきた少年の目がキラキラと輝いていて、グッと言葉に詰まる。確かにその心意気は素晴らしい。引きずる事をせず、常に前を向き、切磋琢磨する姿はお手本のようだ。リュウ関係でなければの話だが。

落ち込んでいる少年が応えを求めるように不安げな目をしていたから、ふぅと小さく息を吐いた。


「そうだな!落ち込んでいた所で何も変わらん!知らないなら知ってもらえばいい!」

「おい、煉獄」

「その前向きな姿勢を見たら彼女も気が変わるかもしれんぞ?やらない後悔より、やり切った後の後悔の方が得る物が大きい!真っ直ぐぶつかれ、少年!」

「煉獄先生…!!」

「さすが煉獄先生!お前も頑張れよ!」

「俺、頑張ります!」


先程までの沈んだ表情が嘘のように明るく色を灯し、お礼を言って駆け足に去っていく二人の姿を見届けていたが、突如ズシンと重い感情が自分の中に降ってきた。手に持っていた教科書で顔を覆ってため息をつけば、宇髄が呆れたような声を出す。


「応援してどうすんだよ」

「いや、しかし…真っ直ぐな目で言われたらな」

「気持ちは分からなくねぇけどよ。逃げてんのはお前の方だろ、煉獄先生」

「…グゥの音も出ん」


乾いた笑い声が休み時間のざわついた廊下に消えていく。自分でも情けない事を言っているのは重々承知だ。

だが、昨日の今日で処理が追いつかない。
過去の出来事と今が入り混じり、感情も比例してどっちつかずになっている。


「はっきりさせなければな」


誰に言うワケでもなく、自分に噛み締めるように呟けば、宇髄は頭の後ろで手を組みながら「そうだな」と彼らしく笑った。





咫尺天涯




お前は誰の前でなら泣く事が出来るのだろうか



















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