羨望
休み時間の窓の向こう、男子生徒達とサッカーをしている杏さんの姿があった。右から左へ走り回る様子を女子生徒が歓声を送ったり写真を撮ったりしている。まるで少女漫画から飛び出してきた人みたいだ。いつの時代でも人を惹きつける力のある人だなぁ。どこにいてもすぐ見つけられる。いつも誰かに囲まれていて、太陽のように眩しくて、温かい人。
三階の窓まで届く声を聞きながら楽しそうな様子を眺めていると、隣に宇髄さんがやってきて窓枠に肘をつきながら同じく杏さんへ視線を向けた。
「お前もあそこにいる女子達に混ざらなくていいのか?」
『私は大丈夫です。ここから見ているだけで』
「欲がないヤツ。お前の煉獄杏寿郎だろ」
『みんなの煉獄先生です』
「昔から頑固なこって。もっとアイツに甘えりゃいいのに」
『甘えてばかりですよ。今も昔も先生の前だと頭の中が真っ白になって余裕がなくなってしまいます』
「俺に対しては余裕ありまくりなのにな。天下の色男に迫られて顔色を変えないのはお前くらいだわ」
『…宇髄先生ってヘンタイですよね』
「なんだと、このっ」
伸びてきた腕を振り払って逃げようとしたけど呆気なく捕まり、まるで大型犬を洗う時みたいに髪をわしゃわしゃとかき混ぜられる。ガッシリとした腕に肩を引き寄せられてホールドされている為、身を引こうとしても引けず必死に抵抗しているところを通りかかった鈴菜に助けられた。
乱れた髪を整えながら鈴菜の後ろに隠れれば、宇髄さんは「あー!」と言って指をさしながら声を上げる。
「お前、後輩を盾にすんな!」
「ゆい先輩は私が守ります!」
『鈴菜…!』
「大人しく渡したらゆいのとっておきな情報を教えてやる!」
『絶対変な事でしょ!断固拒否します!鈴菜の前では格好良くありたいので!!』
「もう手遅れだと思うわ!」
「そんな事ないです!先輩は昔からずっと格好よくて、強くて、綺麗です!!」
キラキラと純粋無垢な表情でガッツポーズしながらこちらを振り返る鈴菜の眩しさに宇髄さんも私も何てピュアなのだろうと天を仰いだ。こんな幼稚な争いに巻き込んで申し訳ないと思う。
二人と話しているうちに、いつの間にかヒリついた痛みは消えていた。
****
「今日はここまでにしよう!明日の授業は小テストをするので復習を忘れないように!」
クラスのあちこちから上がる悲鳴に杏さんは嬉しそうにニコニコしてた。本当に人に教える事が好きなんだと伝わってきて笑みが溢れてしまう。生まれ変わっても導く側の立場なんだなぁ。
パチっと大きな目と視線が合って思わずビクリと肩が上がる。今日も変わらず格好良いので目のやり場に困ります。
「煉獄先生ーっ!ここ分からないの!」
「私も!私も!教えて!!」
「うむ!どこだ!」
終わりのチャイムが鳴った瞬間、クラスの女の子達が教壇にいる杏さんの元へ教科書を持って駆け寄る。そして杏さんの腕の辺りをふわっと触ったのを見て胸の中をザワリ、と鈍いものが撫でた。
なんでモヤモヤしてるんだろう。
卒業まで触れてはいけない。
人前で必要以上に近付いてはいけない。
二人きりでいるところを見られてはいけない。
でも目の前の女の子達は杏さんに触れて、肩がくっつく距離で話している。
羨ましいと思ってしまった。
私ももっと触りたいと、もっと近くにいたいと欲が溢れてきてしまった。
私、嫉妬してるの…?
前世ではそんな風に思った事は一度もなかった。隊士や村人、さらには芸者さん達からも好かれて慕われている姿を見て誇らしかったし、分かるぞ!って思っていたのに。今はどうして素直に喜べないんだろう。
付き合える事になれたのは物凄く贅沢な事なのに、それ以上を望むなんて身勝手で強欲だ。
楽しそうに話す明るい声が聞こえる。その度に暗く重い感情が胸の中にジワジワと蓄積されていく感覚が嫌だった。我慢するって決めたばかりだ。未熟で醜い感情だ。
次は化学だから移動しようとしのぶ達に言われて、教科書とノートを持って杏さんの方を見ずに教室を出た。
「知ってる?隣のクラスの真莉ちゃんと竹山くん、文化祭の後から付き合ってるらしいよ!」
「そうなの!?でも前から噂になってたよね!いいなぁ」
「いいなぁって、ゆきにも彼氏いるじゃん!」
「いるけど他校だから毎日は逢えないし…同じ学校が良かった!」
「同じ学校でも見える分さ、辛い事とかありそうじゃない?ね、ゆい!」
『え!…あ、確かにそうだね。良い事も悪い事も目に入っちゃうから気になるというか…』
「おっと〜?ゆいにも彼氏か好きな人がいるなぁ?」
『いない、いない!いたら話してる!』
「隠してたらこうだーっ!」
急にガバッと友達に抱きつかれて何事かと思ったら擽られて思わず笑ってしまう。逃げては捕まってを繰り返しながら廊下を右へ左へと逃げ惑う私をしのぶは口に手を当てて楽しそうに笑っていた。
杏さんとの関係はしのぶを含め、柱の人達は知っている。実は鈴菜にもまだ言っていない。もしかしたらどこかから伝わっているかもしれないけれど、改まって話すのはどこか気恥ずかしかった。でもちゃんと話さなきゃなぁ。
化学室に着いた時にはダッシュしたせいでみんなして息も絶え絶えだったから伊黒さんに変な目で見られてしまった。そして自分の席に着いて教科書とノートを机に置いた時、間違えて数学を持ってきてしまっていた事に気付いて愕然とする。授業開始まであと五分しかない。早く取ってこないと!遅刻したら伊黒さんに水ロケットを飛ばされてしまう!以前、遅刻してきた男子生徒に水素で発射する水ロケットを打って撃退していたのを思い出して慌てて教室を飛び出した。
階段を駆け上がり、渡り廊下を抜け、自分の教室がある廊下を爆走していた時、後ろから腕を掴まれてそのまま掴んできた人の胸元へ背中から飛び込んでしまう。急いで振り返れば、眉を顰めている義勇さんがいた。
「廊下は走るな」
『ぎ…っ、冨岡先生!ぶつかってしまってすみません!ノートを忘れてしまってっ』
「競歩なら認める」
『それだと化学室まで間に合わなくて…今日は見逃して下さいっ』
「風雪、スカートも短いな」
『冨岡先生ーっ!』
悠長に指導されてる場合じゃない。元はと言えば間違えて数学のノートを持っていった私が全ていけないのだけど。
掴まれている腕から抜け出そうとしてもビクともしない。細身に見えて筋肉質なのだ、義勇さんは。押しても引いても顔色を変えないどころか、ズルズルと容赦なく廊下を引きずって行こうとする。このままでは私は水ロケットの刑だ!
『冨岡先生!今度、鮭大根奢ります!』
「生徒に奢らせるつもりはない」
『今日は白ジャージなんですね!青もいいですが白も似合ってます!』
「いつもと変わらん」
『竹刀!竹刀も新しくなりましたね!』
「お前を生徒指導室に連れて行く」
『待って下さいーっ!』
「二人してどうした!」
突如、背後から呼び止められた聞き覚えの大きな声。掴まれている義勇さんの手にチョップして抵抗しながら振り返ると、杏さんが不思議そうにこっちを見ていた。
「風雪が廊下を走っていたから注意した」
『すみません…次、化学の授業なのにノートを忘れてしまって』
「そうだったのか!事情は把握した!冨岡!俺からも風雪に話しておくので今日は離してやってくれないだろうか!」
「…煉獄が言うなら今日だけだ」
『すみませんでした!以後、気をつけますっ』
竹刀を肩に担いで去って行く義勇さんは誰が見てもヤンキーみたいだと思う。
助けてくれた杏さんの元へ駆け寄ろうと思ったけど、自分が先程まで友達に嫉妬してしまっていた事を思い出して踏み止まった。丸い金環の瞳がジッとこちらを見ている。何となくバツが悪くて、でも目が合うとドキドキと心臓が煩く鳴って。
『先生、ありがとうございます。いつも助けてもらってばかりですみません…』
「そんな事ないぞ!君も知っていると思うが、冨岡は行き過ぎるところはあるが悪い奴ではない。今度は見つからないよう注意するように!」
やらないように、じゃなくて見つからないようにってところが杏さんの優しさが出てていいなぁと思った。そういうところも好き。
『あの、先生っ』
「先生ーっ!超分かりやすかった!ありがとぉ!」
「また聞きに行っちゃおうかな!」
先程の子達が教室から出てきて杏さんのすぐ近くに体を寄せるようにして話しかけてくる。それだけでも見るのは辛かったのに、
「うむ!いつでも聞きにくるといい!」
「やったー!煉獄先生、大好きー!」
勢い良く杏さんの腕に抱き着いたのを見た瞬間、ザワリとまた嫌なものが肌を撫でた。みんなに好かれているのを知ってる。もちろんそれは嬉しいこと。分かってる。分かってるのに、どうしよう。嫌だと思ってしまう。独り占めしたいと思ってしまう。
「そうか!ありがとう!」
「ちょっとー!さねみんはどうしたぁ!?」
「さねみん、最近冷たいの!」
「彼女か!ってもう時間やばい!ゆいも早く行こー!」
『…ノート取ってすぐ行く!』
教室に入り、ノートと教科書を取ると杏さんの方は振り向かないでみんなと一緒に化学室へと向かった。
醜い、こんな事を考えているなんて知られたくない。片想いの時も両想いになった今も別の事で悩んでる。恋ってこんなに辛いんだ。
一度この感情に気付いてしまったら、もう知らなかった頃に戻る事は出来なくて。あれから校内で生徒に囲まれている杏さんを見つけるたび、逃げ出す事が多くなった。
そんな自分に嫌気が差し、中庭の野良猫にご飯をあげていた悲鳴嶼さんに邪念を払ってもらおうとお経を読んでもらう事もあった。その時に「よくないものが憑いている」と言われて怖かった。
顔に出さないようにしてたつもりが隠しきれてなかったようで、実弥さんにお菓子を貰ったり、カナエさんに頭を撫でてもらったり、終いには宇髄さんからも「なんか可哀想だからコレやるよ」と掌サイズのムキムキネズミの置物を貰った。私も同じ長女だというのに長男長女たちに優しくしてもらって何をしているんだと穴に埋まりたくなる。
情けない。
だけどムキムキネズミは可愛い。
手作りだと聞いて驚いた。
本当に手先が器用な人だ。
大事にお守りにしよう。
****
今日は杏さんと一緒に帰る約束をした日。杏さんは最近バタバタと忙しかったから二人きりになれるのは二週間ぶりかもしれない。疲れているはずだからお家に早く帰って休んだ方がいい、と言ったら「少しでも話したい」と言ってくれて嬉しかった。こういう事を真っ直ぐ話してくれるから益々惹かれていく。
帰りのHRが終わり、カナヲ達に会いに行くと言っていたしのぶを見送って私も別棟へと向かった。三階の一番奥の部屋。大好きな場所の前に着き、ドアをノックしようとしたら中から話し声が聞こえてきたのでその手を止める。
杏さんと女の子の話し声。
授業で分からない事を聞きに来ているのかな、と思ったらそれは。
「先生、好きです!」
告白の現場だった。
突然の出来事に思わず後退り、ドクドクと煩い胸を手で押さえる。
埃っぽい廊下に秋の風が舞う。遠くで聞こえる部活の掛け声が沈みかけの夕空に反響していた。今まで何人もの女の子から告白されているのは知っている。バレンタインだって毎年沢山貰っている事も。学年問わず好かれてるのは重々承知のはずなのにどうして今、私はこんなに落ち込んでいるんだろう。
格好良くて、優しくて、笑うと幼くなるところも可愛いくて、勉強を教えるのも上手いもんね、分かるよって。どうして誇らしく言えないの。昔はそう思えたでしょ。それなのに…。
ドア一枚がこんなに遠く感じたのは初めてだった。
自分の教室に戻ってきて力なく自席に座ると、ブレザーのポケットから宇髄さんから貰った置物を取り出して机の上に転がす。クルクルと回る軽い音が静かな教室に反響し、やがてコテっとこっちを向いて止まった。
恋は楽しいものじゃないのか。クラスの子、外で見かける恋人達はみんな笑ってる。でも、もしかしたらその人達にも事情があって乗り越えた先の笑顔なのかな。本気で恋して好きになったのは杏さんが初めてだった。だから経験のない感情にワケが分からなくなる。
もっと早く生まれたかったなぁ。
私が生徒じゃなかったら違ったのかな。
でも生徒だからまた出逢えたのかな。
溜息が誰も居ない空間に虚しく消えた。転がる置物の装飾が光る。まるで宇髄さんのバンダナみたいだ。
「それが聞けただけで充分だ。何でも協力してやっから、どんどん相談しに来い!」
「その反面、俺はダメだわ。揶揄うヤツが居ないとつまんなくなっちまってな」
「鈴菜は分かるが、あの伊之助まで素直に従ってんのはお前の鍛え方がイイんだろうよ。立派にやってんじゃねぇか」
今も昔も宇髄さんに助けてもらってばかりだ。杏さんと同じで面倒見が良いから誰かが悩んでいると声を掛けてくれる。兄のように頼りになる時もあれば、まるで弟のように喧嘩をする事もあった。私が自暴自棄に荒れた時、見捨てずに「バカな事を言うな」と本気で怒ってくれた。
傷の舐め合いだな、なんて笑ってくれた宇髄さんに感謝しかない。私もそんな風に全てを受け入れた上で強く生きようと。前を向き続けていた宇髄さんのようになりたいと思った。
「ここにいたのか、」
寂しい空間にふわりと熱が灯る。惹かれるように顔を上げればドアのところに杏さんが立っていた。そして私の席まで歩いてくると「どうした?」と顔を覗き込んでくる。窓から差す夕日が金色の髪に反射して燃えるように綺麗だった。触ったらフワフワと柔らかい事を知っている。くすぐったそうに笑う仕草も。
本当は今だって手を伸ばして触れたい。
好きです、と何度でも伝えたい。
「一緒に帰るはずではなかったか?」
『帰りたい、ですが…』
「何があった?誰が君にそんな顔をさせ…」
机の上に転がっている置物を見て杏さんの言葉が途切れ、スーッと目が細まる。いつもの優しい色じゃない鋭い眼光に思わず息を呑んだ。空気がビリビリと肌を刺すのが分かる。短く吐かれた溜息に体がビクリと反応した。
「宇髄から貰ったのか」
『…お守りです』
「お守りか…。君は危機感がないと前にも言った。宇髄とよく二人で居るのを見かけるぞ。冨岡には触れさせていたしな」
『…煉獄先生だって女の子達に触らせていました』
「相手は生徒だ」
『宇髄さん達も先生です』
「それはそうだが、彼らは前世の繋がりもあるだろう。側から見たら誤解を生む。俺ではなく宇髄と付き合っているとな」
『…どうしてそんな事を言うんですか』
「風雪…?」
『私は"好き"と言われてません…っ!』
「…っ、すまない、聞いてくれ」
『今日は一人で帰りますっ』
「ゆいっ!」
伸びてきた腕を振り払ったら、杏さんはハッと目を見開いて驚いていた。そんな姿を見ているのが辛くて、急いで鞄を肩に掛けると教室を飛び出した。走るたび鞄が揺れる。静かな廊下に自分の足音だけが響いている。
本当可愛くないな、私。
最悪だ。
これじゃ八つ当たりだ。
自分で自分の首を絞めている。
いつまで経っても子供のままだ。
自分の機嫌くらい自分でとれるようになれ。
その日は一睡も出来ず、気が付いたら朝になっていた。カーテンの隙間から差し込む朝日が目に染みる。体が重いのは寝不足だからじゃない。スマホの画面に表示されている五件の不在着信が胸をギュウと圧縮させた。
忙しい中、何度も電話を掛けてくれたのに何て言葉にしていいのか分からず、一度も通話ボタンを押す事が出来なかった。今更後悔したって遅い。過ぎてしまった事を取り戻す事は出来ない。そんな事は嫌ってほど知っているのに、何度同じ事を繰り返せば気が済むのだろう。
大きく息を吐き、ベッドから起き上がると身支度をして朝ごはんは食べずに家を出た。
見慣れた正門を潜り、昇降口に辿り着くと自分の上履きを取り出して下におく。周りで行き交う話し声が遠い。今日は歴史の授業がない曜日だ。謝るきっかけはどうやって作ろう…。逢いたいけど、逢えない、逢いたくない。
本日何度目か分からない溜息をつき、外履きをしまおうとした瞬間、背後から顔の横を通って伸びてきた手がバンッと派手な音をたてて下駄箱を閉めた。驚いて振り返ると進路を塞ぐようにして立つ杏さんの姿があった。
猛禽類のような瞳が真っ直ぐ瞬きせずに私を射抜く。その強い眼光にまるで蛇に睨まれた蛙のように立ち尽くす事しか出来なかった。『先生』と呼んだつもりだったのに喉が渇いて張り付き、音にならなくて。
「おはよう」
『…お、おはよう、ございます…』
「今日の放課後、準備室に来なさい」
『っ…あの、先生…!』
「待っている」
杏さんはそれだけ言うと踵を返し、廊下を歩いて行ってしまった。大きな背中が遠くなる。本当は私から行くべきなのに杏さんに足を運ばせてしまった事にも募る罪悪感。こんな時にでさえ杏さんの香水に反応してしまう自分が情けない。
好きならば、どうして素直になれないの。やりたい事も、言いたい事も全て矛盾してる。背伸びしたって届かない。
杏さん、怒ってた…。
それもそうだ。勝手に帰った挙句、電話も掛けてくれたのに出なかったんだ。こういう時こそちゃんと話し合わなければいけないのに逃げ出してしまった。ガッカリさせたかな。嫌になっちゃったかな。
考えれば考えるほどグルグルと良くない事ばかり浮かんで余計に気持ちが沈んでいく。昨日散々逃げたのだから今日はちゃんと向き合わないとダメだ。怒られても、振られたとしてもちゃんと話す。ちゃんと謝る。もう後悔しない為に。
放課後になり、しのぶに別れを告げて別棟に足を向かわせる。窓から差し込む橙色の光もサッカー部や野球部の掛け声も静かな校舎内に漂って落ちていく。何度も足を運んだ階段を登り、三階の一番端にある部屋の前で歩みを止めた。「社会科準備室」と書かれた札に今は違った意味で胸がザワつく。大きく深呼吸をして中に声を掛けると、いつもよりトーンの落ちた静かな声が返ってきてゆっくりとドアを開けた。
太陽を背に立つ杏さんの表情は逆光で見えにくいけれど、真剣な目つきで私を見ている事は分かる。ドアが閉まった静寂な空間。息を呑む自分の喉が鳴る音と早鐘のように高鳴る心臓の音だけがはっきりと耳に届いた。
杏さんの匂いに包まれたこの部屋でこんなに緊張するのは初めてで。未だに一言も発しない杏さんに対して申し訳なさと寂しさでいっぱいになり、すぐに頭を下げた。
『…煉獄先生、ごめんなさい』
「………」
『ちゃんと話をしないで突き放すような真似をしてしまってごめんなさい…』
「…顔を上げてくれ。寂しくは思ったが俺は怒っていない」
おずおずと様子を伺うように顔を上げれば眉を下げた困り顔の杏さんと視線がぶつかった。その表情に益々ぎゅうっと胸が締め付けられる。そんな顔をさせたくなかったのに。
「謝るのは俺の方だ。宇髄との事で言い過ぎてしまった。君はそんな気はないというのに、己の欲が出てしまった」
『紛らわしい態度をした私が悪いです。それに…先生が他の女子生徒と話をしているのを見て嫉妬をしてしまいました』
「君が、嫉妬を?」
『はい…。他の子は先生に触れるのに私は出来ない、なんて…。子供みたいな我儘を言ってしまってごめんなさい』
「謝らないでくれ。ただ、驚いた。今まで君がそんな感情を表に出してくれた事がなかったのでな」
『私もこんな気持ちになったのは初めてで、どうしたらいいのかパニックになってて…』
「それほど想われていると自惚れてもいいか?」
『自惚れじゃないです。私は先生の事が大好きです』
真っ直ぐ思いの丈を口にすれば杏さんの目が真ん丸に見開かれる。どうしてそんなに驚くのかと一瞬分からなかったけど、ジワジワと自分が発した言葉の大きさを自覚して頭が沸騰してしまうかと思った。
『あの!これは違って!いや、違う事はないのですが!』
「ゆい、」
『はいっ!』
急な名前呼びに声も上擦り、不自然すぎる身振り手振りをやめた。そんな情けない私を見て杏さんは小さく笑うと両手を大きく広げる。
「仲直りをしよう、おいで」
『でも学校で抱き着いたりするのは…』
「俺がしたいんだ。ダメだろうか」
ダメな事があるもんか。
私だってずっとずっと触れたかった。
貴方の事が欲しくて仕方なかった。
足早に駆け寄り、自分より一回りも二回りも大きい杏さんにぎゅっと抱き付いた。そして背中へと手を回せば杏さんの腕に引き寄せられてより一層温かい熱に包み込まれる。胸元に押し当てている耳に届く鼓動が少し速くて、杏さんもドキドキしてくれているんだと思ったら堪らなく愛しくなった。
私はこの人の事が本当に好きなんだなぁ。
「不安にさせたので、何でも言う事を一つ聞こう」
『それは私も同じなので何でも言って下さいっ』
「いや、ゆいには弁当を作ってもらったり他にも授業の手伝いなどしてもらってばかりだ。だから今度は俺から返したい」
そして耳元に唇を寄せて「頼む」と言うから体に熱が走る。低く、熱い音に痺れる。気を抜くと足の力が抜けて座り込んでしまいそうだった。
なけなしの力を振り絞って頷けば、また楽しそうな笑い声が頭上から降ってくる。息を吸えば吸うほど杏さんの匂いしか入ってこなくて、目の前がチカチカと眩んだ。
羨望
すぐに浮いたり沈んだりして私に恋は向いていないと思う。
それでもこの人のことが好きで仕方ないんだ。
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