反芻






まるで春先のような穏やかな陽射しの中、小鳥が鳴いている。髪を撫でる優しい風に乗ってお香の匂いが広い部屋を包み込み、肺が萎れたように苦しかった。

布団に眠っている貴方はいつもの元気な声が嘘みたいに静かに目を閉じている。穏やかな表情だった。それだけが唯一の救いだった。内臓を潰され、左目を失い、骨は砕け散り、どれだけ痛く苦しかっただろう。それ以上にどれだけ悔しかっただろう。大きな手は私の体温よりも冷たく、握っても温もりが返ってくる事はなかった。

本当は名前を呼びたかったよ。
でも出来なかった。

だってそうしたら貴方が死んだ事を認める事になる気がして。これは現実なのに目を背けたくて仕方ない。何度この光景を見れば気が済むのだろう。あと何度、大切な人の死をこうして見送らなければいけないのだろう。

動かなくなった懐中時計。
これは私があげたもの。
盤上にヒビが入り、止まった針は貴方が死んだ時間だった。














ザーザーと窓を叩く雨の音で目が覚めた。
スマホのディスプレイはまだ起きるには早い4時を映し出していて。暗闇の中に照らされた画面の明るさに目を細めれば、そこへポタポタと雫が溢れる。それが涙だと気付いた時には次から次へと止まらなくなっていて、たまらず枕へ顔を埋めた。


顔は覚えていない。

だけどとても大切な人が死んでしまった夢だった。そう、ただの夢なのにもう二度と会えないと突き付けられた現実に胸が抉られそうだ。まるでついさっきまで触れていたかのように冷たい手の感触が残っている。貫かれた体に触れれば、夥しい血が掌を真っ赤に染めた。

この人を奪ったのは誰だ。

どうして、いつも大切なものほど早く消えてしまうのだろう。

なんて残酷な世界なんだろう。

















「突然呼び出してごめん。風雪さんの事が好きです」


昼休み、人気のない別棟の廊下。先日に引き続き、突然違うクラスの人に想いを告げられ驚く。まだ同じクラスの人の顔と名前も一致していないのに、他なんてもっての外だ。まだよく知らない人の事を好きになれるのはどうしてだろう。とんでもない人だったらどうするんだろう。

実際一緒に居たら気持ちも変わるって言われて中学の頃に付き合った事があったけど、心から好きになる事が出来なくて相手を傷つけた事があるから簡単には考えられなくて。


悪い人には見えなかったけど、今は誰かと付き合う気持ちにはなれなかった。


『ごめんなさい。実は好きな人がいて、』

「そ、そうなんだ!ごめん、困らせて」

『ううん、ありがとう』


私の言葉に困ったような顔をして「じゃあ、」と言って遠ざかって行くその背中に虚しさが込み上げる。そんな表情をさせたかったワケじゃないのに。


一人ぼっちになった廊下は風で揺れる窓の音しか聞こえなくて酷く不気味だ。何だか食欲もなく、今から教室に戻ってもちゃんと笑えない気がして、もう少しこの静かな空間に浸っていたいと思った。


浮かない気持ちになるのは今日見た夢のせいもあるのかな。思い出そうとする度、胸が苦しくなる。悔しくて叫び出しそうになる。目の前で眠っていたあの人は一体誰だったんだろう。分厚くて、傷だらけで、苦労をしてきた大きな手だった。

きっと私は握り返して欲しかったんだと思う。
名前を呼んで欲しかったんだと思う。

そんな事、絶対叶わないと分かっていたのに。



ペタペタと一人ぼっちの足音。
天気のせいで薄暗い廊下。
遠くではしゃぐ生徒の声がしてる。
まるで夢と現実の狭間みたいな空間だ。

特に行く当てもなく、廊下の突き当たりまでいくと、階段を上がった。一人分の足音だったのが、やがてもう一つの足音と混ざり合う。私の他に誰かいる。引き返せば良かったのに何故か足を止められなくて、その音を追い掛けるように駆け上がると、屋上に出る踊り場に冨岡先生が座っていた。

突然の登場人物に驚いたけど、それは先生の方も同じだったようで、階段に腰を掛けたままジッとこちらを見上げる。


「こんな場所で何をしてる」

『えっと…迷子、です?』

「屋上は立ち入り禁止だ。教室へ戻れ」

『…もう少ししたら戻ります』

「何かあったのか?」

『誰かに何か言われたとかではないので大丈夫ですっ』

「そうか。なら良い」


顔色は何一つ変わらないけど、口調から心配してくれているのだと感じて申し訳ない気持ちになった。

言葉を探す私の目に冨岡先生がガサガサと袋からパンを幾つか取り出すところが映り込む。途端に小麦粉の焼ける良い香りが埃っぽい空間を包み込んだ。紙袋には丸く可愛い字体で「かまどベーカリー」と書かれている。


『美味しそうなパンですね。この辺りのお店ですか?』

「駅の反対側に十分ほど歩いた所にある」

『今度行ってみます』

「そうか、きっとアイツも喜ぶ」

『先生の知り合いのお店ですか?』

「ああ、そうだ」


あまり感情を表に出さない冨岡先生の表情が柔らかくなったように見えた。先生にこんな表情をさせる人物がやっているお店はとても興味が湧く。何より匂いも見た目もとても美味しそうなのだ。今度学校帰りに寄ってみよう。しのぶは知ってるかな。


このままここに居たら先生のご飯の邪魔になると思い、別れを告げて元来た階段を降り始めた。ポケットからスマホを出し、すぐに「かまどベーカリー」を検索する。そのお店はすぐにヒットして地図とHPが出てきた。

あ、本当だ。学校の最寄り駅からそんなに遠くない所にある。

【主婦やサラリーマンに人気なのはもちろんの事、学生にも大人気】って凄いなぁ。放課後に行ったらほとんど売り切れちゃってるかなぁ。

【父親が亡くなった後を息子が継いでいる。とても明るくて良い子。パンも美味しくて最高!】

【長男の炭治郎くんが明るくて優しくて、毎回たくさん買ってしまう!】



炭治郎……?





「リュウさんはずっと雪が降っている匂いがします。絶え間なく綺麗で、静かで、暖かい。まるで涙みたいだなって」



すぐ耳元で聞こえた声に足が止まる。
バクバクと鼓動が早く走り出し、スマホを持つ手が震えた。


『なに、今の…』


冨岡先生でもない、もっと幼く、だけど凛々しさと強さのある声。辺りを見渡しても他には誰も居ないのに、やけにはっきりと聞こえた。…きっと下の階に居る人の声が反響したんだ。ここは静かだから余計に響いて聞こえただけだ。


自分にそう言い聞かせてまた一段降りようと時、足を着いた先は階段ではなく、土へと変わっていた。ハッと顔を上げれば昔ながらの日本家屋が佇んでいて、鴉が頭上で鳴いている。もうすぐ日が沈む夕暮れ。夜が来る。行かなきゃ。どこに?守らなきゃ。誰を?戦わなければ。どうして?

もう誰も死なせない為にーーー


オニ ガ、クルヨ」



目の前が真っ白になって視界がグラつき、手からスマホが滑り落ちた。体を支える力は無くなり、そのまま廊下へと吸い込まれるように倒れ込む。遠くで冨岡先生の声が聞こえた。






ああ、どうして。

こんなにも寂しく、満たされない。


「ずっと雪が降ってる匂いがします」

「まるで涙みたいだなって」



私は泣いていたのかな。
ずっと、あの日から。









「顔色が悪いな」

『そんな事ないですよ』

「寝不足か?」

『…少し、』

「食べたらすぐ寝ろ」

『義勇さんが逃げ出さなければそうします』

「…わかった、逃げない」



見かけによらず頑固で、そして天然で抜けているところがある。自分でこうだと決めたら譲らないけど、好きなものの前では小さく笑う人。

知ってる。
この不器用で優しい人を。



「助けて下さり、ありがとうございます!!」

『お礼を言うのは私の方。みんなを守ってくれてありがとう』

「いえ!守ってもらったのは俺の方なので!」



同じく優しくて真っ直ぐで譲らない君のことも。


知ってるよ。









目を開けると、真っ白なカーテンに包まれた真っ白なベッドの中に居た。自分の部屋ではない消毒液の匂いが漂う無機質な空間に、ここは保健室だと徐々に覚醒していく頭の隅で思う。

どうしてここに居るんだっけ。
私はさっきまで冨岡先生と屋上の踊り場でパン屋さんの話をしてて、それで…何かを聞いた気がする。聞いた事のあるような声に意識が飛んで……


「目が覚めた?」


凛とした声が聞こえて目を向けると、ベッドの脇に心配そうにこちらを見るしのぶが座っていた。その白い肌はこの部屋だと飲み込まれてしまいそうで。まるでさっき見た光景の続きみたいに思えて余計に不安が侵食する。

そうか、さっきのも夢だったのかな。雪が降る夢はよく見るから、その延長線なのかもしれない。今日は朝から良くない夢を見たからきっと気が滅入ってしまっていたんだ。


「冨岡先生がここまで運んできたのよ」

『そうだったんだ…あとでお礼を言わなきゃ』

「顔色が良くないわ。今日は早退した方がいいと思う。先生には私から話すから」

『うん…』

「リュウ?」

『いつも同じ夢を見るの』

「夢…?」

『雪の中を走ってる夢。でも今日は初めて誰かのお葬式をしてる夢だった』


しのぶがキュッと口を引き結ぶ。
前に弟の話をした時と同じ、どこか寂しそうな表情。どうしてそんな顔をするのか分からなかったけど、しのぶなら何を話しても受け入れてくれるような安心感があった。


『ボロボロに傷ついた人が布団に横たわってて、手を握っても氷みたいに冷たくて』

「うん、」

『凄く…大事な人だった、気がするの』

「うん…」

『顔は見えないのに』


変だよね、と私が笑うとしのぶは首を横に振って困ったような顔をした。揺れる髪からカナエ先生と同じ花の匂いがする。それだけで不安になってた気持ちが治まっていく。夢にしてはあまりにも現実味が帯びてて、錯覚を起こしてしまいそうだったから。冷たい感触が今も残り、震える私の手にしのぶの手がゆっくりと重ねられる。まるで陽だまりみたいに暖かかった。


「大丈夫、誰も居なくならないよ。みんなここに居るからね」

『…しのぶも?』


うん、と頷く姿をみて何だか泣きそうになった。肯定してもらえる事がどれだけ嬉しい事なのか痛いほど知ってる。


「ずっと雪が降っている匂いがします」


その通りなんだと思う。
きっと今も降ってる。
だからただの夢だと完全に否定する事が出来なかった。
この雪が止む時は来るのだろうか。
どうして止まないのか、分からない。
分からないの?本当に?

自問自答が脳内で混ざり合う。



今日もし、またあの夢を見たら現実には帰って来れなくなるような予感がした。


沈んで、沈んで、

落ちてしまってそこから抜け出せなくなったとしても、きっと私は受け入れるだろう。

そこが本当の居場所だとでも言うように。







反芻



何度繰り返しても、同じ手を離すと思う。
















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